第4節 衝撃の結末に、主治医は決意する
「さて、夕食にしようかリトアーユ」
さまよう瞳は、まるで迷子の獣のようだった。
記憶を奪われた青年は、自分の前に立つ壮年の魔術師を見上げ、不思議そうな顔で見上げる。
「うん」
子どものように答えをじっと待つリトは、外見こそよく見知った彼なのだけれど、全く別人のようだった。
信じたくない。でも間違いなく、目の前で起きていることは現実で。
ラディアスは息の仕方を忘れたまま、膝からその場に崩れ落ちる。
かはっ、と口から変な息が漏れる。途端に呼吸が止まって、ひどく苦しい。だけど、どうすればいいのか本気で思い出せなかった。
なにもかも考えるのも嫌になって、目を閉じて視界を遮断する。
すると、突然に喉の圧迫感が消えて、支えを失った身体はそのまま床に倒れ込んだ。
うっすらと目を開けると、眼前に立つのは壮年の魔術師。外したワイヤーを持つエルディスだった。
彼はしゃがみ込んで腕の鎖を解くと、口を開いて指示を出す。
「〝立ちなさい〟ラト君」
無理な姿勢で長い時間拘束されていたせいか、両手はひどく痛くて痺れている。すぐには動かせそうにない。
それでも身体は命令に抗えるはずがなく、壁を支えにしてなんとか立ち上がった。
「一緒にきなさい」
一時的とはいうものの、呼吸ができない状態だったからだろうか。
目がかすんで、エルディスの顔も隣に立っているであろうリトの顔もよく見えなかった。
促されるままに後に従い、初めの部屋へ通される。素直に入ると鍵を閉められた。
その瞬間、全身の糸が切れるように力が抜けて、ラディアスは崩れるように床へ座り込む。
頭がガンガン痛いし、まだ呼吸が苦しい。
震える手でぎゅっと胸を押さえて、意識して深呼吸を繰り返してみる。
何度か続けていると頭痛は段々と引いていって、息苦しさも緩和されていく。
(大丈夫、大丈夫、大丈夫――…)
自己暗示のように心の中で繰り返し、目を閉じる。
身体に受けた傷はひどいものじゃない。致命傷は特にないし出血もごくわずかだった。
酸欠ももう大丈夫、息の仕方は思い出せた。
それにエルディスが視界内にいない今なら、一時的とはいえ【
しばらくそうしていると呼吸を落ち着いてきた。ラディアスはゆっくりと目を開ける。
幾分かクリアになった視界をぐるりと見回して、乱れっぱなしのベッドの横に無造作に置かれた自分のバッグを見つけた。
立てそうになかったので這うようにそこまで移動して、バッグを開ける。
中に入れてあったリネンの端布を数枚取り出した。
次はベッドに這い上がり、横の机にあった飲料用の水差しで布を濡らして、自分の首に当てる。
沁みるような痛みがしたけれど我慢した。
傷口に固まる血糊を丁寧に拭き取っていく。
鋼索は細いとはいえ殺傷用に加工されていたわけじゃないから、傷口はあくまで自分が暴れ過ぎてできた擦過傷だった。
結構な痛みだが、それほど深くはない。
鎖を巻かれていた腕は長袖のおかげか、出血箇所は見当たらなかった。
バッグからオリーブの製油を取り出して首の傷にすり込み、清潔なリネンを当てて包帯を巻く。
あり合わせの応急処置だけれど、何もしないよりはマシだろう。
ついでにバッグの中身を少し整理して口を閉じ、血で汚れてしまった端布を捨てられる場所はないか部屋の中を見回していると、タイミングよく扉が開いた。
思わず身体を強張らせてそちらを見やれば、エルディスが入ってきたところだった。
じわりと背筋が凍りつく。
まともに顔を見れず、俯いて目を逸らしていると、カチャリと扉が閉まる音がした。
靴音が近づいてくる。それでも顔を上げることができなかった。
「元気がないようだね、ラト君。夕飯を持ってきてあげたよ」
彼は手に持ったトレイをベッド横の机に置くと、椅子を持ってきてラディアスと向かい合うように腰掛ける。
ちら、と目を向けると、焼きたてのパンと温かなスープ、そして少量の野菜がトレイの上にのっている。
いい香りがするものの、正直なところ今は喉を通らない気がした。
「……食欲ないです」
目を合わせずにそれだけ言うと、くすりと笑う声が聞こえた。
「そうかい。じゃあ、ここに置いておくよ。ところで、見届けた感想を聞かせてくれるかな?」
やけに愉しそうな声で、非道いことを要求してきた。
何度か目を瞬かせ、ラディアスは逡巡する。
見せ物じゃないんだし、感想とか意味が解らなかった。
「辛かったです」
「ふぅん。それだけかい?」
他にいい表現が思いつかなくてぽつんと答えたら、エルディスは不満げに返してきた。
冷水を肺に注ぎ込まれるような錯覚に陥りつつ、目を伏せたまま、ラディアスは手元のシーツに縋るように爪を立てた。
ぐるぐると頭の中で言葉を探し、口を開く。
「
こんな風に言えば、彼の苛虐心は満たされるのだろうか。
泣いて縋れば悦ばせることができるんだろうけど、そもそも泣けない自分にはそういう演出は無理だった。
俯いたまま震えていると、エルディスはしばらく黙っていたものの、やがて満足したのか立ち上がる気配がした。
「そうか。それはいい感想を聞かせて貰ったよ」
扉が開き、カチャリと鍵のしまる音がする。
そうして彼が部屋を出て行った後も、ラディアスはしばらくベッドの上で震えていた。
形のない恐怖が【
それが本能的なものなのか、あるいは自分を待ち受けるこれからに対しての予感なのかは、今の時点でもまだつかめないでいる。
食事は、やっぱり食べられなかった。
少しでも食べようと思って、ちぎったぱんを口元に持っていった途端、猛烈な吐き気に襲われて、挫折せざるを得なかったのだ。
どのみち朝までできることはない。
靴と上着を脱いでシャツの襟をくつろげ、ベルトも外して、なるべく楽な格好になるとラディアスはベッドに潜り込んだ。
薄い上掛けを頭まですっぽりかぶって、目を閉じる。
作戦決行は明日の朝だ。なるべく早い方がいい。
エルディスよりも先に起きて彼を出し抜かなければ、こんな事態を招いたことへの申し訳が立たない。
リトに対しても、彼を大切に想うすべての者たちに対しても。
全く眠れる気がしなかったが、無理にでも視界を遮断し、ラディアスはベッドの中でひたすらに朝を待ったのだった。
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