きまじめと魔術師の心理戦 「あれは、嘘だったんですか」

 慌てて声をかける。相棒が立ち上がり、こっちに来た。おもむろに右手を出して、何かを見せてくる。


「ネズミです。ご主人様も食べたいんですか」


 手の上に赤黒いものが乗っていた。ちょろんとしっぽが生えている。


 電子空間内には、ネズミなどの野生動物まで再現されているのか。あろうことか、殺されたあとの血のしたたり具合まで非常にリアルに表現されている。感動しきりだ。


 さきほどから胸を這い上がってくるものが、もはやドタバタと駆け上がってくるのを感じた。


「……悪いけど、僕は、げっ歯類だけは食べるなと、家訓にあるもんで……」


 泣き笑いの表情でそれだけ返すと、部屋の奥にある風呂場に向かって飛びだした。ドアをガチャガチャと乱暴に開け、飛びこむ。棚にぶつかる。ものが落ちてくる。足に何かが引っかかり、転んだ。


 洗面台にしがみつく。えずく。こらえる。血の色に惨劇が目を覚ます。えずく。こらえる。


 ……すごい。すごいことだ。あの冷えてたまらないと感じていた現実世界が、その実、ぬるま湯だったなんて。


「どうしたんですか、ご主人様。ひょっとして、気持ち悪いんですか」


 相棒が背後に立つ。空気は読むものではなく殺して食うものと思っていそうな。


「手伝いましょうか」


 えっ、と返すのを無視して、相棒が僕の腹を抱えた。何も入っていない胃をぎりぎりと締め上げる。


「ほがががが!!」


 足をバタつかせて、もがく。必死に逃れる。ひいひい言って、洗面台を支えに立ち上がる。


 自分の肩の向こうで、ニヤつく相棒が鏡にうつりこんだ。以前にもこんなことがあった、と蘇りそうになる記憶を止める。


「どうしたんですか、ご主人様」


「……」


「ひょっとして、泣いているんですか」


 洗面台とにらみ合って、動かない。そんな僕の背中に投げかけられる、ひやりとした言葉。


「ご主人様。まさか、昨日の死体や血に驚いてるんじゃありませんよね」


 ドクン。心臓が、体ごといっしょに跳ねそうになる。背後の変化に気を配る。


「こわがってるんですか。私を」


 早鐘はやがねを打つ心臓。落ちつかせようと、息を吐く。心音は止まらない。


 ……こいつがこわい。当たり前だ。


 誰かを救う? ヒーローになる? それどころの話じゃない。


 凶悪な殺人鬼。それが相棒の正体だった。最初に感じた印象こそが当たっていたのだ。無意識下の直感こそが、結局一番正確なのだろう。


 こいつがこわい。殺されるかもしれないからではない。いっそ僕のことは、殺してもらいたいくらいだ。しかし、今さら僕一人死んだところで、償いになるはずもない。


 仮に実験の罪の意識から僕が死んだとして、この相棒はどうなる。僕が死んでもなお、あたりを自由に歩き回るのか。そうなったら、また……。


 こいつがこわい。また、殺すかもしれない。僕以外の、他の誰かを。……すべてを。


「昨日の私の仕事に、喜んでいましたよね。もしかしてあれは、嘘だったんですか」


 嘘に決まっている。が、変えようがない真実も一つ、ここにある。


 こいつは……僕は、人殺しだ。


 どうすればいい。どうする。一線越えたあと、いったいどうあればいいのだ。


 こいつ一人のせいだとは決して思わない。悪属性のNPCたちを止めたいと言った、僕の言葉にこいつは動いたのだ。ここでこいつ一人のせいにして逃げようものなら、それはこいつ以上のクソだ。クソ野郎だ。


 その事実から逃げるものか。あまつさえ楽になろうと死ぬなんて、ありえない。


 相棒の視線を背に考える。死んでいった被験者やNPCの顔を思い浮かべ、頭を絞る。 


 今後どうするか、そんなことはまるでわからない。ただ一つだけ、はっきりしていることがある。そのたった一つ、たった一つを今、懸命に守る必要がある。


 息を吸いこむ。顔を上げる。背中に刺さる視線に向かって、正直に話す。


「ああ……僕は今、泣いてる。……泣いてるよ」


 不機嫌な声が聞こえた。構わず続ける。


「僕は……。……僕は……」


 つっかえる言葉。出てこようとしないその言葉を、無理やり引っぱり上げ、押しだした。


「……感動してるんだよ!! きみの仕事に!」


 相棒の表情が変わった。ぽかんと口をあけている。


 あいた口が徐々にゆがんでいく。強い力で僕の肩を掴み、凄むようにして顔を近づけ、言う。


「……ああ、よかった。どうしようかと思っていました」


 相棒の言葉をじっと聞き入る。


「そう。気に入らなかったらどうしよう、と。私のご主人様、もし性に合わない相手だったら……。……でも、それはいらない心配でした。ご主人様、あなたは……いや、あなたも」


 メガネのガラスのすぐそこに、大きく見開いた目が迫った。ガラスの端に、つり上がった口の先端がうつる。


「あなたも悪属性、なんですね」


 この相棒を抑えなければ。これ以上被害が出ないようにすること。まずはそれが先決だ。


 そのために僕は、こいつの前では理想の主人を演じる必要がある。表面上は悪人のふりをして、こいつの信用を勝ちとり、意のままに操って抑える。


 それができなければならないのだ。ただ一つ、それだけははっきりしている。


 拭けないままの涙に視界をにじませ、僕は笑う。震えて笑う。


 殺人鬼の主人の、壊れてしまったような笑い声が部屋に落ちた。そこへあの耳障りなアナウンスが再び流れる。


『おはようございます。日本全国の被験者の皆さん。つきましては、次のクエスト及び実験を実施させていただきます』

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