ハイシャマン
ハイシャをやっています、と言うと、たいてい変な顔をされる。
知り合いなら「ゴリゴリ文系のおまえがなんでメディカル系に?」という顔。初対面なら「なぜ『歯医者』のアクセントを平板に?」という顔。
でも俺はまちがってない。
歯医者じゃなくて、配車をしているのだ。
「六幸ケミカル物流の
「六幸ケミカル物流の梶原で……あっはい、ウィングで……行き先が三重県いなべ市……あっはい、折り返しお待ちしてます」
大手化学企業の子会社である六幸ケミカルの広大な敷地内に、さらにその子会社である六幸ケミカル物流の事務所がある。
警備室近くの更衣室で作業着に着替え、工場の煙突やダクトやガスタンクや危険物倉庫をいくつも通りすぎて、小さなプレハブ小屋のような事務所の扉を開く。
倉庫作業のおじさんたちを除く男女合わせて10名分ほどの机が並ぶ。その中のひとつが、俺の席だ。
来る日も来る日も、朝から晩まで運送会社に電話をかけまくる。工場から顧客に荷物を届けるための、運送の手配の電話を。
ケミカルが加工した原料を、物流が梱包から発送まで行う。そんなイメージ。
「ハイシャマンは大変だねえ」
女性陣の中で唯一の正社員である
実際、俺は大変だ。物流危機のこの時代に、都合よく動いてくれる遠距離トラックやウィング車をつかまえるのは容易なことではない。有休なんて、入社以来とったことがない。
うっすら笑い返しながら俺はカントリーマアムを受けとり、机の端にそっと寄せる。そこには食べる暇さえない差し入れの菓子の山ができており、なんだかお供え物みたいだと俺は思う。
大柄で寡黙な支店長より、倉庫課長の新田さんより、俺はこの藤木さんが苦手だった。
明るいし、仕事ができるし、俺みたいな若手社員への面倒見もいい。だが、とにかく口が悪い。いつだって、その場にいない誰かが彼女のターゲットになる。
支店長はデブ、新田さんはハゲ。管理職のおっさんたちはまだしも、最も仲の良さそうに見える赤羽さんのことまで「アニメ声」と揶揄するのを聞くと、やるせない気持ちになってしまう。女性同士にはなんとなく連帯していてほしいものだが、勝手な願望かもしれない。
藤木さんが事務所の空気を支配しているので、誰も反論したりいさめたりしない。きっとみんな、自分も彼女に悪く言われているのを察している。
俺だって何かしら言われてるんだろう――ひょろ長とか、ださメガネとか、ひょっとしたらもっと酷いことを。
「梶原さん、ニットク通運の西さんからお電話ありました。会津若松市の件、OKだそうです」
電話を切った途端、経理の
「あ、ありがとうございます」
これで1件消化した、と安堵しながら、俺は渡会さんの顔をちらりと見た。
最近よく、この渡会さんが藤木さんの悪口の対象になっている。
なんでも「自分のことを頭がいいと思っていて、ノリが悪い」のだそうだ。
たしかに渡会さんは話す言葉の端々に知性を感じさせる人で、こんなところで契約社員なんかやっているべきじゃないように思うのだけど、何か悪感情を引きだすタイプではないのに。藤木さんと同じ子育て中の、善良な主婦なのに。
さっきも渡会さんが離席している間、藤木さんが「こういうの、渡会さんなら『ジェンダー問題!』とか言いそう」などとみんなの笑いを引きだそうとしていた。
ああ嫌だ嫌だ。
迎合してへらへら笑ってしまう自分が、いちばん嫌だ。
終業の鐘が鳴り響いてから1時間半、ようやく今日の分の配車を終えて、俺は深い溜息をつきながら帰り支度を始めた。これでも倉庫の梱包が比較的早く終わった日で、事務所にはもう誰もいない。
原色の赤に近い西日が差しこんで、小さな事務所はワインをこぼしたように染まっている。
なんか今日、渡会さんあんまり元気なかったな。PCの電源を落としながらふとそう思い、それから自分にぎょっとした。
俺最近、渡会さんのこと気にかけすぎだろ。ちょっとかわいいとは言え、既婚で子持ちで38歳だぞ。おいおい。
「あ、梶原くんやっぱりまだいたー」
さっきまでクレーム対応をしていた藤木さんが戻ってきた。
帰るタイミングを逸して、浮かせかけた腰を椅子に戻した。
更衣室のロッカーの鍵をキーケースごと忘れたとかで、自分の机の引き出しをごそごそやりながら、藤木さんは言った。
「梶原くん、月9って観てる?」
「……え、月9ドラマっすか」
「そう。『愛がどうした』」
「家族が観てるんで、なんとなく一緒に観てますけど」
「おもしろくない?」
「普通におもしろいっすけど……」
「だよねー!」
我が意を得たりとばかりに、藤木さんのトーンが跳ね上がった。
「あんなにおもしろいのにさあ、渡会さんは観ないって言うの」
――また渡会さんかよ。俺はさすがにげんなりする。誰かの悪口を聞くために残業していたわけじゃない。
「あの人、自称サブカル派なんだって。どんだけ高尚なセンスしてんのか知らないけどさ、国民的ドラマをバカにするとかさ、相当イタいよね」
不快感が、胃の底の方からむかむかとせり上がってくる。
なんなんだよ、毎日仲良く一緒に昼飯食ってるくせに。自分は他人をジャッジできるほど完璧な人間なのかよ。
「――あ、あったあった鍵」
「フェアじゃないっすよ」
「え?」
やばい。口が勝手に動いた。
「そういうの、フェアじゃないと思うんすよ」
職場の女ボスに何を言う気だ、俺は。こめかみに脂汗が滲む。でも、気持ちは不思議なくらい落ち着いていた。
「何が?」
「本人のいないところで貶めるようなこと言うのとか、俺は」
反論など予想もしていなかったであろう藤木さんは、束の間ぽかんとしたあと、みるみる不機嫌な顔になった。
「俺はもう、聞きたくないです」
ええいもう、どうにでもなれ。
自分の奥底に眠る正義感のかけらが目を醒ます。それはこの夕陽のように、みるみる体中の細胞に広がってゆく。
俺はスーパーマンじゃない、何者でもない、ただのハイシャマンだけれど。
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