厨房から祈りを

 その客はいつもひとりで来店する。


 季節を問わず手首を覆うカーディガンを着て、少しくたびれたハンドバッグを提げ、12時5分きっかりに現れる。

 眼鏡の日と裸眼(コンタクト?)の日があるが、首の後ろで黒い髪をひとつに結んだヘアスタイルは変わらない。

 ちょっと猫背だ。


 テーブル席や小上がりの座敷ではなく、俺のいる厨房に面したカウンター席の壁側を定位置にしている。

 迷いなくすとんと座ると、遠慮がちに隣りの席の椅子を引いてそこにハンドバッグを置く。

 お茶とおしぼりを置きに行ったバイトの中村に「今日の500円ランチは……」とぼそぼそとたずね、肉ではなく魚系であれば必ずそれを選ぶ。

 中村が伝票を挟んだバインダーを厨房の壁に貼り付けながら「500ランチひとつ!」と叫ぶのを待つまでもなく、俺はもう解凍した鮪に包丁を入れている。


 食事を待ちながら、彼女はうつむいて文庫本を読む。いつも書店のロゴの入ったブックカバーがかかっている。

 ページをめくる右手の薬指に、ちょっとごつめの銀色の指輪がはまっている。

 傍に置いたスマホ(うさぎの耳のついたケースだ)がときどき何やら受信するらしく、そのたびにぱっと何かに弾かれたような顔をして文庫をスマホに持ち替える。


 食事が運ばれてくると小さくどうも、と頭を下げ、しばらくは食べることに集中する。

 よくいる女性客のように、スマホのカメラを料理に向けてぱしゃりとやったりすることはない。

 猫背をさらに丸めながら咀嚼している間は、無窮むきゅうを見つめるような目をしている。

 食べ終わるとハンドバッグからピルケースを取りだし、錠剤らしきものをひと粒飲む。

 腕時計をちらちら気にしながら、ぎりぎりまで文庫を読む。

 やがて諦めたように席を立ち、厨房の俺たちに軽く頭を下げながらレジに向かう。

 きっかり12時50分に退店。

 いつも御飯をひと口だけ残す。

 トレイの隅に、使ったおしぼりが几帳面に折り畳まれている。


 この辺りで働くOL(死語?)か何かであることはほぼほぼ間違いないだろう。

 どこか生活疲れした様子から三十代半ばくらいかとあたりをつけていたが、意外に若いのかもしれないと最近思い始めた。

 うさぎ耳のスマホケースに、ハンドバッグに揺れるリラックマ。顔をまじまじと直視したことはないが、目元をピンクっぽく彩った化粧は最近の若い女性たちの特徴な気がするし、子どもがいそうな気配もない。


 気になる理由は、自分でもよくわからない。

 失礼だが美人とかそういう部類ではないし、もっと個性的な常連客なら他に何組もいるのに。

 ただ、彼女がいつもの席に座っているだけで、世界が収まるべきところに収まっている気がする。

 平日なのに彼女が来ないと他の店に浮気(?)したのかともやもや考えてしまうし、その翌日にマスクの下で少し咳こみながら現れると、なんだ風邪だったのかとほっとしたりもしてしまう。


 向こうには、自分はどんな風に見えているのだろう。時折、俺はうっかりそんなことを考える。

 無精髭で背の高い料理人?

 黒づくめで寡黙なマスター?

 少なくとも俺の味付けは気に入ってくれているわけだ。

 特段おしゃれでもなんでもない、海鮮丼が看板メニューの、夜は居酒屋になるこんな店に、飽きずに通いつめてくれているわけだから。


 俺にとって彼女がいつもの風景の一部であるように、彼女にとっても俺が、この店が、いつまでも心地よい存在であれたら。

 そんなことを祈りのように思いながら、俺は今日もむさくるしい厨房の中で魚介を切り、肉に下味をつけ、レタスをちぎる。


「こんにちはあ」

 土曜日の昼だった。

 少しずつ混み始めた店に男女ふたり連れの客が入ってきて、カウンターの端に座った。

「へえ、意外なセレクト」

「でしょお?」

 得意げに言ったのは女の方だ。手にサニタイザーを擦りこみながら俺はちらりと彼らを見、息を飲んだ。

 彼女だった。

 いつもゆわえられている髪の毛は解かれたまま肩の上に散らばり、いつものカーディガン姿ではなく肩がむき出しの服を着て、背筋をぴんと伸ばしているもんだから、まったく気づかなかった。

 そもそも彼女が週末に来店するなんて初めてのことだった——ましてや、誰かを伴ってだなんて。


「今日って500円ランチ何ですかあ?」

 中村がお茶を運んでくるのも待たずに彼女に声をかけられ、俺は面食らう。そんな声だったのか、などととズレたことを思う。

「……今日は……『まかないちらし丼』っす」

「あ、じゃああたしそれで」

「ここから注文しちゃうんだ、ツウっぽいね」

 初来店であるらしい若い男は、まぶしそうに彼女を見る。

 古着っぽいTシャツを着た、あどけなさの残る顔をした男。その右手の薬指に、ごつめの銀色の指輪が光るのが見えた。

「まかないちらしがいちばん美味しいと思うんだよね、個人的に」

「じゃ、俺もそれで」

「オッケ。おじさん、まかないふたつね」

 ぱきぱきした声と満面の笑みを向けられ、俺は戸惑いつつも承知しゃーした、と答え手を動かす。

 おじさん、か。おじさん……。


 文庫本も、うさぎ耳のスマホも、カウンターの上に置かれることはなかった。 

 顔を寄せ合って熱っぽく言葉を交わすふたりを前に、なんだか無性に笑いがこみ上げてきて、俺は丼に酢飯を盛りつけながら肩が震えないように笑い続けた。

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