第3話 ビターチョコレート
八木はその日一日中、落ち着かない様子だった。幾度となく菅原のほうへ視線を飛ばしては、すぐに、はっとしたように視線を逸らし俺のほうを見る。その繰り返しばかりだった。
菅原はといえば、休み時間のたび代わる代わる訪れてくる女子生徒から、愛想良く笑ってチョコを受け取るのに忙しそうだった。その女子生徒のほとんどが上級生で、八木はなぜか身を潜めるようにして、自分の席からその様子を眺めていた。チョコを渡しに行く気配はいっこうになかった。
結局、放課後まで八木はそんな調子で、菅原と一言も会話を交わすことのないまま彼が下校するのを見送った。
八木は、菅原が教室を出て行くのをなんだかほっとしたような表情で見ていたけれど、俺はこうなることくらい予想できていたから、八木が鞄を抱えて沙代ちゃんのもとへ歩いていく途中で捕まえた。
「はい、八木ちゃんすとーっぷ」
そう言って彼女の前に立ちふさがれば、八木はあからさまにびくりとして足を止めた。
「な、なに?」
彼女はまだすっとぼけようとしているらしかったので
「まだ渡してないでしょ、チョコ」
そう言いつつ視線をずらせば、よほど急いでいたのか、八木の鞄の口が開きっぱなしになっているのが見えた。ほら、と言ってそれを指せば、八木ははっとしたように自分の鞄を見た。それから慌てて鞄の口を閉じようとしていたが、
「もう遅いって。見えたもん。なんか赤い包みがあった」
そう言っているうちに、沙代ちゃんと航もこちらへ歩いてきた。俺の言葉に、沙代ちゃんが「え?」と首を傾げ
「なに? 郁美、チョコ持ってきてたの?」
嬉しそうに八木の鞄を覗き込む沙代ちゃんに、
「いや、沙代ちゃん残念だけど、そのチョコは食べちゃ駄目だよ。それね、沙代ちゃんにじゃなくて――」
そこまで言ったところで、「清水くん!」と八木が心底焦った声を上げて俺の言葉を遮った。沙代ちゃんはぽかんとして、俺と八木の顔を見比べている。なにも知らないらしい。少し意外だったが、彼女の鈍感さを思えば、それもそうか、とすぐに納得した。
「え、もしかして郁美、誰か男の子に」
「あ、いや、あのね、これは」
八木は混乱したように、鞄から、ちらりと見えていたあの赤い包みを取り出した。それから、まずは航のほうを見て口を開きかけたが、思い直したように慌てて口を閉じ、次は俺のほうを見た。まさか、と嫌な予感がしつつ彼女の言葉を待ってみれば、八木は思ったとおり
「これは、清水くんに! 清水くんにあげようと思って」
そう言って包みをこちらへ差し出してきた。
へえ、おお、と、沙代ちゃんと航からはそれぞれ間抜けな声が上がる。俺と目を合わせようとしていない八木から、とりあえずその包みを受け取って
「ねえ八木ちゃん、これ、ビターチョコでしょ」
唐突にそんなことを尋ねてみる。八木は驚いたように目を見開いてから、
「うん、そうだよ。すごい、よくわかったね」
「そりゃまあ、菅原、甘いもの苦手だし」
少しの間沈黙があった。八木は返す言葉が見つからないように、俺の顔を見つめたまま固まっている。沙代ちゃんと航は、またぽかんとして俺と八木の顔を見比べていた。
「悪いけど、俺、ビター駄目なんだよね」
軽い調子で言って、チョコを八木の手に戻す。ごめんね、と言ってから、
「でも、菅原は好きだから喜ぶよ。ちょっと待ってて。俺、今から呼ぶから。菅原」
言うと、えっ、と八木はぎょっとしたように声を上げた。構わず携帯を取り出し、菅原の番号を探していると、
「ちょ、ちょっと待って。あの、清水くん」
「菅原へのチョコなんだから、ちゃんと菅原にあげないと。ていうかさ、俺も、他の男へのチョコだってわかってんのに、もらっても嬉しくないし」
「え、あ、ごめん」
あっさり謝る八木に、苦笑が漏れた。そうこうしているうちに菅原の番号を見つけたので、通話ボタンを押して、携帯を耳元へ持っていく。すると八木は、さらに焦ったように「わ、待って清水くん、本当に待って!」と声を上げ始めた。俺が通話ボタンを押してしまったあとは、どうしようもなくなった八木が教室を出て行こうとするのがわかったので、すぐに航と沙代ちゃんへ声を投げた。
「航、沙代ちゃん。八木ちゃん捕まえててね」
ぽかんとしつつも、二人ともほとんど条件反射のように八木の腕を掴んだ。よし、と頷いたとき、呼び出し音が途切れ、菅原の声が聞こえてきた。
『清水?』
「あ、うん俺。菅原さ、今どこ?」
八木は口をわずかに開けたまま、呆けたように俺をじっと見ている。
『今? 交差点のあたり』
「え、もう帰ってんの? 部活は?」
『今日は休みー。やっぱみんないろいろ忙しいんじゃねえの。今日は』
ふうん、と相槌を打って、「菅原も忙しいの」と尋ねようとしたが、やめた。数日前に聞いた彼の言葉を思い出した。バレンタインに一人を選ぶと後々面倒だとかなんとか、なんとも腹の立つことを言っていたのだ。
「菅原、どうせ今から暇でしょ」
『まあ、そうだなあ』
「じゃ、ちょっと学校戻ってきて」
