フレンチ・アールグレイ・ティー

「俺の影響だよね」

 それが彼の口癖だ。


 わたしが内田百閒を好きなのも、わたしが日曜の朝にランニングする習慣があるのも、わたしがたまにメンソールの煙草を吸うのも、すべて彼由来であるというのだ。


「俺が近代文学好きだから、影響されたんだよね」

「俺が健康的な子が好きって言ったから、走るんだよね」

「俺が喫煙者だから、本数増えたんだよね」


 最初はいちいち「は?」と疑問の声を上げていたけれど、みるみる不機嫌になるその顔を見るほうが憂鬱になり、最近は無駄に逆らわない。

 自分の影響力をいちいち確認しないと生きてゆけないひと。別にそれでいい。

 はいはい、と話を合わせてさえいれば特に難のない恋人だし、何よりわたしは彼のそのビジュアルがどうしようもなく好きなのだった。

 わたしは恋人に多くを求めない。


 日曜の朝。

 ランニングから戻り、軽くシャワーを浴びてキッチンに立つ頃、前夜から泊まりに来ている彼がのっそりと起きだしてくる。

 バタートースト、ゆで卵のサラダ、ハーブ入りウィンナー、コンソメスープ、ヨーグルト。

 まったく変わらないいつもの週末。

 茹でたてのウィンナーにフォークをぷすりと突き立てる瞬間、生きてる、と思う。

 レースカーテンから差しこむ陽光が彼の寝ぐせだらけの髪を照らすのもいい。


「昨夜、さ」

 トーストを咀嚼しながら、彼が含みのありそうな声で言った。

「白い下着だったね」

「え、ああ」

 臆面もなく性の話題を朝食の席に載せるひとだ。知っている。

「俺がこないだ、清楚系が好きって言ったからでしょ? いつもは黒とかベージュなのに」

 わたしはいつものように「はいはい、そうね」とあしらう。苦笑いとともに。

 もう慣れた。そんなことでは損なわれない。

 わたしの尊厳も、ささやかな朝の幸福も。


 サファイア色の矢車菊が目に鮮やかな茶葉をさらさらとティーポットに移して湯を注ぐと、ベルガモットのさわやかな香りが立ちのぼった。

 フレンチ・アールグレイ・ティー。

 数あるアールグレイの中でも、ライトな飲み口のこれがわたしのお気に入りだ――ずっと前から。

 彼に出会うより、もっともっと前から。


「ああ、美味しい」

 ティーカップを両手で包み、ゆっくりと香りを味わう。温かなお茶が喉を伝って胃の腑に滑り落ちてゆく。

 向かいの席で彼が同じ仕草で飲んでいるのを見て、ふとおかしくなった。

「なに?」

「ううん」

「なんだよ」

 彼は腑に落ちない顔のままフォークを動かす。落ち着かないときの癖で、灰皿を意味なく手元に引き寄せる。


 これだけは、あなたがなんと言おうと、あなたの影響じゃない。

 ずうっとずうっと前、大好きだったひとに教えてもらった紅茶なの。

 あの美しい思い出とこのお茶があればわたし、誰とでも生きてゆけるの。

 緑茶党だったあなたも、いつからかこればかり飲んでるよね。

 わたしの大好きだったあのひとに、間接的に影響されているよね。


「ふふっ」

「だからなんなんだよ」

「なんでもないよ」


 フレンチ・アールグレイ・ティーは、どこまでもやさしい。

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