第2話 片思い
八木の片思いが、どれほど年季の入ったものかは知らない。俺がそれに気づいたのは、ほんの三週間前だった。
始発電車に乗って登校すれば、まだ空が真っ暗なうちに学校に着く。
まるで夜のように暗い廊下の奥に、一つだけ明るい光を放っている教室があった。その教室の前で足を止め、扉を開ける。中には、思っていたとおり、一人の女子生徒がいた。
「おはよ、八木ちゃん」
声を掛けると、彼女は目の前に広げた教科書から顔を上げた。それから柔らかく微笑んで、「おはよう」と返す。
まだ暖房の動いていない真冬の教室はさすがに寒かったのか、八木は学校指定のコートを着て、マフラーも巻いたまま席に座っている。
「相変わらず早いねえ」
とりあえず荷物を置くため自分の席へ向かいながら、八木にそんな言葉を投げれば
「うん。私、夜はなかなか勉強できないから、朝の早い時間に頑張るようにしてて」
「ほう。えらいえらい」
俺もそのつもりで来たのに、話し相手がいるとすぐそちらに意識が逸れてしまう。今日も八木を見た途端に勉強する気がなくなって、鞄を自分の机に置くと、八木の席のほうへ向かった。寒かったので八木に倣ってマフラーは巻いたまま、彼女の前の席に、向かい合う形で座る。
「八木ちゃん、今日誰かにあげる?」
「えっ」
かなり出し抜けな、しかも目的語を省いた質問だったが、八木にはきちんと伝わったらしい。なぜかぎょっとしたような声を上げたあと、八木の頬にぱっと朱が差す。思い切り俺から顔を逸らすと、目をきょろきょろと泳がせながら
「う、ううん、誰にも。あっ、沙代には! 沙代にはあげよっかなって思ってたんだけど、忘れちゃってて」
あからさまに上擦る声でそんなことを答えたので、俺は思わず笑ってしまった。
「八木ちゃん、嘘下手だねえ。で、誰にあげるの?」
言うと、八木の顔がさらに赤くなった。握っていたシャーペンを机の上に落として、両手を顔の前でぶんぶんと振る。心の底から焦ったような表情で
「本当に、誰にも! 誰にもあげないよ」
「でも、なーんかチョコの匂いがするけど」
「えっ」
慌てて鞄を手に取り鼻を近づける八木を、面白いなあ、となんだか感心して眺めていると、教室の後方の扉が開く音がした。目をやれば、八木の友人である沙代ちゃんが教室の戸をくぐるところだった。
「おっはよ、郁美に清水くん」
俺たちの姿を認めると、沙代ちゃんは明るく笑って片手を挙げた。俺たちも同じ挨拶を返す。
沙代ちゃんは、自分の席ではなく真っ直ぐにこちらへ歩いてくると、八木の隣の席に座った。それから、手袋だけは外して慌ただしく鞄を探り、中から一つのタッパーを取り出した。
「あのね、昨日作ってみたんだけどおいしくできたかどうか不安なんだ。一応自分で味見はしてみたんだけど、やっぱり他の人の意見も聞いておかないとって思って。ね、郁美、ちょっと試食してみてくれる?」
沙代ちゃんの手にあるタッパーには、一口大に切り分けられた生チョコがぎっしりと詰まっていた。
八木は頷くと、沙代ちゃんから爪楊枝を受け取って、一つチョコを口に入れる。不安げに八木を見つめる沙代ちゃんに、八木はにっこりと笑みを浮かべ
「すっごくおいしいよ。お店で売ってあるチョコみたい。すごいよ、沙代」
答えを聞いた沙代ちゃんの顔に、ぱっと満面の笑みが満ちる。ほっと大きく息を吐くと
「そっか、よかった! あ、清水くんも食べる? ハッピーバレンタイン」
「え、俺へのチョコってもしかしてこれ? 包装してくれないの?」
「うん、ごめん。時間なくて。でもほら、好きなだけ食べていいから。あ、郁美もいっぱい食べてね。こんなにたくさんあるし」
差し出された爪楊枝を受け取りつつ、何気ない調子で尋ねてみる。
「沙代ちゃん、そんなに航へのチョコのラッピングに時間かけたの?」
