第6話 視線
翌日から、さっそく“それ”は始まっていた。
八木ほどではないが、菅原の登校もいつも早い。なんでも、もう一本遅い電車になると人が多いので、いろいろと面倒らしい。なにがどう面倒なのかということは、またなんとも腹の立つ答えが返ってきそうなので聞かずにいるが、だいたい想像はつく。
今日も、俺が登校したとき教室にいたのは八木一人だった。そして俺の次に教室に入ってきたのも、昨日と同様、菅原だった。
「お、おはようっ」
思い切り緊張した様子で、八木が菅原へ声を掛ける。「おはよう」と返した菅原の声は、昨日と違ってどこか甘かった。あいかわらず菅原は、こういう使い分けが上手い。
菅原は自分の机に鞄を置くと、すぐにこちらへ歩いてきた。それから当たり前のように八木の隣の席に座る。八木はぽかんとして、そんな菅原の行動を見つめていた。
俺はいつものように八木の前の席に座っていたけれど、ここは退いたほうがいいのだろうかと考えていると
「八木って、いつもこんな早くに来てんの?」
菅原に尋ねられ、八木は「あっ、う、うん」と思い切りどもりつつ頷いた。さっきまで無造作に机の上に置かれていた彼女の両手は、今ではしっかり膝の上で握りしめられている。
「なんで? こんな寒いし、まだ真っ暗なのに」
「あ、えっと、夜は眠いから、朝早く来て、勉強しようと思いまして」
身体は菅原のほうを向いているが、顔は軽く伏せ、とくになにも広げられていない机の上を睨んだまま、八木は答える。見れば、髪の間から覗く耳まで赤くなっていた。
「なんで敬語なの」
菅原が笑って指摘すると
「あ、ご、ごめんなさい」
八木は強張った表情のままひどく真剣に謝るので、菅原はよけいに苦笑していた。
しばらくして航と沙代ちゃんが登校してきたので、邪魔者は退散しようと思い、立ち上がって二人のもとへ向かった。
その途中ふと視線をずらした先に、女子が三人固まってなにやら話しているのが目に入った。彼女らが見ているのは、八木と菅原だった。不思議そうに首を捻りつつ、三人はひそひそと言葉を交わしていた。
二限目は移動教室だった。例の三人は移動の途中で八木をつかまえ、菅原とのことを尋ねていた。先ほど不思議そうに話していたのもこのことだったらしい。
「ねえねえ、八木さんってさ、もしかして菅原くんと付き合ってるの」
声量を落とすこともなく堂々と聞いてくるその子に、八木はちょっと困ったような顔をしていた。頷いていいのだろうか、とまだ悩んでいるようで、八木は遠慮がちに小さく肯定する。女子たちは、へええ、と長い感嘆の声を上げてから
「すごいねえ。うらやましいな」
と、あまりそんなふうには聞こえない口調で、羨望の言葉を口にした。むしろ羨望というより、哀れみや貶みの色が混じるようにも見える表情で、
「でもちょっと大変そうだよね、菅原くんと付き合うって」
「もてるしねえ。八木さん、気をつけなよ、いろいろと」
「頑張ってね」
それぞれそんな言葉を残し、八木から離れていった。彼女たちから話しかけられた直後は照れたように笑っていた八木の表情が、今は微かに強張っているのが、離れた場所からも見えた。
その次の休み時間だった。八木の席に、俺と沙代ちゃんが集まっていると
「なんだろ、あれ」
ふいに沙代ちゃんが眉を寄せて、教室の入り口のほうを目で示した。沙代ちゃんが、あれ、と示したほうを見てみれば、入り口のところに、これまた三人の女子生徒が固まって会話をしている姿があった。全員上級生のようだ。
彼女たちは、明らかにこちらを見ていた。こちらというより、真っ直ぐに八木を見ている。そのうちの一人に見覚えがあったので、おそらく菅原の過去の彼女かなにかだろう。
「なんかこっち見てない?」
そう言って沙代ちゃんが不快そうに顔をしかめたので、八木が慌てたように
「ごめんね。多分、私を見に来たんだと思う。沙代は関係ないから」
しかし沙代ちゃんは、八木の言葉によりいっそう顔をしかめた。
「なんで郁美を見に来るの。まさか、菅原くんの彼女がどんなもんか見に来たってわけ?」
「そうだと思う」
心当たりがあるのか、八木はわりとはっきりした調子で頷いた。沙代ちゃんは、怒ったように少し頬を紅潮させて
「なーんか嫌な感じね。あたし、言ってこようか。じろじろ見るなって」
と言って立ち上がった。直後、八木がぱっと沙代ちゃんの手を掴んだ。驚いたように振り向いた沙代ちゃんに
「いいよ、そんなことしたら沙代まで睨まれちゃうかも。私、気にしてないから」
ありがとう、と微笑む八木を、沙代ちゃんは眉を寄せて見つめた。それから、ふっと俺のほうを向くと
「ねえ清水くん、ああいう人たち、菅原くんになんとかしてもらえないのかな。菅原くんがやめろって言えばやめるでしょう」
沙代ちゃんの言葉に、八木の表情が少し強張るのがわかった。そうだね、と呟いて、自分の机に突っ伏して寝ている菅原のほうへ目をやる。すると八木が、あの、と急いで声を上げた。
「私、本当に全然気にならないから。だから、菅原くんにはなにも言わなくていいよ」
ひどく必死な声だった。なんだか気の毒にすら思えたけれど、俺は軽い調子で、わかった、とだけ頷いておいた。
