きみの嘘、僕の恋心

増田朋美

きみの嘘、僕の恋心

今日は、音楽サークルでピアノを演奏する日だった。初参加の彼はちょっと緊張していた。もちろん、誰でもそうだけど、人前でピアノを弾くというのは、ちょっと緊張するものだ。サークルを知ったのは簡単だった。単にインターネットで、メンバーを募集していただけのことである。主宰者もさほどピアノがうまいわけではないと書かれていて、音大などで、正式に教育を受けたものは参加できないという規定もあったので、さほどうまくないと、彼は思っていた。だから、そんな大きな大曲をやる人もいないだろうし、弾いてもソナタくらいかな、と、考えていた。

彼は、自分の車を運転して、サークルの会場である田子の浦公民館へ向かった。会場は、小さな練習室であった。彼が、練習室のドアを叩くと、はいどうぞという声がして、部屋から一人の男性が出てきた。この人が主宰の高野正志先生か。高野先生は、にこやかに笑って、

「初参加の方ですね。佐藤敏夫さんでしたっけ。」

と、彼に名前を聞いたので、ハイそうです、と彼は答えた。

「こちらへお座りください。」

高野先生は、すぐに彼を新しい椅子に座らせた。メンバーは五人ほどいた。基本的に、全員集まることはなく、来れる人だけが集まっているので、メンバーはいつも同じ人とは限らない、と、高野先生は、説明した。メンバー一人一人が、自分の名前を名乗り、好きな作曲家の名前をあげたりして自己紹介をした。メンバーは、六十歳を超えた男性が多いが、まだ若い人も一人いたので、彼はちょっとホッとする。

「えーと、今日はこのメンバーの他に、佐藤敏夫さんが初参加です。あと、飛び入り参加で、坂下雪乃さんという女性の方が、見えられます。電車の都合で、ちょっと遅れてくるそうです。」

高野先生がそう言うと、確か、身延線は鹿に衝突したとかで運転を見合わせていると、テレビで言っていたなあと、彼は思い出した。東海道線は止まっていなかったはずだ。身延線を使うとなると、かなり遠くからこの田子の浦に来るんだなあと、彼はちょっと驚く。

ふいに、部屋のドアを叩く音がした。

「すみません。坂下雪乃です。遅くなってしまい、申し訳ありません。なんとか電車が運転再開してくれましたので、急いできました。」

普通の人とはちょっと違う声だ。高野先生こと、マーシーは、ハイお入りくださいと言った。がちゃんとドアが開いて、坂下雪乃さんが入ってくる。そのときに、彼の体に何か電流が流れたような気がした。坂下雪乃さんは、何という素敵な人だ!白いワンピースを着て、化粧の少ない顔が、より美しさを強調させている。無理して化粧をしたら、ちょっと、損をしてしまうようなきがする。

「坂下雪乃です。音楽仲間が欲しくて、このサークルに入会させていただきました。好きな作曲家は、ショパンが好きです。理由はとても美しいメロディだからです。よろしくお願いします。」

彼女は、みんなの前でそう言うと、マーシーがこちらの椅子へどうぞ、と、彼女に座ってくれるように促した。彼女はそのとおりにした。

「じゃあ、演奏に移りましょうか。批評はしてくれて結構ですが、アマチュアのピアノサークルなので、あまり厳しいアドバイスは、しないようにしてください。」

演奏順序は、あみだくじで決めた。彼の演奏は三番目で、坂下さんはその次だ。まずはじめに、トップバッターがショパンのワルツを弾き、続けて二番目が、ベートーヴェンのソナタを弾いた。そして、三番目が彼のハイドンのソナタ。かもなく不可もない平凡な演奏だった。

そして、坂下雪乃さんの番になった。

「今日は、ショパンの舟歌をやります。」

そう言って彼女はピアノの前に座った。

そして、なれた手付きで鍵盤をタオルで拭き、舟歌を弾き始める。彼女も平凡な演奏なのかなと思ったら、これがまたうまいのなんの。美しいメロディが、キラキラ輝いているような感じだった。

「おお、いいぞ!」

と、メンバーさんたちは、そんなことを言っている。

彼女が演奏をし終えると、会場は大拍手となった。中にはブラボー、ブラボーなんて言ってる人もいた。

「あの、失礼ですが、あなた音大かどちらかにいかれましたか?ここは、音大卒業者は来てはいけないことになっているんですよ。」

ふいに、マーシーがそんなことを言った。彼女は一瞬、たじろいだようであったが、

「いえ、音大なんか行っていません。ただの会社員です。」

と、答えた。マーシーは、それにしてはうまいなあというが、他の人達が、まあいいじゃないか、と、彼を止めた。

そして、あとの二人のメンバーも演奏をして、全員分の演奏が終わった。少しばかり時間が余ったので、ちょっと誰か弾きたい人はいますかと、マーシーがいうと、坂下さんが、弾きたいと申し出た。坂下さんは今度は湯山昭のお菓子の世界から、シュークリームという、子供向きの曲をやった。