ばっと顔を上げた沙代ちゃんの頬が、みるみるうちに赤く染まっていくのを、俺は面白く眺めた。
「は、はあ?!」と思い切り裏返った声を上げ、沙代ちゃんは意味もなく立ち上がる。
「な、なにそれ、なに言って、そんなわけないっていうか、な、なんで紺野なのっ?」
「あ、沙代ちゃん。航が来た」
「えっ」
俺が指さした方向を、沙代ちゃんが勢いよく振り返る。後方の戸から航が教室に入ってきたところだ。
航はこちらに目を留めると、すぐに中央に据えられたチョコに気づき、嬉しそうに駆け寄ってきた。
「うお、うまそう! なにこれ、すげえな。八木が作ったのか?」
「ううん、沙代が作ったんだよ」
「へ? 嶋本?」
八木から返された言葉に、当然のようにチョコへ伸ばしかけていた航の手がぴたりと止まる。沙代ちゃんのほうはといえば、真っ赤な顔で鞄を探っているところだった。長いこと鞄の中を漁ったあとで、ようやく、意を決したように沙代ちゃんは一度息を吐いた。中から小さな包みを取り出す。リボンで丁寧に口を結ばれている、可愛らしい包みだった。
「あげる!」
沙代ちゃんは顔を伏せたまま、包みを掴む右手を航へ向けて突き出す。目の前に差し出された包みを眺める航の顔も、すぐに真っ赤に染まった。面白い。俺は笑わないよう必死に堪えながら、二人を見守っていた。
恥ずかしさに耐えかねたのか
「バレンタインだしさ、ちょっとチョコ作ってみようかなって思ったの。そしたら、びっくりするほどおいしくできたから、これは皆に配らないとって思ってね! だから紺野にも」
いつものように、沙代ちゃんがいらぬ言葉を続けている。しかし、差し出されたチョコだけで歓喜に満ちている航の表情は変わらなかった。
「さ、さんきゅ」
航はそれだけ返すのが精一杯だったようだ。ほっと息を吐く。こういうとき、航のほうも照れ隠しにいらぬ言葉を発してしまうことがよくあるのだ。
航は両手でしっかりとその包みを受け取ると、気恥ずかしさに耐えられなくなったのか、沙代ちゃんの顔も見ないまま自分の席へと戻った。沙代ちゃんも同じだった。
「あ、えっと、あたし、トイレ行ってこよっかな!」
微かに裏返った声で告げ、沙代ちゃんは八木の机の上に広げたタッパーをそのままに早足で教室を出て行った。あからさますぎる。俺は苦笑しつつその背中を見送って、八木のほうに向き直る。すると、てっきり俺と同じように苦笑していると思っていた彼女が、真剣な表情で教室の前方を見つめていたので、少し驚いた。
八木の視線の先を辿る。いたのは、教室の戸をくぐる菅原だった。
「あ、菅原。おはよー」
とりあえずそう声を掛ければ、菅原は眠たそうな声で「おーす」と返した。航のようにチョコに目を輝かせることはなく、菅原はまっすぐに自分の席へ向かい、椅子に座るなり机に突っ伏す。視線を戻せば、八木はまだ菅原のほうを見つめていた。
数秒の後、ようやく我に返ったように、八木が俺のほうへ視線を戻す。目が合った途端、八木の表情に、しまった、という色が浮かぶのを眺めながら、俺は口角を上げた。きっと俺は、にっこりではなく、にやりと笑っていたのだろう。俺の笑顔を見た八木が、ますます困った表情になったので。
「ね、八木ちゃん」
平静を装おうと努力はしているらしいが、「な、なに?」と、しっかり上擦ってしまっている声で聞き返す八木に、
「わかっちゃった。俺」
悪戯っぽい笑顔のままで、続ける。
「え、な、なにが」
まだとぼけようとしているらしい八木を、いいからいいから、と適当にあしらって
「そういうことなら、俺、すっごい協力してあげられるよ。まかせなさい」
力強く言い切って、なにか言いたげに俺の顔を見つめる八木の肩を、ぽんぽんと叩いた。
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