沙代ちゃんのほうを見れば、彼女はさらに強く眉を寄せて八木を見つめていた。しかし結局、沙代ちゃんもなにも言わなかった。
放課後、菅原が鞄を提げて八木の席へ近づくと、教室にいるクラスメイトたちからの視線が二人のほうへ集まった。
「八木、俺部活行くけど、どうする?」
八木はなにを聞かれたのかよくわからなかったらしく、「え?」と首を傾げていたので
「先帰っとく? 残っとくような用事もないだろ」
菅原はそう質問を続けた。八木はしばしぽかんとしていたが、ようやく自分のいる位置づけを思い出したのか
「う、ううんっ、待っとく!」
と、意外なほどはっきりした答えを返した。菅原は、そっか、と柔らかく笑うと
「じゃあ待っててな。部活、六時までだから。どこにいる?」
「えっと……教室か、図書室にいる、と思う」
「わかった。まあ終わったら連絡するから」
じゃあな、と言って菅原は教室を出て行った。その背中を、八木はなんだかぼうっとした表情で見送っていた。
沙代ちゃんが近寄ると、八木はようやく我に返ったように顔を向けた。
「あ、ご、ごめんね沙代。私、今日は一緒に帰れな」
「わかってるわかってる。全然いいから」
沙代ちゃんは八木の言葉を遮って首を振ると、
「それより、一緒に待っててあげられなくてごめん。あたし、今日は早く帰らないといけなくてさ。六時まで暇でしょう。なにしてるの?」
「そんな、大丈夫だよ、全然。勉強してるから」
そんな会話を交わしていたので、俺は二人のもとへ近寄って、言った。
「俺が一緒に待っててあげよっか。どうせ暇だし」
沙代ちゃんはすぐに笑って「あっ、じゃあお願いね清水くん!」と俺の肩を叩いた。それから、「え、悪いよ、そんな」と慌てる八木を残して、さっさと教室を出て行った。
教室には四、五人の騒がしいグループが残っていたので、俺たちは図書室で待つことにした。
「ごめんね。別に、一人でも全然平気だったんだけど」
八木は本当に申し訳なさそうに言うので、笑って、いいよ、と返した。
「どうせ暇だし」とさっきと同じ言葉を繰り返してから
「ああ、心配しなくても菅原が来る前に俺は帰るから。お二人の邪魔はしませんよ」
付け加えると、八木は「そ、そういうわけじゃないけど……」と困ったように呟いた。
朝のこともあったので、きっと沙代ちゃんは心配だったのだろうな、と思う。例の怖い上級生たちに八木が絡まれるのではないかとでも思ったのだろう。
「八木ちゃん、よかったね」
改めてそう言えば、彼女は照れたように笑って、小さく頷いた。ちっとも気持ちのこもらない言葉でも、ひどく優しく聞こえることが不思議だった。
「あの、清水くん。こういうの、迷惑じゃないかな」
八木はうつむいたまま、ぽつんと言った。なにを聞かれたのかわからず、「こういうのって?」と聞き返すと
「部活終わるまで待ってるのって。さっきは何も考えないで、待ってるって言っちゃったんだけど、やっぱり先に帰ったほうがよかったのかな。菅原くんも、部活終わりで疲れてるだろうし……」
「や、大丈夫だよ」
俺は即座に答えた。菅原は感心するほど体力があるようで、部活のあとだろうとしょっちゅう他校まで足を運んでいる。女の子のためなら多少の疲れは感じないらしいから、気にすることはない、なんてことはさすがに言えなかったので、
「嬉しいと思うよ。待っててもらうって」
とだけ言っておいた。八木は、そっか、とほっとしたように笑った。
六時十分前に、そろそろ帰ると告げて立ち上がった。八木は顔を上げると、付き合ってくれてありがとう、と礼を言った。首を振ってから、鞄を肩に掛ける。
「じゃあ八木ちゃん。頑張るのだよ」
そう言って手を振ると、八木は顔を赤くして笑った。
俺は出口のほうへ歩いていった。図書室にいるというのに、本を読むでも勉強をするでもなく、小声でなにやら話し込んでいる三人組の女子生徒のほうへ近づく。そのうちの二人は、朝、わざわざ教室まで八木を見に来た女子たちだった。八木は気づいていたのだろうか。
「え、嘘でしょ。本当にあの子?」
小声だろうと、図書室は静かなので、近づけば彼女らの声はしっかり耳に届いた。嘲るような響きの声だった。「らしいよ」と別の女子生徒が頷く。
「えー、なんで。今までと全然レベル違うくない?」
「ね、謎だよねえ」
「あれじゃないの。友達のほうに近づいてさ、うまいこと取り入ったんじゃない」
潜めた笑い声が、静かな図書室に響く。
さすがに、八木に直接聞こえるように言うといったあからさまなことはしないらしい。それでも、誰のことを噂しているのかということはなんとなくわかるくらいの距離で、こういった話をするという陰湿さに、なんだかちょっと感心する。
三人のうちの一人が、ふっと俺のほうを見て「ねえ、ちょっと」と低い声を出した。残りの二人もぱっと口を噤んでこちらを見る。まずい、というような顔をしてすぐに目を逸らした彼女たちの横を、俺はただ黙って通り過ぎた。
なにも、気づかない振りをして。
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