第5話 愚かな恋
始発電車で日が昇る前に登校すれば、いつものように教室には八木だけがいた。
しかし今日の八木は勉強道具を広げることもなく、手持ち無沙汰に椅子に座っており、俺が来るのを待っていたのか、教室に入るなり彼女と目が合った。
少し驚いていると、おはよう、と八木はいつもより早口に言った。俺も、おはよう、と返そうとしたが、八木が待ちきれないように、あのね、と言葉を続けるほうが早かった。
「昨日メールしたよ。菅原くんと」
昨日予想していたとおりの、嬉しそうな笑顔と弾む声だった。
「おお」
短く声を上げる。よかったねえ、と笑顔で言いながら、八木のほうに身体を向けて前の席に座った。
八木は、うん、と大きく頷くと
「ありがとう、清水くん」
微かに頬を染めて、照れたように笑った。バレンタインのときと同じ心底嬉しそうなその笑顔は、俺の知っている彼女の表情の中で一番魅力的だと、頭の片隅でちらっと思う。なんだか穏やかな気持ちになって、いいよ、と首を振ってから
「どんなメールしたの?」
そう尋ねれば、八木は話したくてたまらないといった様子で、えっとね、と喋り出した。
「最初は明日の宿題について聞いたんだ。そしたら英語のプリントがあるって教えてくれて、それと、言い忘れてたけどチョコおいしかった、ありがとうって。それで、よかった、こちらこそ食べてくれてありがとうって返して、そしたら今度は、あれ手作り? って来たから、うんって返して、それから」
八木はすべてのやり取りを覚えているらしく、二十通ほどのメールの内容について逐一教えてくれた。本来なら一往復で終わるはずの、宿題の有無を尋ねるメールからここまで続けるとは、と改めて菅原に感心していると
「あ」
唐突に八木が話を止めて、小さく声を上げたので、俺はぼんやり机の木目を眺めていた視線を上げた。八木は俺を通り過ぎた背後を見ている。俺も振り返ってみると、ちょうど菅原が教室の戸をくぐるところだった。
俺はいつものように、おはよ、と声を掛けようとしたが、
「お、おはようっ、菅原くん!」
それより先に八木があからさまに緊張した声を上げたので、俺は驚いて彼女を見た。
八木のほうから菅原へ声を掛けたことなんて、今まで一度もなかった。見れば、八木は明らかにいっぱいいっぱいといった表情で、それでもなんとか菅原から目を逸らさないよう努力しているのがわかった。相当勇気を振り絞ったらしい。
菅原も少し驚いたようだったが、すぐに笑顔を浮かべると
「おはよ、八木」
柔らかな声で挨拶を返した。それだけで、八木の表情はなんとも幸せそうに解ける。頬をますます赤くしてから、目を伏せてはにかんだ。
菅原はそんな八木を、なんだか小さな子どもや小動物を愛でるかのような目で眺めてから、ふっと俺のほうを見た。苦笑するような、それでも好意を寄せられるのは悪い気はしないといった様子で少しだけ笑って、菅原は俺にも、はよ、と言った。
見慣れた菅原の表情だった。それを確認してから、俺も彼に同じ言葉を返した。
昼休みに航と食堂へ行くと、奥のほうの席に八木と沙代ちゃんが座っているのを見つけた。他に空いている席が見あたらなかったので、一緒に座っていいかと尋ねると、二人は快く頷いて椅子に置いていた荷物をのけてくれた。
「郁美が、今日は朝からテンション高くてさ」
沙代ちゃんが悪戯っぽく笑って言うと、正面の席に座る八木は、少し顔を赤くして笑っていた。相変わらず航は鈍感に、「なんで?」などと聞いてきたので
「昨日菅原とメールしたんだって」
短く説明すると、航はなんだか戸惑ったような目をした。彼が戸惑う理由はよくわかったけれど、俺はなにも気づかない振りをして、ねえ八木ちゃん、と話しかける。こちらを向いて、うん、と聞き返した八木に、いいこと教えてあげる、と前置きしてから
「菅原の誕生日、もうすぐなんだよ。三月の十五日だから」
覚えといてあげてね。そう言うと、八木は慌てたように手帳とボールペンを取り出した。「三月の十五日」と繰り返しながらページを捲り、しっかり菅原の誕生日を書き込む。
