第一話 未知との遭遇。できればしたくなかった

「お買い上げありがとうございましたー」


 時はさかのぼって二週間前。警察の事情聴取とか、保険証の更新とかを終えた俺はすることもなく近隣のコンビニでバイトをやっていた。

 失踪扱いのおかげで、特別に試験を受ければ大学の受験資格はもらえるらしいけど事実として高校は中退。というか、一年下の後輩ですらもはや大学一年生。今更高校に戻るのは少々キツイ。


「いらっしゃいませー」


 異世界での戦いに疲れて帰ってきたとはいえ、一日中引きこもっているのも人と触れ合わないのも良くないか、と思って始めたのがこのバイトであった。 

 それにいつかこっちの世界の友人たちに会ったときに何もやっていないただの引きこもりでは少し恥ずかしいな、という思いもあった。


「おにぎりが三点、お茶が一点と生野菜ゴロゴロ胡麻ドレッシングサラダ一点で、五百九十七円になります」


 そういう意味で言うと、このバイトはとてもいいものだ。

 基本的に品出しもレジもマニュアルに書いてある通りに行動すればいい。マニュアル仕事だなんて悪い言葉でしか使わないと思っていたが、決まった通りにやるだけでお客さんが笑顔になるというのならそれは素晴らしいことである。もちろん、悪い意味の『マニュアル仕事』にならないよう、時にはマニュアルにない仕事をすることもあるが。


「こちらおつりが四百三円のお戻しとレシートになります」

 

 退屈さを覚えない、と言うと少し嘘になる。あの頃は辛いことも悲しいことも多かったが、冒険の楽しさだって確かにあったのだ。けれど、ここでは誰も死なないし誰も悲しまない。馴染みのお客さんは笑顔で話しかけてくれたりもする。それだけで、冒険心が満たされることよりも何倍も嬉しい気分があふれてくるように思えた。


「ありがとうございましたー」


「河野君。そろそろキリもいいし、一回休憩入りなよ」


 しばらくレジに立っているうちにバックヤードの方から声がかかった。

 ふと気づいてレジのスクリーンの隅を見るともうじき十四時。この辺りの会社の昼休憩も終わるころあいだ。棚から一本缶ジュースを持ってきて自分で会計してバックに下がり、もう慣れてきた先輩バイトのおばちゃんに会釈して休憩室のソファに腰掛ける。


 おばちゃんがレジの方に出て行くのを傍目に缶ジュースを空けてちびちび飲んでいると、ヴヴヴというバイブ音にロッカーへと振り向くと姉ちゃんからSNSに通知が来ていた。


「どうにも過保護になったもんだなあ」


 鬱陶しいとまでは言わないがどうにかならないものか。弟が三年間も謎の失踪をしていたのだから心配になる気持ちもわかるだけに、文句は言い辛い。


「さて、と」


 俺はこの後一、二時間で帰るが、おばちゃんに重いお茶や弁当の品出しをさせるわけにもいかない。


「夜のピークタイムの前に弁当とお茶は入れときますかね」


 飲み干した缶ジュースの空き缶を片手でクシャっとやって、店の裏にあるごみ箱に投げ入れると、俺は制服の袖をまくって自分の両頬を軽く叩いた。



「んじゃ、お疲れさまでーす」

「ハイ、河野君。お疲れさまー」


 七月にもなれば日が沈むのもだいぶ遅くなってきて、まだまだ空は青い時間帯。

 向こうじゃ二つの月がぐるぐる回っていてほとんどいつでもどちらかの月が空に昇っていたのだが、こちらではそうではない。月のない空に少し違和感を覚えつつも俺は『バイト終わった。帰る』と短いメッセージを姉ちゃんに送って店を出た。 


 ボンヤリと住宅街の細い道を歩いて行くとだんだん見慣れたところに近付いていく。そういえば、俺が召喚されたのも家に帰る途中だったか、なんて思いながらふと道に目を落として、瞬間身震いがした。

 血だ。赤い血がほっそりと裏路地へ続くように線を描いている。

 わずかながら魔力の気配もする。マズい、魔王軍かどこかの組織の追手か。また誰ぞやが召喚されて逃げてきたのか、或いは何者かを送り付けてこの町を襲おうとしているのか。もうだれか襲われたのか。

 脳裏で豆電球が明滅するような感覚がする。


 一瞬にして俺は混乱し、されど次いで刹那の内に己を落ち着けて思考を巡らせる。

 戦乱のあの世界で身に着けた、身に着けざるを得なかったこのスキルが本当に嫌いだ。嫌いだがそれでも俺は冷静さを保ったまま思考を続ける。


 理性は戦うことを嫌がり、逃げることを推奨する。当たり前だ。俺は戦いに疲れて、戦いから逃げてこの世界に帰ってきたのだ。今更何と戦えというのだ。

 だというのに俺の足は少しづつ前へと進む。あのころ、俺を『勇者』たらしめていた本能のような何かが俺を突き動かし、それを言い訳するように「相手が何者かわかってから逃げたって……」と残った理性が呟いた。


 それは少女であった。

 数秒の後、ゆっくりとした歩みで怯えるように路地裏を覗き込んだ俺に視界に写ったそれは確かに少女であった。"美"少女と言ってもいい。

 日本人のものとは違うやや緑に寄った黒髪を長く垂らした彼女は少し血の付いたメイド服を着ていて、やたらに整った顔立ちに赤い瞳をしていて、そして何よりコスプレとは思えないような可愛らしい小さな角をその黒髪の上にちょこんと乗せ、背中から爬虫類のような羽を伸ばしていた。


(間違いない。コイツはこの世界の人間じゃない!)


 そして何より問題なのは彼女がと言うこと。すなわち、十中八九この世界の人類の敵対者。そうじゃなくても害意をもって何かを傷付けうる存在であると言うこと。

 できれば関わり合いになりたくないし、なにも見なかったことにして立ち去りたい。けれども彼女が何者か、なにを目的としているのかもわからなければただ逃げるだけでは後々大変なことになってしまうかもしれない。


 緊張の中、俺は生唾を飲み込んで彼女の様子をうかがう。彼女もこちらをじっと見て、そして口を開く。言葉が出るか、魔法が出るか。あの角と羽がドラゴンのそれならブレスが来るやもしれない。そう思って静かに胸の内で魔力を練り上げる。

「おなか、すいた」

 キュ~~という可愛らしい腹の音とともに放たれたその一言は未知との遭遇の緊張感を見事に霧散させた。


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