細井さんの都合

 あたしは標準体型よりちょびっとデブなので、細井とか細田とか細川とかいう名字じゃなくてよかったと常々思いながら生きている。

 名字と体型とのギャップに耐えられずに死んでしまいそうだから。


 同じレジの中で隣りに立つ細井さんは、アルバイトのあたしと違って正社員だ。アラサーの女性で、髪はほわんとしたパーマのかかったボブで、中肉中背。

 デブじゃなくてよかったね。あたしは心の中で語りかける。

 細井さんにしたら、余計なお世話もいいところだ。


 正社員だけが着ているスーツみたいな制服は、グレー地にチェックが入っていて、ちょっとかっこいい。

 アルバイトは、てろんとしたナイロン素材の紺色のエプロンだ。ぶっちゃけださくて、モチベーションが上がらない。

 他にやりたいことがあるから今は気ままなフリーターだけど、この書店は悪くない職場だし、そのうち社員登用の試験を受けてみようかな。

 そんなことをちらりと考える日もある。


 制服のブラウスからのびる細井さんの手首から指先にかけて、ところどころ引っかいたような赤い傷がある。

 アトピー性皮膚炎。たぶん、それなのだと思う。あたしの弟も、小さい頃そんな肌だった。

 よく見ると――と言ってもそんなに無遠慮に直視できないけど――顔も全体的にうっすら赤く、カサついている。

 ダイエットサプリの手放せないあたしとはまた違った苦労があるのかな。あるんだろうな。


「2,000円お預かりいたします。こちらカバーはお付けしますか?」

 細井さんのお客様がこくりとうなずいたのを見て、あたしはカウンターに置かれた書籍を横から自分の手元へさっと引き寄せてカバーをかける。書店名とロゴの入った、茶色い紙のカバー。

 細井さんはその間にお預かりした代金の乗ったトレイを親機へ持って行き、会計を済ませる。

 すっかり身に馴染んだ連携プレーだ。

「ありがとうございました」

 お客様がレジから離れたあと、細井さんはわざわざあたしにもお礼を言う。

 誰に対しても態度を変えない。腰が低くて、凪いだ海のようで。

 細井さんは、いい人だ。


 控え室でお昼を食べて、売り場に戻る前にトイレで化粧を直していたら、扉が開いて細井さんが入ってきた。

「お疲れさまです」

「お疲れさまでーす」

 挨拶もそこそこに、急ぎ足で個室に入ってゆく。


 細井さんにしては、なんだか素っ気なかったな。

 鏡の前でだらだらとリップを塗っていると、枯葉の擦れ合うような音が個室から聞こえてきた。


 しゃかしゃかしゃかしゃかしゃかしゃかしゃかしゃかしゃかしゃか。


 音の意味を察した瞬間、あたしは落ち着かなくなった。

 そのデリケートな音をそれ以上耳にしないよう、そっとトイレを出た。

 だけど、レジに戻って接客を再開しても、音はしばらく耳から離れそうになかった。

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