「はあ、なかなかうまいじゃないか。お姉さん、きっとただもんじゃないだろう?ものすごいうまいもん。きっと何か違うでしょう?」

一人の、外国人男性がそういうことを言った。

「いやあぱくちゃん、今日は大目に見てあげようぜ。」

隣の席の、無精髭をはやした人が、その外国人男性にそう言っている。

「でも、ルール違反はルール違反だよ。ちゃんと、ルールは守ってもらわないといかんでしょう。それなら、ちょっと考え直してもらったほうがいいんじゃないの?」

ぱくちゃんは、外国人らしく、はっきりと物を言った。

「まあいいじゃないの。かわいいし、演奏もうまい。大目に見てあげよ。」

「ちょっと待って。」

無精髭の人がそう言うと、マーシーが言った。

「先程、あなたは会社員だと言いましたが、どちらの会社に勤めているのですか?」

彼女のめが宙を浮いた。

「あ、あ、あの、自営業です。」

やっとそれだけ言う彼女。

どうもそれは、なにか違うものがあるなと敏夫も感じた。なにかいけないことをしているのではないか、と、彼女を疑った。もしかしたら、現在の肩書も、詐称しているのではないか?

「自営業なら、何をやっているの?僕みたいなラーメン屋ではないでしょう?」

ぱくちゃん、もういいじゃないか、彼女を責めるのは、やめてやってほしいなあ、と、敏夫は思ってしまった。なぜか、そう思ってしまったのである。それはもしかしたら、恋心?

「あの、その、、、。」

雪乃さんは、何を答えていいのかわからないようで、はらはらと泣き出してしまった。

「もういいじゃないか、ぱくちゃん。彼女は良い演奏を聞かせてくれたんだ。それに免じて、良かったことにしてあげよう。」

白髪頭のおじさんが、そういうことを言った。ということは、みんなわかっているのだろうか。

「ええ、知らなかったのかもしれないですしね。サークルの詳細は、チラシに書いてありますし、ルールもそこに書いてありますから、しっかり読んでから来てくださいね。」

マーシーはそう言って、今日のサークルは、お開きにしようか、といった。そうだねといい、みんな帰り支度を始めた。敏夫は、まだ、べそをかいている彼女に、こんなことを言った。

「演奏、とても素敵でしたよ。ありがとうございます。」

彼女はすぐに椅子から立ち上がって、部屋を出ていってしまった。敏夫は、待って、と言って彼女を追いかけた。

「待ってください。せめて、謝罪をしたらどうですか。あなたが、確かに詐称をしたということは認めますから、せめて、皆さんに謝罪をしてから帰ったほうが。」

「ごめんなさい、あたし単に、友達が欲しかっただけなのよ。」

彼女は涙ながらに言った。

「あたしは音楽学校には行ったけど、音楽のことを語り合える友達が一人もいないのよ。みんな、優秀なひとたちばかりで、あたしのことなんて誰も付き合おうとはしなかったわ。みんな、お金持ちのお嬢さんとか、そういう人ばかりで、友達になれそうな人はいなかった。だから、こうしてこういうサークルに行くしかないんじゃないの。」

雪乃さんは孤独な人だ、と、敏夫は思った。

「恥ずかしい話ですが、僕はあなたが好きです。あなたのことを、これからも応援しています。あれだけうまいのなら演奏会だって開けますよ。どうか、こんなサークルではなくて、もっと大きな舞台で演奏してください。」

雪乃さんは、そこまでする自身はないわよ、と、小さい声で言った。

「なんでですか。音楽学校は、そういう人を作るところでしょう?」

「いいえ、あたしはただの平凡な学生だったし。就職もできなくて、実家で今は暮らして居るのよ。こんな人間に、演奏会なんか開けると思う?」

雪乃さんはなにか傷ついたことでもあるのか、演奏会をしたいとは、どうしても言わなかった。

と、雪乃さんが、持っていたカバンを落とした。その中に、紫色のヘルプマークが入っているのをみて、敏夫はびっくりする。

そのヘルプマークなら、敏夫も、もしものときのために携帯していた。雪乃さんは、僕と同じ病気だったのか。僕は、そのせいで会社もやめ、ピアノをやっているしかできない男になってしまった。でも、雪乃さんはどういう経緯で、線維筋痛症に、かかったのだろうか?

「僕も、同じヘルプマークを持っているんです。」

敏夫は、ズボンのポケットから、ヘルプマークを、だした。

「あたしは、」

雪乃さんは、また泣きそうになった。

「痛み止めで止まってるけど、まだ、働くのは無理と言われてて。もうかかって15年近くも経つのよ。」

確かにこれは長期間かかるのは、敏夫も知っている。自分も社会から離脱して、何年もたつ。

確かに雪乃さんは、ピアノを使って、友達と言うものを得たかったのだろう。でも、そのために詐称をしては行けないと、敏夫は思った。

「雪乃さん、僕も一緒です。ずいぶんと、この病気には苦しみました。でも、僕たちは出会えたんですから。もうひとりぼっちではありません。それができたのですから、もう目的は達成できたでしょう。だから、今回、嘘をついてしまったと、皆さんに謝りに行きましょう。サークルのルールを破ったのは、やっぱり行けないことですし。」

敏夫はにこやかに笑ってその手を差し出した。まだ、みんなは練習室の中で話をしている。

「さあ雪乃さん。」

敏夫は、今度はニッコリしながら言った。

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きみの嘘、僕の恋心 増田朋美 @masubuchi4996

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