めんつゆ、コットン

 ぎゅるるるるるるるるるん。

 電動ドライバーの音が響く。

 正式にあたしたちの住処になったばかりの部屋の白い壁に、音はかすかに反響する。新しい木材のにおいがする。

 ぎゅるるるるるるるるるん。ぎゅるるるるるるるるるん。

 ベッドってこうやって組み立てるのか。知らなかった。

 業者のおじさんが無駄のない動きでベッドの本体にフレームを取りつけてゆくのを、あたしはだいちゃんとローソファーに並んで無遠慮に眺めていた。

 彼女との戦いで、疲れ果てていた。


「今このタイプのベッド、人気なんすよぉ」

 作業の合間に、おじさんはちょいちょいあたしたちに話しかけてくる。

 搬入するときはもうひとり作業員がいた。家具店が手配した業者の人。

 ワイルド系のイケメンだったからちょっとどきどきしたのに、搬入が済むと挨拶もせずにどこかへ行ってしまい、首に手ぬぐいを巻いたこのおしゃべりなおじさんだけが部屋に残って組み立て作業を続けている。

「……え、そうなんすか?」

 あたしの腰に回した手を一瞬浮かせて、大ちゃんがぎこちなく言葉を返す。

 一緒に暮らすことが正式に決まってから、このひとが年齢の割に業者対応が下手であることをあたしは知った。

 ぶっちゃけあたしもサービスの提供者との親密な空気は不要派だから、彼のおしゃべりは正直少し疎ましかった。

「そうそう。このね、ここがすのこになってるタイプ。よっ」

 おじさんは快活に言いながらベッドの角度を変える。

 その隙に大ちゃんは再びあたしの腰を引き寄せ、唇にすばやくキスをした。

「──もうっ」

 笑って彼を小突いてみせたのは、嬉しさでも照れ隠しでもない。恥をかかせないためだ。

 他人のいる空間でいちゃつくタイプだなんて、知らなかった。なに考えてんの。まじやめて。今はやめて。

 晴れて一緒に暮らせるようになったばかりだというのに、心の中ではドン引きしている。それを悟られないよう、またも唇を近づけてくる彼をくすくす笑いながら押し戻す。ちょっとぉ、などと甘い声を出して。

 ぎゅるるるるるるるるるん。

 ベッドに脚を取りつけているおじさんが、ちらりとこちらを見た。


 ずっと日陰を歩いてきたあたしが大ちゃんの正式な恋人兼同居人になったのは、先週末のことだ。

 正直、勝算はあった。大ちゃんみたいなモテる人が、5年も同じ相手と付き合い続けられるわけがない。彼女に飽き始めているところにするりと入りこんだのが、あたしなのだ。

 3月のあたしの誕生日にセックスしながら「俺、そろそろ本気で柚香ゆずかひと筋になるわ」と言ってくれてから、それでも半年以上かかってしまったけど。

 彼女も鈍感な人ではなかった。ずっとずっと水面下で戦ってきた。最後は三流ドラマみたいな修羅場になった。嘘みたいに陳腐な言葉で罵り合った。

 涙と鼻水をすすり上げながら荷物をまとめてこの部屋を出て行ったのは彼女だった。

 4年半ほど同棲したというこの部屋にそのまま新恋人を住まわせるなんてあまりに節操がないのでは、とさすがのあたしも思ったけれど、口にはしなかった。

 何も考えられないくらいへとへとに疲れきっていたし、大ちゃんが手に入りさえすればなんでもよかった。

「俺、オンナが替わったらベッドも替える主義なんだよねー」

 家具屋のオンラインショップで新しいベッドを選びながら大ちゃんが言ったとき、何かが胸の奥をざらりと撫でた。

 品のない言葉を取り繕うように甘いキスをされても、ざらつきはなかなか消えなかった。


 ぎゅるるるるるるるるるん。ぎゅるるるるるるるるるん。

 底板を天井に向けたベッドは、4つ目の脚を取りつけられている。それはまるで無防備に腹を晒す犬のように見えてくる。

「いやあ、僕こないだ初めてスクラッチっての買ってみましてね。意外に当たるんですねあれ。いきなり1000円出たんすよ。ラッキー、みたいな」

 おじさんは白々しいくらい明るく世間話を続ける。まるで、目の前の若いカップルの醸しだす性的な空気になど気づいていませんよとでもいうように。

 昨日粗大ごみとして引き取られていったあの古いベッドで、実際大ちゃんは彼女と何回抱き合ったのだろう。あたしたちはこの新しいベッドで、この先何回抱き合うことになるのだろう。

 おざなりに笑い返す大ちゃんに腰を撫でさすられながら、あたしは無為に思いを馳せる。

 彼女は今、どこにいるんだろう。もう、目の腫れは引いたかな。

 ちゃんとあたたかな寝床で寝てるかな。


 ではご確認くださいと急に引き締まった声で言われ、あたしたちは立ち上がる。

 新しいセミダブルのベッドは、転校生のような顔をして寝室の中央に置かれている。

 作業完了と受領の確認をしたら終了だ。ハンコハンコと大ちゃんがきょろきょろし、サインで結構ですよとおじさんが自分のペンを差しだす。

 まだ布団の敷かれていないベッドは、ただ大きいだけでやけに頼りない存在に見えた。しげしげと見つめても、これから自分たちがその上でさんざん転がることになるなんて、なんだか実感が持てなかった。


「それでは、失礼いたしまーす」

 帽子を脱いで丁寧に頭を下げ、玄関へと向かうおじさんに、何か飲み物くらい出すべきだったのではないかと、あたしは今頃思い至った。

「あ、ちょ、ちょっと待ってください」

 バイト用に買いこんである500mlの緑茶のペットボトルがいくつか、冷蔵庫に冷えている。ほら、飲み物くらい、と大ちゃんにささやいてキッチンにダッシュした。

 慌てて冷蔵庫の扉を開けたら、マグネットで乱雑に貼りつけられていたチラシやメモ用紙の中から紙片が1枚、はらりと足元に舞い落ちた。いらいらしながら拾い上げる。


 めんつゆ コットン 食器せんざい


 ボールペンでそう書かれていた。乱雑なのに大人っぽい、女性の文字。

 一瞬、思考が止まる。

 冷えたペットボトルを取り出しながら、無意識にそのメモを左手の中に丸め入れた。

「わあ、ごちそうさまでーす」

 不自然なくらいの笑みで緑茶を受け取ったおじさんが帰っていっても、「悪いな、気ぃきかなくて」と大ちゃんに謝られても、あたしはぼうっとしていた。

 めんつゆ、コットン。食器せんざい。

 圧倒的な生活感。それをあたしが、あたしは、超えてゆけるのだろうか。

「やっとゆっくりいちゃつけるな」

 大ちゃんがあたしを引き寄せ、立ったまま胸を揉み始める。

 少し汗くさい彼のTシャツの背中に腕を回しながら、あたしは左手の中のメモが潰れないようそっと守り続けていた。

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