第5節 大好きなキミのために
『お前は私の物だろう? ディア』
頬に触れてくる白い指先はいつも冷たくて、彼が本当に生きているのか時々解らなくなる。
覗き込んでくる血のような色の瞳。
目と鼻の先で、艶然と笑った。
『誰にも渡さないよ。その魂ごと、私が貰い受けるのだからね』
『……勝手に、きめるな』
身体中の血管に、冷たい恐怖が浸蝕する。指先ひとつ動かせない。
彼の長い爪が唇に触れて、声を奪われた
せめてもの抵抗としてきつく睨みつけたものの、瞼にそっと指先で触れて両眼を閉じさせられる。
『約束は守るとも。お前は逃げるがいいよ、私の手から。そして、その身が連なる血族から。逃げ切れるというのならね』
頭に触れた指は自分の髪を優しく梳いている。なのに、まるで心臓を撫でられているような錯覚を覚えた。
無形の恐怖が、声を上げることさえできない息苦しさが、じわりじわりと思考を蝕む。
――何を、されるんだろう。
不意に、細い指が頭から離れて、襟の留め金を外した。
上衣を脱がせられ、顎を上向けられる。
晒された喉を長い爪が滑り、
『時間は掛けずにしてやるよ。なに、お前は痛みに強い。麻酔などなくても、耐えられるだろう?』
滑るような金属音が、続けて聞こえてきた。
瞬間、周囲に満ちる禍々しい魔力が肌を刺す。
思わず身体が震え、戦慄する。
『この剣の銘は〝運命〟という。お前の魂は私が予約したという、証の為に』
彼の口から謳うように紡がれていく魔術式の意味を、すべて理解することはできなかった。
けれど一部分、その片鱗だけでも彼が自分に与えようとしている〝運命〟を察することはできた。
気が狂いそうな恐怖が、身体中を満たしていく。
そしてその直後、与えられた想像を絶する痛みに、思考も理性もなにもかも弾け飛んで——。
それから何をされたのか、今となっては正確に覚えていない。
ただ、ひとつだけ。
耳元で彼がささやいた言葉だけが、鮮明に頭の中に焼きついている。
『死なせないよ。私が、飽きるまでは』
* * *
きまって、朝は目覚めても身体の覚醒が追いつかない。
窓から差し込んでくる弱い日差しでは、今が何時なのか分からなかった。時計も見当たらないし。
ラディアスはうんうん唸りながら数回寝返りしていたが、ハッとして勢いよく身体を起こした。
危ないところだった。
こんな大事な場面で二度寝なんかして寝過ごしてしまったら、今度こそ自分はダメ大人確定だ。
まだぼんやりする頭を振って、無理やりに眠気を振り払う。
靴を履き、ベルトを身につけシャツのボタンを留めて、——櫛はないのでもう手櫛で髪を撫でつけた。
最後に上着を着てから、襟の裏側に縫い込んであったリボンを引き抜く。そのまま無造作に、ポケットにねじ込む。
昨日巻いた首の包帯を外してみると、傷は一応塞がっているみたいだった。
万が一にも包帯を引っかけたりして窒息したらシャレにならないし、外しておくことにする。
傷口が開いてしまう可能性はゼロではないが、多少の出血で死ぬような事はないだろう。
そうして身支度と準備を整えてから、ラディアスは床の上に置かれていた剣を拾い上げて、鞘から抜いた。
銀製の鍔と黒曜石の剣身。
柄に竜の形の意匠細工が施された、誰が見ても魔法製のものだと分かる
昨日、エルディスに呼び出された時、この剣は家に置いてきたはずだった。
自分は剣士じゃないから持っていても扱えないし、なにより帯剣していることで彼の神経を逆撫でしたくはなかったのだ。
それに、この剣は置き忘れようと奪われようと捨てようと、一定の時間が経てば必ずラディアスの手元に戻ってくる。
呪いのような魔力を付与された魔剣、その銘を〝運命の
彼ら〝星竜の血族〟の守護者、カミル・シャドールがラディアスに押し付けた守護の象徴。
何らかの魔法の効果を持つ剣らしいのだが、込められた魔法や発動のキーワードについては、いまだに不明のまま。
ただ、この剣が魔力を切り断つ力を持っていることだけは、過去に試してみて実証済みだ。
さて、どうしようか。
黒光りする剣身を眺めつつ、ラディアスは考える。
この魔法製の剣でなら、エルディスにかけられた【
