第4節 6番目と7番目の扉
唐突に、ぐらりと視線が傾いた。
「……っ」
息を詰めたのがすぐに解る。
俯いて立ち止まり、服の上から胸を押さえているようだった。
「リト?」
近づいてくる足音が聞こえてくる。
でも視界には、強く胸を押さえる自分の手しか見えない。
身体の調子が良くないようだ。
もしかすると、これが病気の発作だったりするのだろうか。
立っていられなくなったのか、記憶の中のリトは壁に体重を預けながら座り込んでしまったようだった。
「リト、少し休む?」
すぐ近くには、翼の少女が自分を見つめていた。
長い藍色の髪を高く結い上げた、薄藍色の翼をもつ
まっすぐに見つめてくる目は濃い藍色で、心配そうにこちらを見ている。
発作による痛みか、それとも苦しみなのか。
どうやら自分は辛いようだった。
首肯すると、少女は問いを重ねてくる。
「リト、こわい?」
呼吸さえ難しいのか息も絶え絶えで、まともに話せないようだった。
なんとか頷くと、少女は鈴の音のような可憐な声で、再び尋ねる。
「そんなに不安なら、わたしが占ってあげる」
目の前で、翼の少女はにこりと笑った。
胸をつかむリトの手に、彼女の小さな手が重なる。
二人を包むのは、一瞬だけの静寂。
くすりと少女が笑う。
「大丈夫。この先に悲劇は起きない」
自信に満ちた予言だった。
当時、自分は何に不安を持っていたのか解らなかったが、言い切ってしまう少女の予言に、素直にすごいと思えた。
揺らぎのない意志の強い瞳をもつ、翼の少女。
彼女の言葉が、不安を抱いていた自分を奮い立たせたのは間違いない。
「わたしの占い、当たるよ?」
首を傾けて、少女はにこりと笑う。
その笑顔はまるで、花が咲いたように可愛くて。
リトは思わず頬を緩めてしまったのだった。
* * *
記憶の映像が消えた後、リトは胸のあたりを手のひらで触ってみる。当然、先ほどのように痛みはなかった。
このあたりは心臓だろうか。
手のひらで服ごとつかみ、力を込めて握った。
万が一命に関わる病気だったなら、どうすればいいのか。
まあ、今みたいな夢の中では発作なんて起きるはずもないが。
ふと、自分の手に重ねてきた、少女の小さな手のぬくもりがよみがえってきた。
可愛らしい笑顔を浮かべた薄藍色の翼をもつ少女——、彼女は誰だったんだろうか。
それもきっと、記憶を辿っていけば解るようにはなるのだろうけど。
(いつまで考えても仕方ないか)
早く次の扉を開けてしまわなければ。
くずくずしていては付き合ってくれているクレストルに申し訳ない。
——とは言っても、かれはリトを急かさずに相変わらず静かに佇んでいる。
そんな精霊獣の気遣いに感謝しつつ、リトは扉に手を触れる。
次は金色の装飾は施された上品なデザインの扉だ。
すぐにノブを回し、押し開けた。
* * *
「泣かないで」
細い指がリトの指に絡まる。
見つめてくる琥珀色の瞳がガラス玉のように繊細で、胸がひどく騒ぐ。
ここはどこかの一室のようだった。
家具の色合いや上品な調度品の数々は淡い色で統一しているらしく、女性らしい部屋だ。
リトに声をかけた彼女が部屋の
自分はどうやら、彼女の見舞いに来ているようだ。
大人びた顔をした彼女はシーツの上に長い金髪を広げ、口元には笑みを浮かべている。
透き通るような白い肌に、珊瑚色の唇。ただ、その顔色はひどいもので青白い。
「泣いてないよ」
「嘘ばっかり。今にも泣きそうな顔をしているわ」
小さかったものの、声は明るかった。
「わたしの病気は治らない、それは仕方のないことよ。別に悲観しているわけじゃないし、落ち込んでもいないけど。でも、」
彼女は誰なのだろう。見覚えは、ない。
「わたしはあなたが心配だわ。だって、あなたは寂しがり屋だもの」
リトを見つめる目を細めて、彼女は笑う。
力のないその微笑みに、どうしようもなく胸がせつなくなった。
「俺は寂しがり屋じゃないよ」
「大丈夫よ。気づいていないだけで、あなたは周りの人たちに恵まれているもの。味わう絶望はあの一回きりだけ。あなたを見捨てる人はもう現れないわ。絶対よ」
自分は今、どんな顔をしているのだろう。
今見ている記憶の中の自分と同じように、泣き出しそうな顔をしているんだろうか。
だから、彼女は病床にいても、自分を励まそうとしているんだろうか。
「わたしは、きっと近いうちに居なくなってしまうけれど。でも、あなたはこれからも生きて、大切にしてくれる人たちと出会って、しあわせになってね」
何も返さなかった。
——と、言うよりも、記憶の中の自分は返せなかったのかもしれない。
柔らかく慈しみに満ちた琥珀色の瞳がリトを見つめたまま、彼女は言葉を紡ぐ。
「愛しているわ」
* * *
まるで幕が下りるかのように、すぅと闇に戻る。
胸が締め付けられるようになり、リトはたまらなく悲しくなった。
彼女が誰なのか名前は解らないままだ。けれど、きっと病気は治らずに死んでしまったのだろう。
まるで心臓が絞られるように、胸が軋む。
ひどく苦しい。痛くて悲しい。
せつない気持ちが胸の中に満ちていく。
この感覚はなんだろう。
なんとなく覚えがある気がする。
『ねえ、リト。そんなに悲しくて辛いのなら、あたしが終わらせてあげようか……?』
宵闇の中に、
今ここは自分の夢の中で、リトとクレストルしかいないはずだ。
なのに、どうして誰かの声がするのか。
不安な心が精霊のかれにも届いたのだろう。
それまでずっと無言だったクレストルがリトの前に進み出た。
『
『そうなの? 辛くないの? そういうことなら、今は帰るけど……』
ぐすぐすと反響していた泣き声が遠ざかっていく。
いなくなった、のだろうか。
目を丸くして放心しかかっていると、クレストルがリトを見た。
『おそらくこの時に、バンシーが身体の中へ入ったのだろう』
「この時って、さっきの記憶のことか?」
頭を縦に振り、かれは肯定する。
『あれは
バンシーはたしか悲しみの精霊と言われていて、無属の下位精霊だったか。
もし、彼女が自分の身体の中へ入り、痛みを覚える心に近い場所——心臓に棲みついていたとしたら。
医者でなくても解る。
それは治癒なんて不可能な、ある意味不治の病だ。
身体の中にいる精霊を取り除く手段なんて、あるはずもない。
「そう、だったのか」
『そうだったのだよ』
自分はこれからどう生きていけばいいのだろう。
悲しみに襲われて死にたくはない。まだずっと、生きていたい。
死なないためには、どうすればいいのか。
しかし思い悩んでいる時間なんてあるはずがない。
とにかく前に進まなくては。
そんなリトの意思に呼応するかのように、扉が出現する。
今度は茜色の扉だ。
進む決意が揺るがぬようにしっかりとそれを見据えてから、リトは扉を押し開けた。
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