それを眺めながら、沙代ちゃんは、へえ、と呟くと
「じゃあホワイトデーの次の日なんだ。ていうか菅原くんが三月生まれって、なんか似合わないね」
「前から思ってたけど、沙代ちゃん、菅原に容赦ないよね」
笑いながら言うと、沙代ちゃんははっとしたように八木のほうを向いて
「ごめん、別に菅原くんが嫌いなわけじゃないよ」
と、まったく説得力のない言葉を急いで付け加えた。八木は、苦笑して頷いていた。
「でもさ、郁美、菅原くんのどこが好きなの?」
さっき謝ったばかりだというのに、またずばりとそんな失礼なことを尋ねる沙代ちゃんに、俺も苦笑してしまった。
八木はぱっと赤くなると、しばし困ったように口ごもっていたが、やがて
「かっこいいし……あと、優しいから」
今にも消え入りそうな声で、もごもごと答えた。
沙代ちゃんは遠慮のかけらもなく、「優しい?」と怪訝そうな声を上げる。なにか言いたげな顔をしていたが、さすがにそれは思いとどまったらしい。航のほうを見ると彼もこちらを見ていたので、二人で顔を見合わせて苦笑した。
終礼で、担任が沙代ちゃんに、教室の掲示物を貼り替えてくれるよう頼んでいた。沙代ちゃんは学級委員をしているので、しょっちゅうこんな頼み事をされている。
先生は男子のほうの学級委員にも同じ頼み事をしようとしたが、あいにく彼は今日休みだった。仕方なく先生は教室を見渡す。今回運悪く目が合ってしまったのは、菅原らしかった。
「嶋本さん一人じゃ大変だろうから、菅原くん、手伝ってあげて」
それだけ言うと、菅原には反論する隙も与えず、先生は素早く「はい、じゃあ終礼終わり」と続け、起立、と号令をかけた。
礼をして、皆が一斉に鞄を抱えて動き出す中、俺はすぐに八木のもとへ向かった。
「八木ちゃん、今から暇?」
出し抜けにナンパの文句のようなことを言えば、彼女はきょとんとしながらも頷いた。
よかった、と言ってから、今度は沙代ちゃんへ声を掛ける。沙代ちゃんはすでに先生から渡された掲示物を手に、教室の後ろにある掲示スペースのほうへ歩いていくところだった。
「ねえ沙代ちゃん、今からちょっと付き合ってほしいところがあるんだけど」
こちらを振り向いた沙代ちゃんは、不思議そうに「え?」と聞き返す。
「お願い。どうしても沙代ちゃんに来てほしくて」
沙代ちゃんは、いいけど、と軽い調子で頷いてから
「じゃあ、ちょっと待っててくれる? 急いで終わらせるから。これ」
と、手の中にあるプリント類を指して言った。俺はすぐに首を振ると
「いや、駄目なんだよ。待てない。どうしても、今すぐ」
強く言い切れば、沙代ちゃんは困ったように眉を寄せる。
「なんで? ていうか、何なの、どうしたの。どこに付き合ってほしいの?」
わけがわからないといった表情で聞いてくる沙代ちゃんに、必死に目で訴えてみるが彼女には通じそうにもなかった。いつもなら微笑ましく眺めている沙代ちゃんの鈍感さも、実害が及ぶとなるととたんに鬱陶しくなる。
「いいから。掲示物は、代わりに八木ちゃんが貼っといてくれるって言ってるから」
早口に告げると、八木の「へっ?」という驚いたような声が聞こえてきたが、構わず
「ね、だから早く来て」
そこで沙代ちゃんは、ようやく俺の意図を理解したらしかった。ああ、と短く声を上げて、同じように掲示物を手に教室に残っている菅原へ目をやる。沙代ちゃんははすぐに頷くと
「じゃあごめん。郁美よろしくね」
と八木に笑顔を向けてから、急いで鞄を肩に提げた。
ぽかんとしてこちらを見つめる八木に、この前と同じように、頑張れ、と口だけを動かしてから、俺も鞄を肩に掛けた。
教室を出る前に、ちらっと菅原のほうを見てみた。目が合うと、彼はちょっと苦笑した。彼に、よろしく頼みますよ、という気持ちを込めた視線を送ってから、沙代ちゃんと一緒に教室を出た。
教室を出るなり、沙代ちゃんに小声で「察しが悪くてごめん」と謝られ、俺は首を横に振った。