ただし、刃物という形状ゆえに身体的なダメージは、まず避けられない。
たとえば、『話すな』という命令なら、喉か舌に傷つけることで解除できる。
『歩くな』なら足に、『触れるな』なら手に、といった具合だ。
けれども。
今回の命令、『逆らうな』の場合はどこになるのか考え、出てきた結論に、ラディアスは海よりも深いため息をついた。
ほとんどの場合、命令は言葉にて発され、聴覚を通して認識される。
つまり、今回のケースで考えると耳だ。
だが、耳朶を傷つけるくらいじゃ、まず無理だろう。
命を失わないように剣で鼓膜を破れるか、とまで考えれば、答えは自ずと明らかだった。
このまま奈落にまで沈みそうな気分を、頭を振って打ち消し、立ち上がる。
携えた剣の切っ先を、躊躇いなく扉の鍵穴に当てて、そのまま突き刺した。
ガラスが砕けたような音を確認し、剣を鞘に戻してドアノブを回すと、すんなりと扉が開いた。
廊下に出て、周囲に人気がないのを確認する。
その後、【
目指すは、この広い屋敷のどこかにいるであろうリトを見つけることだ。
闇雲に探すのはリスクが大きい。
けれど、見つけ出せる自信ならある。
彼を見つけたら、心に決めていることがあった。
それが彼にとっての最善なのかどうか、今のラディアスには解らない。
昨日の夜、悪夢の誘惑と戦いながらずっと考えていた。
リトの記憶を封じた【
しかし、解呪魔法は総じて高い技量が必須のため、今のラディアスでは使うことができない。
魔剣による解呪も、たった今諦めたのと同じ理由で不可能だ。
それならば、呪いを解く手段を持つ者の所へリトを連れて行き、解いてもらう以外に彼の記憶を取り戻す方法はない。
思い当たる人物なら、幾人かはいる。
だが、どうやって連れて行こうかと考えれば考えるほど、絶望的な結論しか出てこなくて、ラディアスはまだ決心をつけられずにいる。
なるべく足音を立てないようにし、周囲を警戒しながら慎重に廊下を進んでゆく。
すると、見覚えのある後ろ姿をついに見つけ出した。
彼の姿を見た途端、心臓が波立つ。
いつも泣けない癖に、この時ばかりは泣き出しそうだった。
「リトっ」
逸る心を押さえつけつつ、近くに人がいないのを確認してから【
小声で呼び掛ければ、リトは一瞬驚いたように周りを見回し、やがて自分に気付いて首を傾げた。
「誰だ?」
声を聞いたら、もう無理だった。
駆け寄って、縋るように彼を抱きしめる。
腕に感じる温もりは彼がここにいる証拠だ。嬉しくてせつなくて心が震える。
「会いたかったー」
「……?」
口から本音が出た。でも構わなかった。
意味が解らないと言わんばかりにリトは首を傾げるものの、縋り付いてくる見知らぬ相手を振り払う様子はない。大人しくされるがままになっている。
肩に顔を埋めると、彼の身体から伝わってくるのは平らかな精霊力の気配。
どの程度まで記憶を封じられたのか解らないが、彼の所作はまるで子どものようでどこか頼りない印象を受ける。
逆を言えば、今の状態は感情の振り幅が少なく安定しているとも言える。
彼に出会うきっかけになった出来事を思い出し、ラディアスの心が再び揺れた。
リトの心臓には
引き金は案外分かりやすいため、緩和剤を作って渡してあるものの、できるのは対症療法ばかり。
完治が難しく、ある意味不治の病とも言える。
引き金は、悲しみだ。
寂しがり屋の彼は友人たちの身に何かが起こると、失う恐怖から発作を引き起こしてしまう。
今はそれで即死に到ることはないが、相当の痛みと苦しみを伴うはずだ。
——でも、今の、何もかも忘れてしまった彼なら。
そこまで考えて、ラディアスは頭を一振りした。
覚悟を決めて、迷う心を頭の隅に押しやり腕を解く。
リトを真正面から覗き込み、含めるように言い聞かせる。
「俺はキミの主治医なんだ。あのさ、キミ今記憶ないから俺の言ってること解らないと思うけど、よく聞いて」
「うん」
素直に頷くリトの様子に胸がざわめく。
それでも、止めるわけにはいかない。
「彼、エルディスさんについて、なんだけど。……解る?」
「解る」
そういえば、昨日。あの後、一緒に食事をしようと言っていたことをラディアスは思い出す。
