第99話 菊花
何処を見ても菊の花しか見えないその庭に、木の長椅子を置いて、布を敷いて……ネイと二人で腰掛けてゆっくりとした時間を過ごす。
つい先程までこの庭の主である、ネイの友人とネイがやりあっていた為に、ネイの息が切れていたりするが……まぁ、それを気にしなければ静かな時間だと言えるだろう。
「随分とまぁ仲の良い友達なんだなぁ」
菊を眺めながらなんとなしにそんなことを言うと……息を整えたネイが言葉を返してくる。
「ま、まぁ、学校に行ってた頃からの仲だから、それなりには仲良いわよ。
今は華道の先生をやってて……そのついでに趣味で菊の栽培もしてるって訳よ。
なんでもエルフの知識を借りての品種改良をやってるそうで、ここでしか見れない品種もあるそうよ。
……正直、私にはどれがどれだかなんてのは分からないのだけど」
「はぁん、なるほどね。
通りで色とりどり、見飽きない程に種類がある訳だ。
……これだけの種類の菊で菊酒をやったならどれくらい寿命が伸びるんだろうなぁ」
「……これだけの菊を前にして言うことがそれ?
アンタが長寿に……寿命のことに執着してるってのは、ちょっと意外ね」
「なんだよ、俺だって長生きはしてぇと思ってるよ。
吉宗様が始めた黒船が上手くいったなら、このお江戸も海の向こうの光景も色々と変化があるはずだ。
その変化の先にどんな世が待っているのか……長く生きて見守りてぇと思うのは普通のことだろ。
とは言え、やれ健康だ何だとこだわるのは面倒だからな……菊酒、初物、おせちなんかの縁起物に頼らせてもらうことにしてるんだよ」
「……まぁ、それはそれでアンタらしいと言えばアンタらしいのかしら。
長寿……長寿か。私はそれよりも商売繁盛の縁起を担ぎたいところね」
「今でも十分繁盛しているだろうに、まだ足りねぇのか?」
俺がそう言うとネイは、半目での睨みを効かせてきてから……視線を何処か遠くを見るかのような方向に移動させて、言葉を返してくる。
「足りない、全然足りないわ。
上様の計画が上手くいって、世界と江戸の港が繋がったなら、今度は世界を相手に商売をしなくちゃならないんだから……今のままじゃ規模も人でも蔵の大きさも、何もかもが足りないわ。
……だから私にとっては商売繁盛の縁起の方が大事なのよ」
「はぁん……そうかい。
ならまぁ、何かそんな機会があったらネイの商売が上手くいくように祈っておくとするさ。
……っていうか、あれだ、商売繁盛ってなら猫を飼ったら良いんじゃねぇか? 昔から猫は福を招くっていうじゃねぇか」
「それは食べ物とか蚕とか、ネズミに商品を齧られたら困る人達が担いだ縁起でしょ。
うちには引っ掻いたり棚から落とされたりしちゃ困る商品が多いし……猫はちょっとね」
「ああ、それもそうか……」
なんて会話をしていると、ネイの友人が二つの茶碗を乗せたお盆を手に、こちらへとやってくる。
「はい、うちで作った菊花茶よ
摘みたてのを使って作ったから、驚く程に美味しいわよ」
そう言って菊模様の着物と、団子のようにまとめた髪という姿をした友人はそのお盆を俺達の方へと差し出してくれて……俺達は礼を言いながら茶碗を手に取り、小さな菊の花が浮かぶ白湯といった様子のそれを、ずっと口に含む。
「お、香りが凄いなこれ」
「本当に……びっくりするわね」
口に含んだ瞬間、菊の香りがいっぱいに広がって、少しの苦味があって……なんとも言えない、独特の味わいがするその茶を飲んでいると、ネイの友人……さっきのやり合いの仲でネイに、サキと呼ばれていたその女性が、ネイの隣に腰掛けながら説明をし始める。
「摘花って言って、育ちの悪い小さな花はさっさと摘み取っちゃうんだけど、それをただ捨てるのも勿体ないとなって、お茶にすることにしたのよ。
摘み取ったら近くで火をおこして、その熱風だけを送って当ててやって、乾燥させたら完成で、しっかり保存しておけばいつでもその香りが楽しめるの。
菊花茶は喉や目に良いとかで、そっち目的で口にする人もいるし、香りと味が目的で口にする人もいるし……売ると結構な良いお金になるのよ」
そんな説明を受けながら菊花茶を飲み干した俺は「なるほどねぇ」と言いながら茶碗を置く。
するとネイとサキが半目になって俺へと冷たい視線を向けてきて……俺はその視線に怯みながら「な、なんだよ」と一言を口にする。
「何だもなにも……もっとゆっくり楽しみなさいよ。
そんな一瞬で飲み干しちゃうなんて……」
「風情の楽しみ方を知らないというか、やっぱり男の人ってそうなのねー」
ネイとサキはそんな言葉を続けてきて……俺は肩をすくめながらその言葉を受け止めて、受け止めながらも視線を逸らし、改めて菊の花を見やる。
綺麗は綺麗で、圧巻とも言える光景で……これだけの光景を作り出すにはどれだけの苦労があったのかと思わされて……たしかに凄いと思う。
菊花茶だって丁寧に作っているのだろうし、香りはすごかったしで、大したものだと思うのだが……ネイ達曰く風情の楽しみ方を知らない男としては、やはり秋となれば菊よりも――――。
と、そこで腹がぐうと鳴る。
菊花茶で刺激されたのか何なのか、その音は結構な大きさで……俺は腹を撫でながら秋の味覚を思い浮かべる。
「俺としちゃやっぱ栗だよなぁ。
そのまま食うのも良いし、米に混ぜても良い、茹でてもまぁ良いし焼いても良いし煮ても良いし……甘く味付けるのも悪くない。
栗より美味いなんて言われている薩摩芋よりも、やっぱ俺は栗だなぁ」
するとネイとサキは、同時にため息を吐き出し、同時にやれやれとお首を左右に振り……同時に『これだから』との声を上げる。
何もそこまで狙ったかのように息を合わせなくてもと俺が呆れる中……ネイは小声で「もう少しだけ待ってなさい、後で美味しい栗料理のお店連れてってあげるから」とそう言ってから、菊の花へと視線をやって、菊花茶を少し口に含み……口の中と目の前に広がる菊の花のことを、堪能し始める。
するとその隣に座ったサキはなんとも満足そうに微笑みながら頷き……微笑んだまま菊の花の方へと視線をやって……そうしてネイとサキが満足するまで、菊の節句の菊の花鑑賞が行われるのだった。
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