ふっと教室のほうを振り返ってみる。八木と菅原の他に、残っていたクラスメイトはいなかった。今回は三分といわず、少なくとも掲示物をすべて貼り終えるまでは二人とも帰れないだろうから、結構長い時間を二人で過ごすことになるはずだ。
今更だけど、先生ナイス、と感謝の念を送っておいた。
八木から電話がかかってきたのは、その日の夜のことだった。
八木とは随分前にアドレスも番号も交換していて、メールのやり取りならたまにしていたけれど、電話がかかってきたのはそれが初めてだった。すぐに、菅原関連だということは予想がついた。メールではなく電話とは、よほどのことなのだろうかと少し心配になりながら携帯を手に取ったが、聞こえてきたのは普段より高めの、八木の声だった。
『あの、突然ごめんね』
彼女の第一声はそれだった。とりあえず、いいよ、と返してから、どうかしたの、と尋ねようとしたが、尋ねるより先に八木が間を置かず続けた。
『なんか、よくわかんないんだけど、あの』
まだ気持ちが落ち着いていないのか、上擦る声で、まとまらない言葉を必死に整理しようとするように、八木は言う。
彼女が一度息を吐くのが、かすかに聞こえた。それから、あのね、と、少しだけ落ち着いた様子で、改めて口を開くと
『つ、付き合うことに、なったの。菅原くんと』
まるで、自分の言っていることが信じられないかのような調子で、告げた。
俺は黙って天井を見つめた。今日だけでそこまで進展するとは予想外だったな、とぼんやり思う。
八木も、それだけ言ったあとは、俺の言葉を待つように黙っていた。少しの沈黙のあと、意味もなく居住まいを直してから、電話の向こうの八木へ向けて笑顔を浮かべた。
「よかったね」
自分でもちょっと驚くほど、その声は優しかった。
うん、と八木が嬉しそうに頷く。電話越しでも、声が弾んでいるのはよくわかった。俺は目を閉じてから、ねえ、と声を投げる。
「なんでそういうことになったの? 八木ちゃん、菅原に好きだって言ったの?」
八木は少し恥ずかしそうに、えっとね、と言って
『菅原くんにはばれてたみたいだったんだ。それで、ばれてるって気づいたら、私、すごく挙動不審になっちゃって、なんかもう誤魔化しもきかなくなっちゃったから、い、勢いで言っちゃった』
「え、八木ちゃんから言ったの?」
ちょっと驚いて聞き返すと、八木はきょとんとした様子で頷いた。菅原のことだから、図々しく、俺のこと好きなの、とか聞きそうだと思っていたので、しっかり八木のほうから言ったというのは少し意外だった。
「すごいじゃん。頑張ったね」
言うと、八木がへへ、とはにかむように笑うのが聞こえた。
弾むその声を聞きながら、俺は電話の向こうの彼女の表情を想像してみる。きっと、俺が一番魅力的だと思う、あの心底幸せそうな笑顔なのだろうなと考えて、それから、当分あの笑顔は見られなくなるのか、と思った。それは少しだけ、寂しいなと思う。
『清水くん、ありがとう。いろいろと』
電話の最後に、八木は心から気持ちを込めたような礼を言った。バレンタインのときも、俺にそう言った八木の笑顔を思い出した。きっと今も、電話の向こうで同じように笑っているのだろうと、手に取るようにわかる。
嬉しいのか。
あいかわらず明るい声で、じゃあまた明日、と言う八木の声を聞きながら、そんなことを思う。
この先に幸せなんて待っていないことは明白なのに、それは見ない振りをしているのだろうか。それとも、本当にわかっていないのか。
どちらにしても、八木は愚かだと思った。
「うん、じゃあ明日、学校でね」
うん、と頷く八木の声が返ってきたあと、電話は切れた。最後まで、彼女の声は弾んでいた。
だったら、これから近くで存分に見ればいいと、思う。
菅原の冷酷さも、汚さも。今まで本当に知らなかったのなら、これから身をもって知ればいい。
――そうして、泣き疲れたら、俺のところへ来ればいいよ。
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