自分を苛んだ後、エルディスはリトとずっと一緒にいたのだろうか。
嫉妬に近い悔しさが胸を満たし、あふれ出そうになるのをかみ殺し、言葉を続ける。
「彼はキミを利用しようとしてる。キミは一刻も早くここを抜け出して、ライヴァンへ行きな」
真夜中色の目が、驚いたように丸くなった。
無理もないか、とラディアスは思う。
父と名乗る人物のことをそんな風に言われたら、驚きもするだろう。
だが、自分がこれを話すのは、決してエルディスに対する当てつけなんかじゃない。……そう思われても、仕方ないけれど。
昨日から、ずっと考えていた。
ここにいる方が、エルディスと共にこの屋敷にいる方がリトにとっての幸せなのか、と。
記憶がなく大切な存在を持たない今の状態は、失う恐怖や孤独の寂しさを感じることはない。
そうすれば発作が起きる心配もなくなるし、怖い思いだってしなくて済む。
でもそれは、幸せなんだろうか。
からっぽの心とマヒした感情で日々を無感動に生きる。
それは、楽ではあるけれど。
——しあわせ、ではないんじゃないかな。
ラディアスには解らないし、確信も持てない。彼が記憶を取り戻したとしても、その時自分はもう彼のそばにはいられないかもしれない。
そう思い至ったら、どうしようもなく悲しくなった。
再び泣き出しそうになるのを誤魔化そうとして、ラディアスは小さく笑う。
自分を犠牲にするつもりではなかった。
多少の怪我をしてもいいから【
けれど、ここを逃げ出すことは明らかに〝逆らう〟ことだから、たとえエルディスの監視がなかったとしても、呪いを解かずに逃げることはできない。
呪いを解くための方法も、ついに見つけることができなかった。
「ライヴァン?」
まっすぐな瞳で、リトは問い返す。
強く頷き、ラディアスは慎重に言葉を選ぶ。
「キミを大切にしてくれるヒトたちが、ライヴァンには沢山いるから。ここは怖い場所で、キミはここにいちゃダメだ」
呪いをかけられている自分では、彼を連れ出すことは不可能だ。
転移魔法を使って送り出すことはギリギリできるかもしれないが、エルディスにバレれば強制的に送り先を吐かせられてしまう。
だから、リト自身がここを出て、ライヴァンへ向かうように仕向けるしかない。
運を天に任せるような話だ。
本当は、こんなやり方したくなかった。
しかし、精霊魔法を駆使するエルディスの目から逃れさせるには、自分が彼の行き先を知っていてはいけない。
「解った」
物分かり良く、こくりとリトが頷く。
その瞳に嘘がないのを確認し、ラディアスはポケットからリボンを取り出した。それを彼の右手首に巻きつける。
きつくならず解けることがないように、幾重かに巻きつけて固く結び合わせた。
長年ものだから古ぼけて色褪せてはいるが、これは【
見えないように袖の中へ入れ込んで、乱れを直してやる。
されるがままにそれをじっと見ているリトに、ラディアスは言い聞かせる。
「このリボン、お守りだよ。色褪めて汚いけど、外さないで、預かってて?」
「うん、外さない」
返ってきた答えは、子どものような片言の口調だった。
そうしようもない思いが胸を過ぎり、もう一度強く抱きしめた。
自分の声が震えて彼に不安を与えないよう、どうか、もう少しだけ——。
この方法が失敗すれば、リトの記憶は戻らない。
成功しても、きっと自分は彼に会うことはできないだろう。
エルディスが、こんな風に出し抜かれて黙っているはずがない。
ばれる前にここを抜け出さなければ、確実に殺される。
そうなれば、記憶が戻ったとしてもリトは、胸の痛みに倒れてしまうかもしれない。
誰かが治療してくれなければ、死んでしまうかもしれない。
そうならないために自分自身も逃げなくてはならない、の、だけど——、
(どうすればいい?)
答えはまだ見つからない。
腕を解き、ラディアスは精一杯の笑顔を作った。
伝えたい言葉はいつだって、どんな時でも変わらない。
——記憶があろうとなかろうと、キミがしあわせであることが俺の、願いだから。
「ありがと、大好きだよ。行きな」
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