第4話 遠い人
はいこれ、と八木に小さな紙切れを渡せば、当然ながら彼女はきょとんとして、その紙切れに書かれた短い文面を眺めた。
「菅原のメアドとー、ついでに電話番号ね」
説明すると、八木はばっと顔を上げ「へっ?!」と盛大に声を上げる。それから「なっ、な、なんで」と落ち着きなく口走る彼女に
「知りたいだろうと思って」
平然とそんなことを言えば、八木はだいぶ間抜けな顔で俺の顔を見つめた。
「とりあえずメールしてみなよ。そこから仲良くなれるかもしんないし」
構わず、無茶なこととはわかりつつも言ってみる。案の定、八木はとんでもないというふうに大きく首を振った。
「む、無理だよ! メールするような用事もないし!」
「別に、用事なくてもしていいじゃん。ほら、今度一緒に遊ぼうよー、とか」
ますます無茶なことを言ってみると、八木はぎょっとしたように、ぶんぶん首を振る。
「ぜっ、絶対無理だよ! 私、菅原くんとは全然仲良くもなんともないのにそんな、いきなりっ」
「んー、じゃあとりあえず、明日何か宿題あったっけー、とかそういう話題から入ってみたら?」
今度は結構堅実な案を出したつもりだったのに、八木は、またすぐに大きく首を振った。
「そんなの、なんで俺に聞くんだって思われちゃうよ。いきなり、ろくに話したこともないクラスメイトからそんなメール来たらびっくりすると思うし」
たしかに、と頷いてから
「じゃあさ、次の部活の試合いつ? とか。応援に行きたいんだけど、って。これなら菅原にしか聞けないし」
「でも、試合の日程って職員室のところの掲示板に書いてあるよ。そっち見ろよって思われちゃうかもしれないし……」
八木ちゃん意外とうるさいな、と思いながら、「んー、じゃあ」とちょっと妥協案を出してみる。
「八木ちゃんが送れないなら、菅原のほうからメールさせよっか。俺から送るように言うから」
しかし八木はこれにも、「いいよそんな!」とばっさり首を振った。
「菅原くんに、私にメール送ってもらうなんて、そんな、畏れ多い」
表情も口調もものすごく真剣だったので、思わず苦笑する。
「別にそんな、クラスメイトなんだし」
「うん……でも、すごく遠い人みたいな感じがするから」
それはわかるような気がした。菅原は、女の子の知り合いがそれはそれは多い。校内に留まらず、一体どこで知り合っているのかと不思議なほど、他校にもたくさんの知り合いがいた。
しかし、反してクラス内には、親しい女子は一人もいなかった。このクラスの女子たちは、菅原に対しては徹底して遠巻きにしている。嫌われているというほどではないが、皆、彼に近づけばろくなことはないとしっかり認識しているらしい。
八木なんて、まさしく菅原に苦手意識を持っていそうな子だと思っていたのに。
「八木ちゃん、菅原とメールしたくないの?」
そう尋ねると、八木は小さく呻いてから、「したいけど……」と素直に頷いた。
「なら、ちょっとは頑張らないと」
これは説得力があったらしい。八木はしばし黙ってなにやら悩んでいたが、やがて、小さく頷いた。
「そうだよね。頑張って、送ってみる」
彼女の返事に、俺は、よしよし、と頷くと
「で、結局なんて送るの?」
「……やっぱり最初だから、明日の宿題聞いたり、そういうのがいいかなって。友達には一通り聞いたけど皆知らなかった、ってことにすれば怪しくないかな」
「お、それいいね!」
即座にそう言えば、八木はちょっと安心したように笑った。しかしすぐに、あ、と声を上げ
「あの、清水くん。菅原くんは、清水くんが私にアドレス教えたこと、知ってるの」
「ああ、大丈夫大丈夫。いつでも何でも送っていいよー、って言ってた。菅原」
実際はまだ菅原には教えていなかったけれど、このあと菅原にこのことを伝えればきっと彼は本当にそう言うだろうから、まあいいだろう、と一人で勝手に結論づけていると
「そうなんだ。よかった……」
と、八木はほっと息をついていた。どうやら、より勇気が持てたようなので、よし、と心の中で頷いた。
そのあと、実際に八木の心配を払拭するために、菅原のもとへ行った。
八木にメアドと番号教えたから、と出し抜けに告げても、菅原はとくに驚くこともなく、なんだか慣れたように、おう、と答えただけだった。
「今日あたりメールくると思うけど、ちゃんと愛想良く返信してあげてね」
わかってますよ、と菅原は軽い調子で頷いてから
「しっかし珍しいこともあるもんだなあ。俺、八木みたいな子には嫌われてるかと思ってた」
「ほんと、珍しいことだよ。八木ちゃんは菅原を好きになってくれた貴重な子なんだから、優しくしてやってよ」
力を込めて言うと、菅原は少し眉を寄せた。
「貴重って、なに俺、そんなに人気ないの?」
今更そんなことを聞いてくるので、すまして「知らなかったの?」と返した。
