第2話『若き有望株の日常』

 帝英大学魔導科学部。花邑はなむら和也や天戸あまと愛里咲ありさが在籍するこの学部は、魔導科学分野において全国随一の教育機関だ。同時に、比類する所なき研究施設でもある。


 国策として魔導科学の研究発展に着手し、はや五十年。その歴史は魔導科学部の歴史と言っても過言ではないだろう。常に国内の研究を牽引し、今や諸外国からも熱い視線を向けられるまでの存在。魔導科学部に入学することとはすなわち、将来の日本を背負って立つ希望となるのと同義だった。


 そんな前途有望な天戸愛里咲と花邑和也が並んで歩く様はしかし、他の学生たちとは少々趣が異なる。


 研究棟の廊下を行く二人を、遠巻きに眺める者多数。理由はなにも、ガナーズドライブ設計者と使用者の間に妙な緊張感が漂っているから、というだけではあるまい。


「移動するだけで視線の雨に晒されるのは、そろそろ勘弁願いたいところなんだけどね」

「そんなのは私も同じです。こちらに来てまで好奇心の的になるなんて、思ってもみませんでした」


 小声で言葉をかわす和也と愛里咲。二人の顔には、大いなる苦悩と若干の諦めが張り付いていた。


「ま、夏前には落ち着くんじゃないかなぁ。もうしばらくの辛抱だよ」


 研究室の担当教官・飛良ひらいづみのお気楽な言い方に、愛里咲は口を尖らせる。


「先生、なんの慰めにもなってません。夏前ってあと二、三ヶ月もあるのでは?」

「あっという間だよ、きっと。この一ヶ月、どうだった? 息つく暇すらなかったんじゃないかい?」

「プライベートの時間がなかなか取れない、という点には同意します。まさか研究生活がこれ程肉体と精神を酷使するものだとは、想像してませんでした。一限の講義室が寝室と化してしまったら、飛良先生に責任を取ってもらわなくては」

「学部長に掛け合ってあげたいのはやまやまだけど、それをやると酒を買う金が入ってこなくなっちゃうからねぇ。世知辛い世の中だよ本当に」


 大げさに肩を竦めるいづみ。まったく世知辛そうに見えないが、彼女は准教授という雇われの身分だ。雇い主である大学に首を切られる可能性はゼロではない。もっとも、いづみの実績を評価してくれる場所はいくらでもあるだろうが。


「そう言えば天戸さん、二年生だったね。まだ一限とか二限の講義結構あるのかな」

「週に四日は一限ありですね。その分、午後の講義は少なめですけど」


 午後に講義を入れていないのは、研究室での時間をできる限り多く確保するためだろう。愛里咲にとって、基礎となる勉強は勿論のこと、身に付けた知識や技術をフル活用する研究が、なにより重要であるらしい。


「なるほど。去年絨毯爆撃を華麗に決めた一年生がいたって聞いたけど、確か天戸愛里咲って名前だったっけ」

「絨毯爆撃……なんですかその物騒な言われようは。微妙に腹立たしいです」

「『微妙に』に収まる怒気じゃない気がするんだけど……」


 和也の背中を冷たい汗が流れた。


「ただの例えだよ。手当たり次第に取れる講義をすべて取って、朝から晩まで月曜から金曜まで、隈なくスケジュールを埋めていく様を揶揄……箔を付ける言い方で」

「今揶揄と言いましたよね? しかもわざわざ韻を踏んで誤魔化しましたよね? 変なところに頭を使わないでください」


 愛里咲の双眸がぐっと鋭くなる。視線だけで和也の身体に絨毯爆撃を仕掛けられそうだ。そんな様子を、いづみはニヤニヤしながら眺めている。今度こそ身の危険を感じた和也だったが、予想外のところから救いの手が差し伸べられた。


「あーっ! 動作実験、やっぱりもう終わっちゃってたかー。でもみんなとすれ違いになるよりはマシかな」


 救世主は、曲がり角の向こうから駆け足でやってきた。


「舞衣……。助かった」

「なにかおっしゃいましたか? 花邑さん」

「いえ、なんでもないですはい」


 反射的に謝りながら、和也は心の底から安堵していた。


 そんな彼を不思議そうな瞳で眺めているのが、高清水たかしみず舞衣。和也と同学年で、同じ研究室に所属する女子学生だった。ショートカットの茶髪、スカートではなくデニムパンツを着用しているところから、活動的な印象が伺える。