『は?』と菅原が聞き返すのと、「清水くん!」と八木が電話口の菅原に聞こえないよう、潜めた声を上げるのは同時だった。八木には適当に笑顔を返すだけにして、菅原へ向けて続ける。
「いいから戻ってきてよ。教室にいるから。まだ交差点なんでしょ」
『えー、めんどい。なんでだよ』
「今日は二月十四日ですよ。わかるでしょ」
言うと、菅原がすぐに納得したように、ああ、と頷いたのがなんとなく癪に障ったが、今は堪えることにする。『そういうことなら仕方ねえなあ』と菅原が言ったので、通話を切ってから
「菅原来るって」
と、八木へ言葉を投げた。八木はさらにぎょっとしたように目を見開いて、慌てて声を上げる。
「あの、あのね、私、本当にいいの。渡すつもりなんて全然なかったし」
「渡すつもりないのにチョコ持ってきたの?」
尋ねると、八木は困ったように押し黙る。そのとき、ひたすらぽかんとしていた沙代ちゃんが、ようやく、え、と声を上げて八木のほうを見た。
「郁美って、そうなの? 菅原くんなの?」
混乱しているらしく、沙代ちゃんはそんなわけのわからない質問をした。それでも八木には伝わったらしく、彼女は真っ赤になって顔の前でぶんぶんと両手を振る。
「違うの。そういうんじゃなくて、ただ、ちょっと、かっこいいなって思ってただけで……あの、清水くん、本当にいいから、やっぱり来なくていいって菅原くんに電話――」
「せっかくチョコ用意してんのに、渡さないなんてもったいないじゃん。そのチョコもかわいそうだし」
「でも菅原くん、たくさんチョコもらってたし、今更私のなんて……」
「言っとくけど、菅原のもらってたチョコって全部義理だよ。百個の義理より、一個の本命のほうが断然嬉しいものですよ。だからちゃんと渡してやってよ。菅原、喜ぶから」
もしかしたら中にはちゃんと本命もあったのかもしれないけれど、細かいことは気にしないことにしてそう言い切ってみる。すると、八木と一緒に、航も驚いたように「え?」と声を上げた。
「そうなん? 孝介がもらってたの、あれ全部義理なのか?」
「そうでしょ。みんなノリ軽かったし。菅原、顔は広いから。だから、菅原より航のほうがよっぽど幸せだね」
言うと、航はしばしきょとんとしたあとで、ようやく理解したのか瞬く間に赤くなった。なにか言い返そうと口をぱくぱくさせている。その横で、沙代ちゃんも真っ赤になっていた。それを面白く眺めてから、八木のほうに向き直る。
「わざわざ戻ってこさせたのに何にもなかったら俺が菅原に怒られるから、八木ちゃん、よろしくね」
そんな理不尽なことを言えば、八木はどうやら覚悟を決めたらしく、顔を伏せ一度小さく頷いた。
それからしばらくして、菅原がやって来た。
彼はこちらに気づくと、俺たちの顔を順番に見た。八木は今にも倒れそうなほど蒼白な顔で俯いていた。見れば微かに唇が震えている。それだけで菅原はすぐに理解したようだった。
「清水、来たけどなに」
すっとぼけてそんなことを聞いてくる菅原に
「八木ちゃんが渡したいものあるんだって」
それだけ告げて、沙代ちゃんと航に目配せをしてから教室を出て行こうとした。すると、八木が狼狽えた声を上げた。
「えっ、あの、清水くん」
行かないでと全力で目で訴えているのがわかったが、気づかない振りをして、また適当に笑顔だけ返しておく。助けを求めるようにこちらを見つめる八木に、「頑張れー」と声は出さず口だけ動かして、あとはさっさと教室を出た。菅原だし、心配することはないだろう。
教室を出る間際、ちらっと「渡したいものって?」と八木に尋ねる、菅原の、いつも女の子に接するときの甘めの声が聞こえた。
沙代ちゃんと航と三人、隣の教室で八木を待っていると、三分も経たないうちに彼女は戻ってきた。
俺たちの前に現れた八木は、さっきまでの大袈裟なほど蒼白な顔とはうって変わり、微かに頬を染め、片手で自分の口元を押さえている。
どこかおぼつかない足取りでこちらへ歩いてきた八木は、
「受け取って、くれた……」
感極まった調子で、ぽつんと呟いた。
沙代ちゃんが「よかったねー!」と自分のことのように喜んで、八木の頭を撫でるのを眺めてから、ふっと教室の戸のほうへ目をやる。菅原はやって来ない。あれ、一緒に帰る流れにはならなかったのか、と思ったけれど、すぐに納得した。
他校の、ものすごく美人な、年上の彼女の存在は知っていた。今のところ結構うまくいっているらしい。バレンタインに一人は選ばないだとか、菅原はそのあたりのことは徹底している。その彼女とも、約束を取り付けなかったくらいだ。ここまできて、八木と一緒に帰ったりするはずがない。
そんなことを考えていると、八木は俺のほうを向いて
「あの、ありがとう清水くん。清水くんがいてくれなかったら、私、絶対渡せなかったから」
そう言って心底嬉しそうに笑ったから、俺も笑って、よかったね、と言っておいた。
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