きみは星座
昇降口で所在なく待っていると、彼女は本当にやってきた。
俺を見つけ、マスクの上の両目でぎこちなく笑いかける。
揺れるポニーテールと白いハイソックスがまぶしくて、直視できない。
なんだか信じられなかった。
俺たち、本当に付き合ってるんだ。
野球部のカキンという乾いた打球音を聴きながら、校庭を回りこむようにして歩いた。
下校する帰宅部の集団に見られにくいルートだ。
いや、別に見られてもいいんだけどさ。俺は。
「
彼女が遠慮がちに訊いてくる。
「平気。もともと幽霊部員だから」
「あたしも」
ああ、かわいい声。やばいな。ふたりっきりって、思った以上にやばいな。
今からこんなんじゃ、身が持たない。
左半身でばりばりに彼女を意識しながら、肩を並べて歩いた。
彼女の鞄は、俺の鞄の入学当時くらいぴかぴかで、全然傷んでいない。女子だな、と思った。
ふたりとも自分のスニーカーに向かって話すようにうつむいたまま、ぽつぽつと会話は続く。
話題を探す沈黙は、けっして気づまりなものではなかった。
好意が、ちゃんと、届いてるから。
まあ、告白したのは俺だけどな。
クラスは違うが委員会が一緒だった。広報委員という、くそおもしろくない委員。
グループで活動させられるうち、彼女と話すときだけ挙動のおかしくなる自分に気づいた。勘違いでなければ、彼女の方もそうだった。
他の男子にとられたくない。そう思ったとき、自分のクラスに戻ろうとする彼女を思わず呼び留めていた。
それが先週金曜のことだ。
どんなに回り道をしても、彼女の家には15分で着いてしまう。おもちゃみたいにカラフルな屋根の建売住宅が並ぶ住宅街。
また明日学校で、と別れるには惜しすぎた。
ああ。デートってどうやってするんだろう。誰も教えてくれなかった。
「なんかさ」
緊張で乾いた喉から、裏返った声が出た。
「え?」
「なんか、昔よく遊んだ公園がこの辺にあるんだけど、久々に行ってみていい?」
嘘だった。あの公園の存在は知ってるけど、足を踏み入れたことなどない。
「うん、行こ」
彼女も俺の嘘に気づいている気がした。
「ポカリでいい?」
「うん。あ、お金」
「いいから」
「えっでも……ありがとう」
自販機でポカリスウェットを2本買い、公園に入った。
手入れされていない雑草をざくざくと踏み分けてゆく。ちくちくする、と彼女が笑った。小さなバッタが草を揺らしてぴょんと飛び、緑の中に消えた。
ベンチに並んで座ると、白い制服のシャツから伸びる腕同士が軽く触れあった。心臓がどくんと鳴った。
こんなに緊張するのは、剣道の大会のとき以来かもしれない。
既にびっしり結露しているポカリスウェットのペットボトルを手渡すと、彼女は恐縮した様子で受け取った。
午後の太陽が、俺たちのうなじに初夏の光を届けている。マスクの下はとっくに蒸れていた。
「暑いな」
「暑いね」
そう返す彼女は、ちっとも暑そうじゃない。
俺がマスクを片耳にぶら下げてぐびぐびとポカリを飲んでも、彼女はペットボトルを持て余すようにじっとしていた。
デーデ―、ポッポー。デーデ―、ポッポー。
間の抜けたキジバトの声が聞こえてくる。
「あ、
「え、あ、いや、ポカリ好き」
「ならよかった」
なんとなく
担任の口癖でも真似して笑いをとろうか。そう思ったとき、
「ちょっと見ないでね!」
突然、彼女が叫んだ。切実な声だった。
え? と思う間もなく、彼女は勢いよくペットボトルの蓋をひねり、顎までマスクをずらした。
頭をぐんと反らしてポカリを飲むと、サッとマスクを口元に戻して蓋を締める。
一瞬のことだった。
「……え、何を見ちゃいけなかったの」
間抜けな俺は思わず訊いていた。
泣きそうな目をした彼女と目が合った。
「なんでもない……」
「え、だって」
「まじでなんでもないから」
どこか怒ったように言われて、俺はひるんだ。
女子ってそんなに飲み食いしてるところを見られたくないもんなんだろうか。給食のときどうしているんだろう。
家族の誰より大口でわしゃわしゃ食べるうちの姉ちゃんに会わせてやりたくなる。
その後の会話は、どこかぎくしゃくしていた。何を話しても
なんだろう、どこかで歯車が狂ってしまったらしい。さっきまでの温かい空気が嘘みたいに。
女子と付き合うのって、難しいんだな。
俺はこんなんじゃなくてもっと、ほっとしてもらえる存在になりたいのに。なんつーか、深いところでわかり合いたいのに。
「──ごめんなさい」
突然謝られて、俺はまたもぽかんとした。
「ごめんなさいごめんなさい」
「え、なに、どしたの」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
「なに……」
戸惑う俺を見据えて、彼女がゆっくりマスクを外す。その指が小さく震えていることに気がついた。
「あたしね、ここに」
彼女が指差したのは自分の顔だった。
鼻の脇あたりに、小さな
──え。もしかして。
「ちょっと目立つでしょ、これ。藤原くんにはまだ……み、見られたくなかったの」
──もしかして、そんなもん気にしていたのか?
「今って、マスクが必須じゃん? 実はちょっと生きやすくなったんだよねあたし。藤原くんも最初にこれ見てたら好きになってくれなかったんじゃないかな」
泣きそうな顔のまま、彼女はぺらぺらと早口で喋った。
ノーマスクの彼女を見たのが初めてだってことに、俺は今更気づいた。
肩の力が抜けてゆく。
顔を覆ってそのまま泣きだしそうな彼女に、俺は言った。
「ね、ね、見て」
ポカリをベンチに置いて、マスクを右耳から外す。少し迷って、左耳からも取り去って膝の上に置いた。
真っ赤な目をした彼女──なんてかわいい──を見つめながら、自分の口の左側を指す。
「ほらこれ、俺のコンプレックス」
「……」
不格好な薄いシミ。生まれたときからあるやつだ。
幼稚園の頃は、デリカシーのない友達にからかわれたものだった。「それ、拭いたら取れないの?」と真剣に訊かれたこともある。
彼女は呼吸を忘れたような顔をして俺を見ている。
「これ見て俺のこと、嫌いになる?」
「ならない。なるわけない」
漫画みたいにぶんぶん首を振る彼女が愛おしすぎて、衝動的に抱き寄せたくなる。
でも、ゆっくりでいい。きっと俺たちには、まだまだたっぷり時間があるのだから。
14歳だし。夏だって、これからだし。
「でしょ」
「うん。ごめん」
「マスク外したとこ、見たことなかったもんね。でも俺、マスクあろうとなかろうと……か、顔でえら、選んだわけじゃないから」
「うん」
途中で照れて噛んでしまった俺に、彼女が笑う。口角が持ち上がると、3つの黒子がきゅっと持ち上がった。
オリオンの三ツ星みたい。そう思った。
「播磨さんのは、星座みたいだ」
そう言うと、彼女の耳がさあっと赤くなった。
なんか、今じゃね?
ほとんど発作的に、彼女の顔に顔を近づけた。次の瞬間、薄いポカリの味を感じていた。
デーデ―、ポッポー。デーデ―、ポッポー。
キジバトがまた間の抜けた声で鳴いているけれど、それどころじゃなかった。
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