 舞衣は、次に愛里咲へと顔を向けると、


「どしたのリーサ。顔怖いよ? こめかみのところの血管、浮き出そうだよ?」

「少々、腹に据えかねる出来事に巻き込まれまして。それより舞衣さん、私はリーサではなく愛里咲です」


 渋い顔から困った表情へと変化する愛里咲。しかし舞衣は、抗議の声などまるで意に介していない口調で告げる。


「んー、リーサが駄目ならアリーとか? あとアリッサ」

「ことごとく外国人風の呼び名になるのはなぜなんでしょう……。私は愛里咲です、天戸愛里咲」


 必死の訂正も虚しく、舞衣はうんうんと次の名前案を考えている。愛里咲は、諦めと不条理の溜息を大きく吐き出した。


 その隣でいづみの呟きが漏れる。


「アリッサ……アリッ……アテッサ。……なあ花邑大先生、アテッサ買ってくれないかい?」

「大先生じゃないですし買いません。嫌ですよ、アテッサってアホみたいに高い腕時計じゃないですか。学生の俺には無茶な買い物です」

「お、あの時計を知っているとはやるねぇ、花邑」

「知らない想定で話振ってきたんですか。あなたの方がもっと無茶だった……!」

 和也は天を仰いだ。しかしそこには神も仏もいない。

「たとえ学生でも、バイト代で手が届く範囲の代物だよあれは。なに、オメガやタグホイヤーを買えと言っているわけじゃない」

「比較対象がおかしいです。と言うか、学生でも手が届くならいづみさんは余裕でしょう」


 今日日、大学教授陣の権威はピンキリだが、それでも支払われる給与は一般人が羨む額だ。国が力を入れている魔導科学分野ならなおのこと。いづみの場合准教授とはいえ、実績を鑑みれば同世代のサラリーマン以上の収入があってもおかしくなかった。


 しかしいづみ本人は物憂げな顔になり、


「酒代が経費で落ちれば、腕時計の一本や二本で悩むこともないさ……」

「さすがに冗談ですよね? どれだけお酒につぎ込んでるんですかっ?」

「……純米吟醸・純米大吟醸は高いんだよ。いや、単に高ければ良いというものでもないのだが、値が張る酒はことごとく美味いから困る」


 この世の摂理を訴えるかのように、いづみは憂いの視線を向けてくる。


「うちの研究室を守る騎士様も、私の懐までは守ってくれないのか……」

「なんですか騎士って」


 大先生といい、表現が大仰である。


「そのままの意味だよ。花邑に限った話じゃないが、君たち学生がいてこそ研究室は成り立っているんだ。教員一人では場所を守ることすらできない。所属する学生がいなくなった瞬間、お取り潰しさ」


 特にこの分野の研究は成果を横取りしたい連中がいくらでもいるからね、といづみは付け加える。その言葉どおり、魔導科学分野の研究・開発は各所がしのぎを削っている現状だった。


 中には、あらゆる手段を講じてでも結果を出そうとする者たちもいるのである。


「それにだな、金のことなら花邑も人のことを言えないだろう。毎週のように、コーヒー豆買いに都心まで出てるじゃないか。交通費も馬鹿にならないわけだし、せめてまとめ買いすれば良いものを」

「長い間保管してると、新鮮度が落ちるんですよ。一週間くらいで飲みきれる量を買ってくるのが一番なんです。もっとも、保存用の冷凍庫を研究室に入れてもらえれば、買いに行く頻度は低くなりますけど」

「いくらなんでも難しいなぁ。今の冷蔵庫も、研究の都合上泊まりが多いからと上を説得して、食料保存用に小さいやつを導入できたわけだから」


 ちなみに現在、その冷蔵庫には酒瓶やつまみが大量に詰め込まれている。完全にいづみ個人の私物と化していた。


「なら、こまめに買いにいくしかないですね」

「……私が言っていることも、花邑の持論と大して変わらない気がするんだけどなぁ」

「一緒にしないでください。掛けている金額が桁違いでしょう?」


 今度は天ではなく地を見つめる和也。当然神などいない。綺麗にワックスがけされた床が、光を反射しているだけだった。


 そんな和也に、不思議そうな顔の愛里咲が声をかけてくる。


「どうしたんですか? 花邑さん。口から幸せが逃げ出してますよ」

「良いんじゃないかな。逃げた幸せが誰かのところに行ってくれるなら」


 和也は苦笑しながら顔を上げた。


「そっちの議論にはケリが付いたの?」

「はい、まあ……」

「リーサと呼ばせてくれることで話がまとまったー」


 いまいち納得しきれていない愛里咲と、笑顔満開の舞衣。対称的な二人だ。半ば強引に舞衣が押し切ったであろうことは、容易に予想できた。


「そうだ舞衣、遅れてきたのは、部活の練習?」

「ああ、それねー。確かに練習が長引いたってのもあるんだけど、研究棟入ったとこで呼び止められちゃって。スルーするのもあれだし、ちょっと話してたら、うん」

「へぇ。友だちとか先輩かな?」


 舞衣は、その別け隔てなく人と付き合える性格のおかげで、多方面に友人や知り合いが多い。遊びに誘われる機会も多いが、最近は研究が忙しいせいで断らなくてはならず、申し訳なく感じているようだった。


