第3節 病み上がりと獣の訪問

「さようなら、リトアーユ。気が向いたら、迎えに来てあげてもいいよ」


 過去をたどる旅の最後に見た記憶は、今も鮮明に残っている。

 優しくささやかれる残酷な言葉に、幼かった自分は絶望した。


 すぐにエルディスは部屋から出て行った。

 威圧感がなくなってホッとひと息をついたと同時、嫌な予感が拭えない。ドアに駆け寄ってみる。


「……!」


 いつのまにかドアには鍵がかかっていた。

 いくらノブを回しても扉を叩いても開かない。


 父は自分の言ったことを実行するつもりなのだとすぐに悟った。


「とうさん、あけて!」


 近くに人がいなければ声なんて届かないと解ってはいたけれど、叫ばずにはいられなかった。


 見つめてくる橙色の瞳はいつも冷たくて、一見優しそうな笑顔もリトには怖ろしく感じた。だから逃げ出してばかりいたのだが、そんな自分の行動がついに父を怒らせてしまったのだろう。

 謝ったら許してくれるだろうか。

 父がいないとしても、使用人達や母がまだ館の中にいるかもしれない。


「あけてっ!」


 必死な思いでがちゃがちゃと音を立ててノブを回したり手で叩き続ける。けれど、何も聞こえない。誰も来る様子はない。

 諦めきれず、リトは叫び続けた。


 最後には言葉にもならない声で叫びきった後、むせて咳き込んでしまった。


 ひどい。こんなの、ひどすぎる。

 これからどうなってしまうのだろう。こんな部屋に閉じ込められ、一歩も外に出られない。食事をするどころか、トイレだって……。


 無性に悲しくなったのに、なぜか涙は出てこなかった。


「……おれ、このまましんじゃうのかな」


 口にしてみて、余計に悲しくなってしまった。

 じわじわと恐怖が胸いっぱいに満たしていき、膝を抱えてうずくまる。


 最初はきっとお腹がすいて時間を持て余すだけだ。


 一体何日過ごさなくちゃいけないのだろう。助けはくるんだろうか。


 もう何も考えたくなかった。

 そのまま目を閉じて、意識を闇の中へ沈ませた。






 二日目、三日目……と、当時のリトはいつまで数えていただろうか。

 頭がフラフラして立っていられなくなり、ついに絨毯の上に倒れ込んでしまった。


 最後には視界もおぼろげになってきて、何も見えなくなった。あれから、どれくらい時間が経ったんだっけ。


 でもひとつだけ解ったことがある。


 屋敷の中はすでに無人だ。

 きっと、自分はこのまま誰に気づかれることもなく死ぬのだろう。


 死ぬのはこわくてたまらないけど、自分でどうにかできる状況でもないから仕方ない。

 身体のあちこちが痛くて苦しくて。そしてそれがいつまで続くのか解らなくて、どうしようもなく辛かったのを今でも覚えている。


 たすけて、と。

 心の底から信じ頼れる人に縋ることができたなら、どんなに良かっただろう。




 * * *




 真夜中の覚醒は気分が重かった。

 きっと夢見が悪かったせいだ。すぐに目を開ける気にはなれなかった。


 寝直すという手もあったが、眠ると再び悪夢を見てしまいそうで怖かった。


 頭痛もするし、身体全体がひどく重たい。

 幼い頃の悪夢を見たせいだろうか。まるで、ずしりとなにか大きなものにのし掛かられているような感覚だ。


「うう……」


 おかしい。頭はともかく、腹のあたりがこんなにも重いのは妙な気がする。腕だって動かせないし。

 まさか、本当になにかが自分の上に覆いかぶさっているんじゃないだろうか。


 戸惑いと不安に襲われる中、勇気を振り絞って瞼を押し開ける。

 その瞬間、リトの目に飛び込んできたのは、獣の牙と大きな口だった。


 暗い室内でも、目はある程度見ることはできる。

 よくよく見てみると、それは大きな耳を持つ巨大な狼だった。


 明かりがないから色までは判別できないが、リトの知る狼よりも何倍も大きい。

 視界の隅に見えたのは翼、だろうか。

 

 しかし、今は呑気に観察している場合じゃなかった。

 その大きな体躯たいくの狼はリトの身体に覆い被さり、至近距離で顔を覗き込んでいるのだ。


 普段からなにか企んでいるような気はしていたが、あの父親はついに魔物まで差しむけるようになったのだろうか。


「……俺を食うのか?」


 目と鼻の先にある狼の口に視線を向け、おそるおそる聞いてみた。すると声が返ってくる。


『起き抜けいきなりに失敬な。私は人など食わないよ。私が食べるのは霞だからね』


 どこか人懐っこくて、やわらかい印象を受ける低い声だった。

 敵意はないものの、肉声とはだいぶ違うような。まるで心に入り込んでくるような声だ。


 そんなことを考えていたら、不意にガシャンと陶器が割れる音がした。

 狼が長い尻尾を振って、花瓶かなにかを薙ぎ払ってしまったのだろうか。

 今はほとんど寝静まっている深夜だし、大きな音は目立ってしまう。


「物音を立てるな。気付かれるだろう」


 部屋に踏み込んでくるのは、異変に気付いたエルディス本人だろう。

 ただでさえ、あんな父親の顔など見たくないというのに。


『そう言えば、人族は夜に眠るんだったね。これだけ夜遅ければ、多少の物音で起きてくる者はいないだろう?』

「これだけ大きな音を立てれば、眠っていても気づくだろ」


 思わずツッコミを入れてしまった。

 腹は立たないけれど、どうにも人外相手だと気安く返してしまう。


 動かせない手足はそのままに、リトはため息をひとつ吐く。


 そう、おそらくこの狼は魔物ではなく精霊。しかも人の言葉を話すことのできる、中位精霊に違いない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る