歯形

 がりっ。


 やわい皮膚の下で骨の感触がし、ぎゃあ、という耳をつんざく息子の叫びで我に返った。

 自分が我が子の手に噛みついたのだということに、遅れて気がついた。

 目の前のダイニングテーブルには、油性ペンと真新しい幼児服が散らばっている。


「ああああ──! いたい! いたぃぃぃぃぃぃ」

 さっきまで私の背中にぶら下がって首を締め上げていた息子は、首をのけぞらせて火がついたように泣いている。

「ごめんっ、ごめんごめんマーくん」

 慌てて小さな手をとって確認する。手のひらと手首の境目あたりに、赤い歯形がくっきりと残っていた。

 冷凍庫からアイスノンを取ってきて歯形に押しつけ冷やそうとするも、さらに大声で泣かれるばかりだ。


何事なにごと?」

 リビングのソファーでバラエティ番組を観ていた夫がだるそうに顔をあげた。

「や、えっと……」

「マサヤ、どうした」

 ぎゃあぎゃあ泣き続ける息子の元へ、夫は不機嫌そうにやってきた。涙をいく筋も頬に貼りつけた息子は手首を夫に突きだす。

「ちょっ、おまえ……なにこれ、噛んだの!?」

「だって……マサヤがあたしの首締めるから……」

 本当のことなのに、なぜか言いわけめいた口調になった。


 4歳になっても普通の指示が通りにくい息子のマサヤは、大人のわたしに文字通りぶつかってくる。腕や首にぶら下がり、背中や腹にパンチし、スライディングキックもかましてくる。

 乳児ならまだしも、4歳児のフルスイングの攻撃は本気で痛い。

 基本的にいつも不機嫌オーラを漂わせている夫には懐かず、持て余した体力はいつも私だけに向けられるのだ。

 さっきだって、西松屋で買ってきた服に記名している私の首にぶら下がって全体重をかけるものだから、危うく窒息しそうになったのだ。

 やめてやめてと叫んでもよけいにおもしろがってさらに力をこめてくるので、顎の下にあったその手に思わず噛みついてしまった。


「だからって! マサヤはまだ4歳だろ! 39歳のおまえが本気で噛んでどうすんだよ!」

 ああ、始まった。目の前が暗くなる。

 普段は家事も育児もノータッチなくせに、私の落ち度だけは確実に突いてくる、自称「いいパパ」の夫。

「ごめんなさい……でも自己防衛っていうか」

「俺じゃなくてマサヤに謝れよ!」

「ごめんね、マーくん」

 父親の怒声に驚いたのか、息子はようやく泣きやんでいた。ひっくひっくと喉だけを小さく鳴らしている。

「よしよし、痛かったな。恐いママでしゅねー」

 こんなときだけ猫なで声を出す夫の胸に、息子は顔を埋める。

 テーブルの上、Tシャツの「おなまえ」欄から大きくはみ出した油性ペンの黒が、視界の隅ににじんで映った。

 がりっ、という嫌な感触が、まだ前歯に残っていた。


 翌日曜は、朝から黒っぽい雨雲が空いっぱいに垂れこめていた。

「マ―くん、トーマス観る?」

 息子の好きなテレビで気を引かないと、家事は進まない。私の脚にじゃれついていたマサヤは「とーます!」と嬉しそうに叫んだ。昨日の歯形はほとんど見えないくらい薄くなっていて、ひとまず安堵する。

 と、紺色のダウンコートに袖を通しながら夫が近づいてきて私の手からリモコンを取り上げ、ぷつんとテレビを消した。

「ちょっと、なにす……」

「マサヤ、おばあちゃんち行くぞ」

 え?

 そんな予定は聞いていない。困惑する私を尻目に、息子はおばあちゃんち! おばあちゃんち! とはしゃぎ始める。興奮で床をだんだん踏み鳴らす。

 夫は息子を横抱きにして玄関に向かい、靴下靴下、と言いながら戻ってきて私の前を横切り、和室へ入っていった。

「え、なに、実家行くの? そんな話してたっけ?」

「だっておまえ、マサヤに危害加えるだろ」

 夫は死んだ魚のような目をこちらへ向けた。

 凍りつく私を置いてふたりは玄関を出てゆき、扉の閉まるばたんという音だけが冷たく反響した。


 月曜日。

 ほとんど会話のないまま朝食を終えて夫が出社していくと、少しほっとした。彼の好むはちみつトーストの甘ったるい匂いが食卓に残っている。

「マーくんもご準備しようねえ」

 どうせ車で出勤するのだから途中にある幼稚園に乗せて行くくらいしてくれてもいいのに。毎度のことながらそう思いつつ、登園バッグにコップや歯ブラシを詰めこんでいると、スマートフォンが着信した。

 液晶に義母の名前が表示されている。嫌な予感がぞわりと胸を撫でた。

「……もしもし」

「今、大丈夫?」

「ええまあ、登園前ですけど」

 こちらの都合などどうでもいいに違いなかった。いつもこうして一方的に電話してきては、私の時間を奪うのだ。

冴子さえこさんあなた、マーくんに暴力ふるってるんですって?」

「……」

 キンと耳鳴りがした。

「私が言うことじゃないかもしれないけど、どうして自分の子どもに噛みついたりするの? まだ4歳じゃないの、信じられない。かわいそうよ」

「……」

 心の中に、びっくりするほど黒い感情が湧き起こる。


「歯形見たわよ、私。ねえ、冴子さんあなた、疲れてるんじゃない? 疲れてると虐待に走りやすいんですってよ。これ以上なにか起こす前に一度病院行ったら……」

「かわいそうですか?」

 絞りだすような声が出た。

「マサヤはかわいそうですか? ええ、かわいそうかもしれませんね。普段パパはまったく構ってくれなくて、ママは家事と内職ばかりやってて、コロナでどこにも遊びに行けなくて、体力持て余してて」

「冴子さ……」

「私はかわいそうじゃないですか? 家のことも子どものことも全部任されてて、自分の時間なんて全然なくて、何かあったら全部私のせいになって。お義母さん、あなたの息子さん、自分の子どもの爪すら指一本分も切ったことないですよ。幼稚園のお友達の名前なんてひとりも言えないですよ」

 せきを切ったように流れ出る感情は止まらない。

 心配そうに膝に乗ってきた息子を、左腕でしっかりと抱きかかえた。

 いつからかわたしの心にもくっきりとある歯形が消えるようにと祈りながら。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る