「いやさ、それが聞いてよカズ」


 真面目な表情を作る舞衣。鳶色の瞳はなにかを訴えかけるように和也を射抜いていた。これまで何度も経験してきた状況に、和也は心の中で短く息を吐いた。


「なんと――どこかの偉い人っぽかった!」


 溜めを作ったわりに、どうにも締まらない答えだった。


「ぽいって……しかもどこかのってどこのだよ」

「さあ? なんとなく雰囲気でそう感じただけだから」


 こうなるとは予想できていたが。心構えはできていたが。和也は、今度は実際に溜め息をついた。


「あ、でも、一緒にいた人たちが『先生』って呼んでたっけ。見るからにゴマすってます、って感じだったね」

「ここで出会う先生、さらに偉い方と言うと、学部長あたりでしょうか。もしくは……まさかとは思いますけど学長?」


 愛里咲が小首を傾げる。

 彼女の疑問に応じるように口を開いたのは、顎に手を当てたいづみだった。


「思い当たる節が一つある。実験は見学しないと言っていたが、ガナーズドライブのプロジェクトそのものには大層興味をお持ちのお方がね、いるんだよ」

「大学関係者ではなくてですか?」


 和也の問いに、酒好き教官はニヤリと笑った。


「関係者といえば関係者だろうねぇ。なんと言ってもそのお偉方は、私たちの学部、いや――この大学を実質的に管理しているようなものなのだから」


 要領を得ない説明。しかしいづみは、どこか楽しんでいるようだった。一方彼女の教え子たちは、皆一様に怪訝そうな表情を浮かべている。


 三人の顔をぐるり見回し、いづみが告げた。


「防衛省魔導技術局。そこの局長だよ」

「「「…………はい?」」」


 呆気にとられる和也たち。突如語られたその名称を、理解できずに固まっていた。確かに魔導科学技術は、国を挙げて研究が進められている分野だ。その最先端である帝英大学魔導科学部は、とかく注目される存在。国内外の有識者たちが訪れるのは珍しくなかった。

 とはいえ、である。


「お偉方のレベルにも程があるのでは?」


 愛里咲が引きつった顔で言うのも無理がなかった。話をしたという舞衣に至っては、事の重大さを理解し始めたのか青ざめている。なにか失礼な口でも聞いてしまったのかもしれない。


 そんな中、和也は努めて明るい声で切り出す。


「ま、まあ、まだそうだと決まったわけじゃないんだし」


 現状で証拠と呼べるのは、いづみの証言だけだ。そのいづみにしても、不必要に大げさな物言いをして楽しんでいる節がある。


 結論を出すのは早急、というのが和也の見解だった。だが――


「ふふっ。研究室の皆さんもお揃いのようですね、飛良さん」


 背後から掛けられた落ち着いた声に、和也たち学生組がはっと振り向く。

 紺のスリーピーススーツに身を包んだ男性が、涼し気な笑みをたたえて立っていた。頬に薄く刻まれた皺の具合から、年の頃は四十代だろうか。細いメタルフレームの眼鏡が知性を際立たせている。


 真っ先に反応したのは舞衣だった。


「あっ、さっきの……」

「先程はありがとうございました。あなたが活躍されている部活動のこと、今度詳しく教えてください」

「は、はい。あたしでよければぜひっ」


 いつものように元気よく受け答えをする舞衣だったが、どこか緊張感をまとっている。先程のいづみの話を思い出しているのだろうか。


 そのいづみは、至極軽い調子で応じる。


「ははっ。やっぱりあなただったか、米澤さん」


 まるっきり、旧来の友人に対する態度である。


 だが、愛里咲と和也は自ずと背筋が伸びていた。挨拶をしようとするが声が出ない。そんな二人の代わりにという意図はまったくなかっただろうが、舞衣が疑問を口にした。


「米澤さん? どこかで聞いたような……」

「君の予想は正しかったよ、高清水。この人は米澤東光とうこう。さっき話した、防衛省の魔導技術局局長さ」


 いたずらっぽく笑いながら、いづみが紹介する。舞衣も、当然愛里咲と和也も、一言も言葉を発せなかった。沈黙がただただ時計の針を押し進めていく。


 しばらくして。物言わぬ石像たちに見つめられながら、米澤東光は盛大に破顔一笑した。

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