葵と茜

「この子がもし女の子だったら、あかねって名前にしていい?」

 最近ようやく膨らみの目立ち始めた腹を撫でながら言うと、やっぱり耕佑こうすけは困り顔になった。

 わたしの言うことに反対なんてしたことのない、優しい夫。

 だらだら観ていた金曜ロードショーはいつのまにか終わって、やかましいCMの音がテレビから漏れ続けている。


 あの事故に遭ったのは、わたしが8歳、妹の茜が6歳の頃だった。

 父の誕生日にみんなで外食をした帰り道。家族で4人で乗っていた乗用車が、国道で飲酒運転の車に後ろから激突された。

 車は横転し、わたしたちは交通安全教室で見たダミー人形みたいに路上にどさりと投げだされた。


 何が起こったのかわからず、自分の頬がアスファルトに接触していることをまず不思議に思った。ガラスの破片で体のあちこちから血が出ていることに気づいたのは後のことだった。


 目線をさまよわせると、前方に見慣れたうちの車がひしゃげて転がっており、そのすぐ横に妹が倒れているのが見えた。その脚がありえない角度に曲がっているのを見て、初めてゾッとした。

 おそるおそる自分の体も動かしてみようとしたとき、これまでに味わったことのない激痛が左腕に走った。

 口の中に、血の味が広がってゆく。


 ――わたしたち、どうなっちゃったの?

 目の前に散らばっているガラス片に初めてピントが合ったとき、地面からダイレクトに振動を感じた。車がこちらへ走ってくる。

 あ……、


「茜っ!」


 頭上から母の叫びが聴こえた。その声は、先刻の衝突音よりもクリアにわたしの耳に刺さった。

 同時に、茜に覆い被さる母の姿。わたしはそれを、道路に転がったままぼんやりと視界に映していた。


 ――気のせいじゃなかったんだな。

 あたしのほうがお手伝いがんばってるし、勉強だってできるのに。なのに、茜が産まれた頃からずっとあたし、お母さんにとって透明人間みたいなんだ――


「危ない、あおい!」

 続けて聴こえた父の声で我に返った。

 わたしはとっさに強靭な意志の力を使って全身で転がり、道路の端に体を寄せた。その横すれすれを走り抜けてゆくトラックのタイヤを見ながら、ゆっくりと意識を失った。


「――あのとき、わたしの方がよっぽど危ない場所にいたのにねえ」

 腹を撫でながら、わたしはくすくす笑う。

「人の本心がわかっちゃうもんだよねえ、ああいうときってさ」

 何度も何度も聞かせたその話を、耕佑は忍耐強く聞く。黙ったままこのソファーとキッチンを往復し、やがてしゅんしゅんとお湯の沸く音が聴こえてくる。


 肩の脱臼と左腕の軽い骨折で済んだわたしと違い、茜は右脚に後遺症が残った。結婚どころか恋愛の気配もなく、就職もせず、両親と共に実家で暮らし続けている。

 去年のわたしの結婚式のときでさえ、母は花嫁のわたしよりも松葉杖の茜を気遣っていた。


「茜にしよう。茜一択。そうしようそうしよう」

「葵」

 海よりも深いところから響く穏やかな声で、耕佑がわたしを呼んだ。妊婦のわたしのために淹れてくれたカフェインレスのたんぽぽコーヒーを、静かにローテーブルに置きながら。

「それなら俺は、いかなるときもその子より葵を優先して生きよう。小さな茜が乳児でも、6歳でも、8歳でも、たとえ命の危機でも、いつだって葵を、葵だけを守り続けて」

「――だめ」

 思わず遮ると、耕佑は目尻に皺を溜めて微笑んだ。

「でしょう?」


 目の奥がしょっぱくなり、ぬるい涙がだくだくと頬を伝う。

 耕佑はソファーに座り直し、わたしを抱きしめた。後頭部をやさしく抱きかかえ、小さな子どもにするように背中をとんとんたたく。

「親が、子どもに背負わせちゃいけないよ」

 柔軟剤のにおいがする耕佑のグレーの部屋着に涙のシミを作りながら、わたしはだらしなく泣き続けた。

「それにうち男系家系だから、たぶん男の子だと思うよ」


 ぐすっ。

 大きく洟をすすったとき、腹の中に初めて自分のじゃない心音を聴いた気がした。

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