「うちのクラスの女子たちの間じゃ、見るたび違う女の子連れてるって評判ですよ。菅原さん」
「マジで? うわ、ショック」
そう言いながらも、菅原はまったく気にしていないように笑っていた。
「実際そのとおりでしょ」
「そこまで酷くねえよ」
八木のことをどう思っているのか、とか、この先彼女をどうするつもりなのか、とか、普通ならそういう質問が続くべき流れなのかもしれなかったけれど、俺はそんなことを聞く気はまったくなかった。聞いたところで、意味のある答えなど返ってこないことはわかっていた。
そもそも、菅原の持っている答えなんて、さっき彼の言った一言の感想がすべてなのだろう。珍しい、と、それ以外はなにもないのだ。
郁美は菅原くんのどこが良かったんだろう、と、随分失礼なことを沙代ちゃんがいたって真面目な顔で呟いたので、俺は思わず笑ってしまった。
掃除の時間、いつものようにゴミ捨てに行こうとしたら、珍しく沙代ちゃんが一緒に行くと言ってきたので、どうかしたのかと思っていたが、どうやらこの話がしたかったらしい。
「意外と面食いなのかもよ、八木ちゃんって」
笑いながらそう言うと、沙代ちゃんは釈然としないような表情で首を捻った。
「そうかなあ。郁美が好きになったんだから、何かいいところがあるんだろうなって思うんだ。でも、あたしにはよくわかんなくて」
容赦ないなあ、と思いながら相槌を打つと、沙代ちゃんははっとしたように
「あ、ごめん。別に、菅原くんの悪口言ってるわけじゃないの」
と早口に付け加えた。俺は笑って、うん、と頷くと
「まあ、菅原が人気ないのはわかってるから。実際、褒められないようなことやってるし」
沙代ちゃんは苦笑してから、あたしね、と続けた。
「清水くんならよかったのに、って思ったんだ」
ふと思い出したので口にした、というような軽い口調で言われた言葉に、俺は沙代ちゃんのほうを見た。沙代ちゃんもこちらを向いて、少し寂しそうに笑うと
「郁美の好きな人。清水くんだったらよかったのになって。清水くんならすごく優しいし、大事にしてくれそうだし、郁美とも合いそうだなって思ってたんだよね。ちょっと残念だな」
俺は曖昧に笑うと、視線を前方へずらした。沙代ちゃんはなにも気づかなかったようで、まったく同じ口調のまま
「清水くんさ、郁美に菅原くんのメアド教えてくれたんだってね。郁美、喜んでたよ。頑張ってメールしてみるんだって、意気込んでた」
彼女の言葉に、ふうん、と相槌を打ったところで会話が途切れたので、出し抜けにまったく違う話題を振ってみた。
「沙代ちゃんは、何にもしないの?」
沙代ちゃんは目を丸くして、「え?」と聞き返した。
「航に。告白とか、早くすればいいのに」
彼女は一瞬だけ呆気にとられていたが、すぐに大きく首を振ると
「しないよ。するわけない。ていうかっ、なんで、あたしが紺野に――」
またそんなとぼけたことを言い出したので、「前から言おうと思ってたんだけど」と口を挟む。
「とっくにばれてるよ。わかりやすいもん、沙代ちゃん」
むしろ当人たちが気づかないのが不思議だ、と続ければ、沙代ちゃんは唖然とした顔で俺を見た。その彼女の表情に、本当に気づかれていないと思っていたのか、と改めて感心する。
「早く告白しちゃえばいいのに。絶対うまくいくと思うから」
もう一度言えば、沙代ちゃんは少しだけ黙ったあと
「しない」
と、今度は静かに首を振った。
なんで、と尋ねれば
「だってさ、菅原くんとか見てたら思うんだよ。付き合う前まではすっごく仲良くても、付き合って、うまくいかなくなって別れちゃったら、それきりになったりするじゃない。そのあとは、普通の友達にも戻れなくなりそうだし、それ、嫌だもん」
「付き合う前から別れたあとのこと考えてどうすんの」
笑ってそう返しながら、俺は、さっきの沙代ちゃんの言葉には同意していた。
――知っている。俺だって、そう思う。
沙代ちゃんは、そうだよね、と少し照れたように笑ってから、でも、と続ける。
「あたし、今は紺野と友達でいられるだけで十分だから。すごく楽しいし、とりあえずは今のままでいいかなって」
沙代ちゃんがそう言うのなら、俺はこれ以上無理に背中を押す気はなかった。沙代ちゃんが満足しているのなら、それでいいと思った。それは、八木に対するときの姿勢とまったく違うことも、俺はわかっていた。
八木には、そんなふうには思えない。八木が満足しているかどうかなんて、どうでもいいのだ。俺はただ、八木を菅原の近くまで行かせたかった。
――明日、八木はきっと、菅原と交わしたメールの内容を俺に報告してくれるだろう。
そのとき彼女が、笑っていればいいなと思う。嬉しそうに顔を輝かせ、菅原とのことを話してくれればいい。
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