第14話 優しさ
美術室へ向かう途中、一度教室を覗いてみた。
開きっぱなしの後方の戸から中を覗き込むと、足音が耳に届いたのか、中にいた一人の女子生徒が振り向いてこちらを見た。目が合った彼女の表情が、やたら驚いていたようだったのが少し不思議だったが、深く考えている余裕はなく、素早く視線を走らせる。
女子生徒の立つすぐ脇にある八木の机には、鞄が置かれたままだった。ほっと息を吐く。まだ八木は学校にいるらしい。それを確認してから、すぐにまた廊下を歩き出した。
突き当たりにある曲がり角を曲がったところで、前方から誰かが歩いてきているのに気づいて、顔を上げた。向こうもこちらに気づいたらしく、腕時計を見ていたらしい視線を上げ、俺を見る。
目が合って、少しどきりとした。菅原だった。
部活の途中で抜けてきたのか、ジャージを着て片手にはタオルをぶら下げている。おそらく、教室になにか忘れ物でも取りに来たのだろう。
菅原がちょっと迷うように、歩く速度をゆるめたのがわかったが、俺はなにも気にしない振りをして目を逸らした。そのままの歩幅で前へ歩いていけば、それだけで菅原はなにか悟ったように、黙ってこちらへ歩いてきた。
一対一の状況で、あからさまに菅原を無視するのは初めてだった。
まるで菅原の姿など目に入っていないように、横を通り過ぎる。そうすることに、とくに痛みも覚えなかった俺はやはり薄情なのだろう。ただ、指先がひどく冷たかった。
美術室のある北校舎は、特別教室ばかりが並んでいるため、元々訪れる人は少ない。さらに放課後となればもう完全に静まりかえっており、自分の足音がやたら大きく響いている気がした。
いくつもの並ぶ戸の中、美術室の戸だけが開いていた。しかし、中に八木の姿は見あたらなかった。名前を呼んでみたが、返事はなかった。
もしかしてすれ違いになったのだろうかと思い、もう一度教室へ戻ろうとしたが、やはり思い直し、今度は昇降口へ向かった。
教室へ行けば、またすれ違いになってしまうかもしれない。それなら下駄箱にまだ靴があるかどうかを確認して、あったら昇降口で待っていれば、すれ違いになる心配はないだろう。
北校舎から昇降口へ向かうには、中庭を突っ切るのが一番近道だ。スリッパのまま外へ出るのは禁止されているけれど、今回ばかりは見逃してもらうことにして、一旦校舎を出る。それから、東校舎のほうまで長く伸びている生垣の横を歩いていこうとして、ふと足を止めた。
「……あ?」
生垣の中に、なにやら見覚えのある紺色が埋もれている。まさかと思いながら、明らかに場違いなそれを引っ張り出してみれば、思った通り、先ほど八木の鞄の口から見えた、手袋だった。
すぐ脇には、もう片方も落ちていた。拾って、軽く汚れを払う。生垣に引っかかっていたおかげで泥に汚れてはいない。
なんでこんなところに、と怪訝に思ったが、上を見てみれば、不思議なほどすぐに察することができた。
この場所のちょうど真上に、俺たちのクラスの教室の窓がある。その窓が一つだけ、大きく開け放たれていた。真冬の夕方、誰がわざわざ冷たい風を中に取り込もうなどと考えるのか。
思えば、さっき教室に一人残っていた女子生徒は、八木と菅原のことをとくに気に食わなさそうにしていた子の一人だった。そして彼女が立っていたのは、八木の机の側。あの子の席は、八木の席とは近くないはずなのに。
子どもっぽいことするなあ。ぼんやりと思いながら、俺はその、拾った手袋を眺めた。編み目が細かく、飾りっ気はないけれど、丁寧に作り込まれているのはよくわかる。なんだかとても、八木らしい手袋だと思った。
また少し、指先から熱が逃げる。
振り払うように、ぎゅっと握った手袋を、制服のポケットに押し込んだ。踵を返し、再び美術室へ向かう。
八木が教室に戻っていたなら、手袋がなくなったことにも気づいたはずだ。そうしたら、当然探しに来るに決まっている。しかし中庭に人影はないから、きっと八木はまだ教室には戻っていない。
そんな結論に至って、俺は北校舎に戻った。階段を上る。薄暗い廊下には、相変わらず人っ子一人いない。美術室の戸は、まだ開いていた。
ここまで八木が憎いのなら、きっとあの子も、結構本気で菅原のことが好きなのだろう。
頭の隅で、そんなことを思う。じわり、冷たさが広がる。知らず知らずのうちに早足になっていた。
美術室には、やはり八木の姿は見あたらない。中に入り、八木ちゃん、と呼びかけようとしたところで、かすかに物音が聞こえた。音のしたほうへ目をやれば、横の準備室の戸が開いていた。
「八木ちゃん?」
呼んでみると、ふたたび物音がした。やはり準備室の中からだった。
覗いてみれば、まず、床に派手に散乱する画板が目に飛び込んできて驚いた。そして、その中央に、座り込んで、ぽかんとこちらを見ている八木がいる。
「……何やってんの」
どういう状況なのかわからず、とりあえず尋ねる。
八木は驚いたように、清水くん、と呟いた。それから、恥ずかしそうにへらっと表情を崩して
「あの、ここ、雪崩が起きちゃって」
「まあ、それは見たらわかるけど」
言うと、八木はますます恥ずかしそうに笑って、「あ、そ、そうだね」と早口に頷く。
「ここで何してたの」と質問を変えれば
