第8話『先輩と後輩』

 一度アパートに帰り入浴と睡眠を済ませた後、昼を回ったところで花邑はなむら和也は研究室にやってきた。いや、正確には戻ってきたと言うべきか。


 彼がドアを開けた時、研究室の中には既に天戸あまと愛里咲ありさの姿があった。


「おはよう。天戸さん、早いね」

「花邑さんの場合、本当におはようございますですよね、きっと」


 デスクのPCモニターを凝視していた愛里咲は、掛けられた声に顔を上げた。そして、大学支給の携帯端末を掲げる。


「私も今さっき来たところです。午後の講義が休講になったので」


 5インチ程のディスプレイを備えた端末には、大学からのお知らせが随時送られてくる。講義やテストに関わるものから学食のフェアまで、学生生活を円滑に送るための情報は、すべてこの小型タブレットで受け取ることが可能だ。


 また、デジタルな学生証としても機能していて、これがないと実験室などの重要施設に入れなかったりする。

 あと数年のうちには、各種情報がホログラムとして空中に表示されるようになる予定らしい。


「朝よりはだいぶマシな顔になりましたね」

「一応ベッドで寝てきたからね。本当はそこのソファで仮眠取るつもりだったんだけど、そうするとお風呂に入るタイミングがないなって思って」

「懸命な判断だと思います。ここは研究室であって、仮眠室ではないので。ちゃんと毎日家に帰ってください」


 当然だと言わんばかりに、後輩は頷いた。


「何事にもメリハリが必要だと私は思うんです。やる時はやる、休む時は休む。この境目が曖昧になると、ロクなことが起きません」

「力説するね。経験談?」


 和也はそう言いながら自分のデスク――愛里咲の隣へと向かう。アパートには寝に帰ったようなものだから、鞄は持っておらず手ぶらだ。


「え? あ、まあ……そうですね、はい」


 愛里咲の言い方はどこか歯切れが悪かった。しかし和也はそんなことを気にする様子もなく、


「でも俺の場合、研究室にいる方が落ち着くんだよね。家に帰るとなんだか違和感っていうか、自分の居場所じゃないような気になるんだよ」

「それは帰る頻度が少ないからでは?」

「どうだろうなぁ。天戸さんの言うとおりなような、違うような……。あれだね、卵と鶏どっちが先かってやつ」


 和也が笑顔で言ったセリフに、愛里咲はがっくしとうなだれた。


「ん? 俺、なにか変なこと言ったかな」

「変と言いますか……頭、痛い……」


 こめかみを押さえる仕草を見せた天戸愛里咲だが、気を取り直したように顔を上げた。


「わかりました! ここは花邑さんにとってホームというわけですよね? なら、バリバリ研究を進めてください! さあ、さあ!」


 不自然なまでに元気になった後輩が、和也を椅子に座らせ、両肩を上からグイグイと押す。


 突如食らった指圧に驚きながらも、先輩はPCの電源を入れた。


 足元に置かれているPC本体に手を伸ばすため、必然的に前かがみになり。だから花邑和也は聞き取ることができなかった。


「(そう。あなたには、ちゃんと研究を続けてもらわないと)」


 一転、真面目な顔になった天戸愛里咲が呟いたその言葉を。


「天戸さん?」

「えっ? な、なんですか!?」

「いや、あの……そろそろ手を離してくれないと、作業ができないなって」


 和也の指摘に、己の手を見やる愛里咲。

 数瞬の空白が時を支配し。そして――。


「……っ!!」


 ババッ! と音を立て、愛里咲は手を自らの背後に回した。


「コホン……なんのことですか?」

「その誤魔化し方はさすがにどうなんだろう」

「なっ!? ご、誤魔化してなんてないです。花邑さんの見間違いでは?」


 そう言いつつ和也の顔をまともに見られないあたり、愛里咲の性格が表れている。彼女が研究室に所属して一月以上。感情の機微がわかり始めている先輩であった。


「妙なことを言ってないで、花邑さんも早く作業を――」


 天戸愛里咲の声をかき消すように、研究室のドアが開かれた。


「あー、つっかれたー……ねえ、もう帰っていいかなー……」

 見るからにぐったりした様子で部屋に入ってきたのは、高清水たかしみず舞衣。


 しかし、朝方の和也とは異なり、漂っているのは健康的な疲労感だった。


