すぐそこに電脳世界 「新しい世界がすぐそこにある」

「……えっ。は、ハロー」


 本格的な英語の発音に戸惑う。しどろもどろに挨拶を返す。


 黒いコートの大男、だ。


 ボサボサの無造作な黒髪があちこちにハネていて、顔に長くかかり、影をつくっている。顔には赤い包帯。雑に巻かれた包帯の隙間から、白い歯が覗いていた。猫のような大きな犬歯。


「きみが……僕のNPC?」


 黒い大男が、長い髪に隠れた目を細めて笑った。僕もぎこちなく笑い返した。失礼にならないように、と思いつつも、つい笑顔が硬くなってしまう。想像していたのとずいぶん違うな。


 あの黒い心臓から生まれた、と表現してよいものかわからないが、サイバーセカンドの男が言った通り、スロットから出現したNPCのようだ。


 正直に言うならイノセンスを期待していた。あるいは、それに準じる雰囲気のNPC。この相棒は真逆と言ってもいい。


 イノセンスじゃないにしても、ゲームというからにはもっとかわいいNPCが来るかと思っていた。普通は動物だったり、女性キャラクターだったりするのではないか。詳しくはないが、そのほうがキャッチーで人気がある印象だ。


 パリッ、バチバチ、バチッ。


 相棒の後ろから奇妙な音が聞こえた。あやしい相棒の登場に面食らっているのに、今度はなんだ。大男の背後を確認する。


 白い壁のまんなかがひび割れていた。青い電流がファスナーのように壁を引き裂いて、耳障りな音とともに大きな穴が出現した。息をのむ。奇怪な現象に反して、穴の中には特集で見たあたたかい日に輝く美しい草原が広がっている。


 すると、僕を無視して相棒が動きだした。ひらりと穴を通って、草原に行ってしまう。


『その穴は映像ではありません。実際に電子空間へ繋がっています。自分のNPCのレアリティを確認したければ、そこを通り今すぐ電子空間に移行してください』


 サイバーセカンドの男が言う。レアリティ? ってなんだ……いや、今はそれよりも聞くべきことがある。


「すぐに移行、とはいったいどういうことですか。いくらなんでも急すぎます」


『時間がないんです。これは世界中で実施されている実験ですよ。あとがつかえてる。そんなすぐに行けないという方は来なくてもいい。ただし、あとから参加はできません。この世紀の実験に参加できるのは、今電脳世界に行けるものだけです」


 毅然と返され、言葉に詰まる。


 今行けないなら、参加はできない。急な選択を迫られ、考える。が、考えたのはほんの一瞬だった。


「……あやしい、行くべきじゃない。こんなろくに説明もない実験に、むやみに参加するなんて」


 僕は背を向けた。教授の言葉にいっときこそ反応したのは事実だが、その熱情も落ちついていた。まともな説明があったところで、来いと言われてはいはいと二つ返事で行けるわけがない。


 ソファがどこにあるかわからないため、カーペットに座った。しばらくすれば、もとの部屋に戻してくれるだろう。ひざを抱えて、じっとする。


『ふん。とどまる必要があるのか、この古い掃き溜めに』


 男がぼそりと毒づくのがはっきりと聞こえた。


 はきだめ、か。


 現実世界の思い出が蘇る。ゴミに埋もれた日々。それに同化する、ゴミみたいな自分。まごうことなき掃き溜めだ。でも僕が本当に埋もれていたのは、ビニールに空き缶、紙きれ、そんなものじゃ決してなかった。


『さあ! 来るのか、来ないのか。新しい世界がすぐそこにある。跨げ!! 足が震えてるやつはつまんねー現実世界でゴミみたいに生きやがれ』


 男がほえた。ただの煽りだ。わかっている。


 僕は立ち上がった。穴に向かって駆けだし、飛びこむ。


 電子空間の穴に食われる瞬間、恐怖などなく、次に感じるであろう風を待ち、僕の胸は再び静かに燃えていた。






「……えっ?」


 穴の向こう、そこにあの美しい草原はなかった。

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