第二章
第7話『一山越えて』
ガナーズドライブの起動&運用実験が成功してから数日。
研究室は、教官であるいづみがやってくるのが大概午後である都合上、開くのが自ずと昼前後。従って午前中から大学を訪れるメンバーは皆無だ。
――ただ一人を除いては。
「これで飲み物は間に合いますよね」
朝七時。大学近くのコンビニエンスストアに、
途中、菓子コーナーでチョコレートを買うことも忘れない。
研究室に所属しているとはいえ、愛里咲は二年生である。研究以外に、受けなくてはいけない講義がまだまだ多い。そして彼女は、卒業に必要な単位を二年終了時までにほぼすべて取得するつもりだった。
和也曰く『絨毯爆撃』。魔導科学部早期攻略作戦に参加する爆撃機乗りの朝は早いのだ。
「これ、お願いします」
「はい、いらっしゃいませ」
レジに立っているのは若い女性店員だった。歳は愛里咲と同じくらいだろうか。金髪と碧い瞳が目を引く麗人だ。
「今朝も早いのですね。最近はどうですか? 研究は」
「うーん。特に大きな変化はないですね。この間ちょっと大変なことはありましたけど、なんとか乗り切りましたし」
「そうですか。重畳ですね」
他に客がいないこともあり、二人は世間話をする。
愛里咲が帝英大に入学して以来だから、もう一年以上の付き合いだ。店員と客。コンビニという空間ではあくまでその関係にすぎないが。
「相変わらず甘い物には目がないのですね。板チョコ五枚って……」
「い、良いじゃないですか。好きなんだから」
「はいはい」
甘党の言葉を軽く受け流しながら、女性店員はチョコレートのバーコードを読み取る。付き合いの長さ故か、扱いも手慣れたものだ。
「お会計894円です。でも歯はしっかり磨いてくださいね。虫歯が原因で身体に力が入らない、などということもあるようですから」
「わかってますよ。はい1004円」
「1000と4円、お預かりいたします」
受け取った金額を打ち込む様は実にスピーディーだ。キャッシャーからお釣りを取り出し、レシートとともに愛里咲へ差し出す。
「110円のお返しです。くれぐれも、健康には気を配ること」
「だからわかってますって」
半ばうんざりしながら、天戸愛里咲はお釣りとレシートを受け取った。女子大生にしては簡素なダークブラウンの長財布に仕舞うと、商品の入ったビニール袋を持ち上げる。
「あなたも倒れたりしないでくださいね、店員さん」
「ふふっ。ご忠告感謝いたします」
言いながら、女性店員は1000円くらいの価値がありそうなスマイルを作った。そして、自動ドアへ向かって歩き始めた愛里咲に対し、
「次のお話を楽しみにしていますね」
「……楽しめる話になるように努力します」
笑顔を崩さず告げられた言葉に、愛里咲は肩をすくめながら応じた。
同じ頃、
春の風が木々を揺らす気持ちの良い気候にも関わらず、和也の顔に覇気はなく、目蓋も今すぐに落ちそうだ。
かろうじて足元はしっかりしているものの、背中を丸めたその姿からは、不健康オーラが惜しげもなく放出されていた。
「ふぁ、ああぁ……光が目に染みる……俺このまま消えるのかな」
そのような状態だから彼は、前方から近づいてくる人物に気付くことができなかった。視界には映り、認識はしていたはずなのに。反応できなかった。
「吸血鬼じゃないんですから、人間は日光で消え去ったりしません」
和也の正面に“立っていた”のは、トートバッグとコンビニ袋を手に下げた天戸愛里咲だった。
「天戸、さん? ……あれ? もう一限始まる時間だっけ」
「まだです。でも図書館は開いてるので、少し勉強しようかと。それより花邑さん、なんですかその顔。不幸キャラにイメージチェンジですか?」
「不幸キャラって……別にそんな役どころは狙ってな……ふああぁぁ……」
言葉の途中で大欠伸が飛び出した。
まったく説得力のない先輩の姿に、愛里咲はガクリと頭を垂れる。
「いったいなにをどうしたら、そんな疲れきった顔ができるんでしょう……。目の下のクマ、ひどいですよ」
「え? そんなに……?」
驚いたつもりだった。しかし、和也の表情はほとんど変わったように見えない。
せいぜい、「寝落ち寸前」が「寝ぼけ眼」に変化したくらいの差である。
「ただのクマじゃないですね。エゾヒグマくらい危険なのでは?」
「あー、それは危ないね。いつ襲われて倒れてもおかしくない」
瞳にエゾヒグマを伴う男が、覇気のない返事をする。
天戸愛里咲は大げさに溜め息をついて、
「むしろ一度倒れて医務室に運ばれてください」
「手厳しいなぁ……」
「そんなことでもないと、無茶な生活を改めない気がしたので」
鋭い言葉を次々と言い放った。だが、見えないナイフも和也には突き刺さらなかったようで。
「なぜだか、気が付くと研究室で朝を迎えてることが多いんだよね。大丈夫、“無理”は……ふわあぁぁ……してないから」
「“無理”と“無茶”の違いを引き合いに出す時点で、全然大丈夫じゃないと思います」
心底呆れた声を出しながら、しかし愛里咲は笑みを浮かべていた。彼女自身無意識だったようで、驚いたような表情を見せる。
「……まったくもう。ドライブ絡みの実験は一山越えたと言うのに、花邑さんはとんだ研究バカですね」
「否定はしない。でも、俺が打ち込めるものって、魔導科学の研究とか技術開発ぐらいだからさ。思いっきりやりたいことができる今の環境は好きだし、感謝してるんだ」
「感謝、ですか」
「うん。いづみさんと舞衣、勿論天戸さんにもね。研究室は一人で作れる場所じゃないから」
いつ眠りの世界に落ちてもおかしくない状態にもかかわらず、先輩研究生は笑った。
そう。確かに笑ったのだろう。少なくとも天戸愛里咲の目には、彼が笑っているように映った。
「はぁ……敵わないですね」
後輩の零したその呟きは、はたして花邑和也の耳に届いたのか。
柔らかな春の風が二人の間を吹き抜けていった。
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