アンチ・ロマンティック

此見えこ

本編

第1話 泣き顔

 もう飽きたなあ。

 ぼんやりと思いながら、目の前で赤く染まっていく彼女の目元を眺めた。



 こうなることは、全部わかっていた。

 八木と菅原が別れたことは、昨日すでに菅原のほうから聞いていたし、それよりずっと前から、二人がうまくいかないことはわかっていた。そのとき八木が俺のもとへ来て、こうして泣くことも。

「別れちゃった、の。ごめんなさい」

 早口に告げられた彼女の言葉に、ごめんなさいって何のことだろう、としばし考えた。それから理解する。八木が菅原をいつも目で追っているのに気づいたのは、沙代ちゃんよりも先に、俺だった。その恋は、見ているだけで終わるはずの、完全な片思いだった。八木はきっとそれを理解していて、その上で菅原を想っていたのだろう。

 だけど俺が、そうさせなかった。八木一人ならどうにもならなかった恋も、俺があれこれ手を焼けば、二人が付き合うところまでもっていくのは案外容易だった。しかし二人にとっての問題はその先だということも、俺はわかっていた。わかっていた上で、世話を焼いた。八木が傷つくように、菅原との仲を取り持った。

 もちろん八木はそんなことは知らない。だから俺に報告して、謝らなければならないと思ったのだろう。


 窓の外に視線を飛ばした彼女の瞳には、すでに涙が溜まっている。なにか言葉を続けようとしているが、喉が震えてうまく声にならないようだった。

 俺はそんな彼女を、黙って見つめていた。今まで何度も見てきた光景だった。俺のやることは決まっていた。菅原のせいで泣く彼女に、優しい言葉をかけて、慰める。当然今日も、そうしなければならないはずだった。そうするつもりだった。なのにどうしてか、なにも言葉が出てこなかった。


 俺が黙っている間に、目の前の細い肩が震え出した。あわてたように片手が上がって、彼女の口元を覆う。そんな仕草を見ていることすら耐えられなくて、俺は思わず目を逸らした。ひどく息苦しい。

「ごめんなさい」と、八木がふたたび口にした。その思い詰めた声をこれ以上聞いていたくなくて口を開けば、喉からは思いがけなく低く冷たい声が押し出された。

「――で?」

 指先が冷たい。え、と聞き返してくる八木からは目を逸らしたまま、続ける。

「なに? 俺に慰めてほしいの」

 視線を戻せば、八木が驚いたように俺の顔を見つめていた。一拍置いて、ぶんぶんと大きく首を振る。拍子に、彼女の右目から涙がこぼれ落ちた。


 ただひたすらに、身体の奥が冷たかった。

 信じていたことが、今、目の前で裏返されていくのを眺める。きっと俺はもう、菅原と普通に接することはできない。菅原がどんなやつかということは、よく知っていた。その上で好きだった。この高校に入学してからずっと、友達でいた。八木が彼を目で追っているのに気づいてからも、二人が付き合いだしてからも、何度も彼が八木を傷つけて泣かせていても、変わらなかった。

 だけどもう、今はひたすらに、彼が憎い。


「ねえ八木ちゃん」

「ん?」

「どっちから言ったの? 別れようって」

 そう尋ねたとき、八木の目がさっと翳るのがわかった。しばし言いづらそうに口ごもったあとで、八木は小さく「私から」と答えた。それも予想できていたことだ。八木が決まり悪そうにしているのは、俺が菅原との仲を取り持ってやった人物だからだろう。

「ごめんなさい」

 責められているとでも思ったのか、また八木はそう言った。俺はなにも言えなかった。


 あちこちから隙間風が吹き込んでくる廊下は、ひどく寒い。八木が手を置いている窓枠も、とても冷たそうだった。それでも八木は、縋るように、窓枠から手を放そうとしない。かすかに赤くなっている彼女の手を眺めながら、あの手袋はどうなったのだろう、とぼんやり考えた。菅原に届くことがなくなったのなら、また俺のほうへ回ってくるのだろうか。

 身体の奥に沈み込む冷たさが増す。正体の掴めない、冷たさだった。

「八木ちゃん」

 振り払うように口を開く。今度は、いつものように笑えた。

「俺の胸で泣きますか」

 先ほどまでとは打って変わって明るい、いつもの俺の声だった。八木の顔に、ほっとしたような笑みが広がる。

「……泣かない」

 八木がくすくすと小さく笑う。それでも、その声はやはり涙声だった。

 八木を笑わせるのは得意だった。それが俺の役目だった。そして俺は、それで満足していた。菅原が泣かせたなら、次は俺のところへ来て笑ってくれれば、それだけでよかった。それだけでうれしかった。だから菅原は、八木を泣かせてくれればいい。そして俺に慰めさせてくれればいい。今日がなにより、そうしなければならない日のはずだった。


「ごめん、ね、清水くん」

 笑ったと思ったのはほんの束の間で、八木はまたすぐに顔を伏せ、震える声でそう言った。なにが、と聞き返せば

「清水くん、せっかく、いっぱい協力してくれたのに。私、清水くんに迷惑かけっぱなしだね」

「いいよ、べつに」

 できないのは、イライラしているからだ。イライラしているのは、ちょっとうんざりしているからだ。いい加減に飽きてしまっただけだ。菅原のせいで、菅原のために泣く、八木を見ていることに。菅原が憎いのも、こんなにも真っ黒な感情が膨らんでいるのも。

 ――ただ、それだけのことだ。

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