9月のスケッチ

 おろしたてのサンダルのストラップが足の甲に食いこみ、この時期に新調するなんてバーゲンで買ったことがバレバレで、風に混じるほんのひとにぎりの秋を感じ、それでもマスクの下で小さな滝をこしらえながら駅まで歩き、不動産の店先の間取り図には「成約済」の赤い札が誇らしげに貼られ、電車に乗ればさっそく爪先を踏まれ、自販機にはいつから貼ってあるかわからない「新商品入荷しました!」の貼り紙が色褪せていて、毎朝買うそば茶のPETボトルを身をかがめて取りだして、道端の吐瀉物を回避して、また風に秋を感じ、このあたりのごみ収集日だから酸っぱい匂いが漂うエリアを早足で抜けて、目の前を歩く先輩に気づいてペースダウンして、鞄の中のスマートフォンがぶるっと震えて、植えこみのまえで立ち止まって、「今日は◯◯さんの誕生日です!さっそくお祝いメッセージを送ろう!」を確認してスマホをしまいこみ、鎖骨のあたりに10ccほどの汗が溜まっている気配がし、拭きとりたい気持ちと戦いながら社屋にたどりつき、指先で記憶している暗証番号を押してIDカードをかざし、無愛想な清掃員とすれ違いながら階段を上り、誰もいない社員食堂の隅に座り、汗を吸いこんだマスクを外して膝に乗せ、リュックからタオルを取りだして首すじにあて、PETボトルの蓋をひねってそば茶をひとくち、ごくり、と飲んで、何か、何か、大切なことを忘れている気がして、思いだせないまま、あと少し、ほんの少しだけ、自分のままでいさせてと願い、時計の針は容赦なく進み、マスクを着けて社会人の仮面をかぶりながら、あの何か、の正体を意識の隅で探り、控え室に入ろうとして、主任おはようございますと挨拶されて、そうだった、わたし今日からほんのちょっぴり昇進したんだった、それを忘れていたことが心の底からおかしくなって、はははと思わず笑ったとき、首すじのあたりをまた汗の雫がぞろりと流れて、リュックの中のそば茶がちゃぷんと音を立て、そうだ、そうだね、9月の始まりを始めようか。

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