「舞衣。誰に対して言ってるのかわからないけどお疲れ様」

「お疲れ様です舞衣さん。部活ですか?」


 二人から掛けられたねぎらいの声に、舞衣は片手を上げて応える。


「そうそう。って言っても個人練習だけどねー。大体の部員は、講義が終わった夕方から参加するから」

「舞衣みたいに、研究室に所属しても部活に出続けるのがそもそも少数派だけどね」

「あたし、命かけてるから! 部活に」


 大げさに胸を張る部活戦士だったが、彼女の言い分は一笑に付せないところがある。


「そこまで言うなら、強化指定選手の話断らなきゃ良いのに」

「いや、だからさー、カズには何回も説明してるでしょ? あたしは部活と研究を両立する。そう決めてるって」

「まあ、確かに何度も聞いてるけど……」


 折角誘いが来ているのなら乗るべきではないか、というのが和也の考えだった。


 強化指定選手となれば、これまで以上にレベルの高い環境で魔導戦競技に触れることができる。めったにない機会をふいにするのはもったいないと感じているのだ。


 だが当の本人の考えは硬いようで、彼の説得に耳を貸さぬまま今に至っている。


「強化指定選手になれば、やはり練習もきつくなるものなんですか?」

「みたいだねー。魔導戦競技協会が開く合宿にも参加しなくちゃいけなくなるから。ココに来れる時間はもっと減るかな。その代わり、日本代表に選ばれて世界選手権へ! みたいな未来も近付くっぽいけど」


 愛里咲の疑問に、高清水舞衣はさらりと答える。どうやら随分と調べてはいるらしい。


「強化指定選手に選ばれて、しかも勉強とか研究もバッチリこなしてる人だっているとは思うよ? でもあたしは……あたしには、そこまでは無理かなーって」


 からからと笑う、帝英大学魔導戦競技部のエース。その曇りなき笑顔を見て、なにか言いかけた愛里咲も口をつぐんだ。


「ごめんごめん。なんか湿っぽくなっちゃったねー。とにかく! あたしは今のまま頑張るよ。部活と研究室どっちも大切だし、あたしなりに両方こなしてみせる!」

「舞衣さん……」


 疲労でぐったりしていた人とは同一人物だと思えない輝き。その光にあてられたのか、愛里咲の顔にも笑みが浮かび上がった。


「あっ。そういえば私、舞衣さんが練習しているところ見たことがありませんね」

「そうだっけ? じゃあ今度見にくる?」

「良いんですか?」

「うん。全然大丈夫。むしろ見学は大歓迎だよー。ついでに体験入部も大歓迎」


 舞衣の笑みが、ニヤリとしたものに変化した。


「い、いえ、さすがにそこまでは。見せてもらうだけで十分です」

「そっかー。リーサの運動神経ならいけると思うんだけどなー。まあでも強制するものじゃないし。見学してみて、気になったらいつでもあたしに相談してくれて良いからね?」

「あはは……。もしそうなったらお願いします」

「うんうん。仲良きことは素晴らしきかな。学生諸君が仲睦まじいようで、私は非常に満足だよ。いや本当に」


 ──突如。

 この場にいないはずの人物の声がした。


「ん? どうしたんだいみんな、そのように固まって。私のことは気にせず続けてもらって良いんだぞ?」


 チャコールグレーの女性物スーツを着こなした飛良ひらいづみが、入口付近の壁に寄りかかり、学生たちを眺めていた。


 その手には大きめのビニール袋が下げられている。


「ちょっ、ちょっと! いつからいたんですか! 飛良先生!」


 最初に言葉を発したのは天戸愛里咲だった。続けて、花邑和也も呆れた声を零す。


「まったく気配がなかった……」

「今さっきだよ今さっき。いやなに、部屋の中から楽しそうな声が漏れてきていたから、邪魔しないようにそっと侵入してみたわけだ」


 腕を組み、得意げな担当教官。

 三人の学生たちは再び言葉を失った。今度は、驚きではなく呆れによるものだが。

 いづみはそんな教え子一同に高らかに告げた。


「ほら、みんな仲良く、今日のノルマを早めに終わらせてくれ。歓迎会が待っているよ」


 言いながら飛良いづみがビニール袋から取り出したのは、日本酒の一升瓶だった。

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