「先生に、画板を美術室まで運んでほしいって頼まれたんだ。それで持ってきたら、ここに画板がいっぱい積んであったから上に重ねたんだけど、置いた場所が悪かったみたいで、置いた瞬間、だだーっと……」
「ああ、うん、よーくわかった」
聞いているだけでその光景がはっきり浮かんできて、苦笑する。それから遅れて、八木が見つかったことに対する安堵がこみ上げてきた。
「捜してたんだよ」
ため息混じりに呟けば、八木は不思議そうな顔をした。「え?」と聞き返されたのは聞こえなかった振りをして、とりあえず散乱する画板を片付けることにする。
八木の横に座り、画板を拾っていくと、「あっ、ありがとう清水くん」と、八木が慌てたように礼を言ってきた。俺は、うん、と頷いて、あとは黙々と片付けに徹した。
元通り、画板を棚の上に重ね終えると、八木はもう一度「ありがとう、清水くん」と言った。
――ありがとう。八木から、もう何度言われたかもわからない言葉だった。いつもは気にもしなかったその言葉が、今日はいやに耳に残る。
こみ上げた冷たい衝動を抑えつけ、いつものように、いいよ、と笑顔で首を振れば、八木はまるで、俺の考えていたことを見透かしたかのようなタイミングで
「本当に、清水くんにはお世話になりっぱなしだね」
そう言って、柔らかく笑った。そしてまた、ありがとう、と続ける。
「ありがとう」なら、菅原より俺のほうが言われた回数は多いんじゃないか、なんて愚にもつかないことを、ちらっと考えた。
だって菅原は、八木に感謝されるようなことなんて滅多にしてこなかったはずだ。八木のために何かする、なんて、菅原はしたことがあるのだろうか。
だけど八木は、それでもよかったらしい。菅原は、何もしてくれなくたって。
「八木ちゃん、ずっとここにいた? 俺、ちょっと前にも一回来たんだけど、八木ちゃんいなかったみたいだったけど」
「あ、じゃあ多分それ、トイレに行ってたときかも」
ああなんだ、トイレか。脱力してため息をつくと、八木は笑って、ごめんね、と言った。床に座り込んでいたため埃がついていたのか、スカートの裾を軽く払う。それから顔を上げて
「じゃあ、帰ろっか」
と言われたので、頷いて、準備室を出た。
電気のついていない美術室は薄暗く、相変わらず静かだった。そのせいで、考えるより先に口から零れていた、「手袋」という呟きも、しっかり八木に拾われてしまった。
え、と八木がこちらを見る。
「手袋が、なに?」
聞き返されて、なぜか言葉に詰まった。さっき拾ったんだ、と、そう言ってポケットの中のものを渡せばいいだけのことなのに、どうしても言葉が出てこない。
渡したくないのか。ふとそんなことを思って、困惑した。渡したところで、どうせ明日には俺の手に戻ってくる。そう思うのに、俺は思わず、いや、と首を振っていた。
「なんでもない」
言うと、八木はなにやら勘違いをしたらしく
「大丈夫、ちゃんと作ってるよ。もうすぐ完成するから、多分、明日には渡せるかも」
いつもより、少し早口な口調だった。俺は足を止めた。しかし八木は気がつかなかったようで、歩きながら、清水くんにはね、と奇妙に明るい声で続ける。
「たくさん優しくしてもらったから。せめてものお礼になればって」
たいしたものじゃないんだけど。そう言ってはにかむ八木の言葉が終わらないうちに、俺は手を伸ばしていた。
俺より少し前にいた、八木の手首を掴む。
振り向いた彼女は、きょとんとした顔で俺を見た。目を丸くして首を傾げる、その仕草に怯えの色だとかはみじんもなくて、よけいに胸の奥にはどす黒い感情が広がる。掴んだ手に力を込めてみても、八木は不思議そうに俺の顔を見つめるだけだった。
それもそうか。ふっと、心の中で自嘲する。
俺は優しいから。八木が大好きな彼の近くへ行けるように世話を焼いてやって、困ってたら助けてあげて、泣いてたら慰めてあげて、“清水くん”は、そういう人間なのだから。
「――ね、八木ちゃん」
嘘みたいに頼りないその手首が、これ以上力を込めれば折れてしまうのではないかというほど、掴んだ右手を強く握りしめた。
いっそ折れればいい。真っ黒な衝動に取り憑かれて、彼女を思い切りこちらへ引き寄せようとしたら、そこでようやく八木は表情を引きつらせた。まっすぐに俺の顔を見つめていた八木の目に、すっと怯えの色が混じる。
後退りをするように彼女の足が動きかけたのがわかったけれど、そんなことは許さずに、強く腕を引く。八木の抵抗なんて、どうってことない。これでも、結構力は強いほうなんだよ。少なくとも、八木が思っているよりは、ずっと。そう示すように力を込めたら、完全に彼女の表情は怯えたものに変わった。満足して、にこりと笑いかける。
「八木ちゃんはさ」
優しい。さっき彼女が口にした、その言葉を反芻する。
笑ってしまう。優しさなんて、全部その先の見返りが目当てでしょう。まあ八木の側には、沙代ちゃんだとか航だとか、心の底から八木を気遣ってくれる、本当の優しい人もいたけど。ごめんね、八木。
「俺のこと、どう思ってるの」
俺はそんな、出来た人間じゃないんだ。
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