猫の住んでいる森

髙月晴嵐

猫の住んでいる森

トンネルの暗闇の先から白い光がこちらを照らす。

それは目の前を通過するとゆっくりと速度を落とし、やがて停止した。


階段から時間に間に合わなかった人たちが慌ててカツカツと降りる音が反響する。


扉が開き、私は慌てて車内に入る。

今日は運良く座る事ができた。

このささやかな幸運により、この日やうやく安息を得る事ができた。


地下鉄のトンネルの空気と車体が擦れて、音と共に電車を揺らす。


そのせいか、私は眠りに誘われてしまった。

駅に着くまではまだまだ時間もある。


ここ最近、寝ても寝足りないのだ。体は確かに休めているのに、重い何かが私をずっと引きずっている。

もう疲れた。一眠りしてもいいだろう。






風が髪を撫でる。土と草の匂いがした。

瞼を半分開くと、木の枝に葉と月が乗っていた。


飛び起きて辺りを見渡すと頭から葉っぱが落ちた。

私の周りを妙に大きい草が囲んでいる。

草が満遍なく地を埋め尽くし、その頭上をたくさんの木々が覆っていた。


目が覚めると巨大な森の中にいる。

何だこれは?

夢か??

何かのイタズラでこんな森に運ばれたのか?


恐る恐る足を踏み出す。

草を踏む音を久しぶりに聞いた。

森の暗がりの中を進むと、視界の先をオレンジの暖かな色が漏れていた。

行手を阻む草をかき分けると、篝火が置かれているのが見えた。

私は凝視した。




そこには篝火の周りを踊る二足歩行の猫たちがいた。一匹はギターを持っている。

体育座りで座っている猫もいて、笛を吹いていた。


私は猫の踊りをしばらく眺めた。

曲に合わせて、猫たちは三角の耳や細い尻尾を動かした。


曲が終わると休憩に入ったのか、篝火を囲んで座りだす。

その時、私も無意識に座ろうとしたのだろう。

草を揺り動かしてしまった。


一匹の猫が耳を動かしこちらを向いた。

スクッと立ってこちらに向かって歩いて来る。

その光景に私は放心し、体が動かなかった。

猫が草をかき分け、こちらを見る。


「そんなとこに隠れてないで参加しようよ」


「ね、猫が喋ったっ!」


驚くことにこの猫たちは立つ事のみならず、喋ることができるようだ。


「変なことを言う奴だなぁ」


放心している間に手を引かれた。

肉球の感触が気持ちいい。

距離は思っていたほどなかったらしく、秒もせずに私は猫達の横に座らされた。

周りの猫たちがこちらを見ている。


「どこから来たの?」


「なんて名前?」


「私は…… アレ?」


私は答えようとしたが、言葉が出なかった。

知っているはずなのに、モザイクがかかったかのように記憶を辿る事ができない。


それどころか、住んでいる場所だけでなく自分の名前すら忘れている事に気づき、愕然とした。

どういう事だ。

記憶を失くした結果、どこかの森にでも辿り着いたという事だろうか?

でも、こんな猫たちがいる森なんて聞いた事ない。


「ワタシさん?

喉が乾いて喋れないのかも、水を渡してあげて」


一匹の猫が気を遣ってこちらに湯気のたつ木のコップを差し出した。


「はい」


コップの水面が私の顔を映し出した。


私は驚いた。

私の姿も猫になっていたのだ。

よく見るとコップを握る手も猫の手だ。

少し伸びた爪でがっしりと掴んでいる。


記憶を失くした結果、身体が猫になった。

うん、わからない。


何が何だか理解できないまま私はコップの白湯を飲むことにした。

暖かい。

喉を通して身体がポカポカと温まっていく。


「話したくない事もあるだろうさ、話さなくていいよ」


黙っている私に先程、手を引っ張った猫が助け船を出してくれた。


「ごめんなさい」


「いや、先程の話はなし。僕の音楽を聴いてくれるならいいよ」


ギターを持った猫がそう言うと自慢の爪でギターの弦を弾き出す。


猫の爪にそんな使い方があるのか。

見事な音色を耳にしながら私は猫たちに聞いた。


「皆さんは何処からこの森へ」


「ワタシさんこそどうやってこの森へ入ったの?」


私は正直に話す。


「私は気づけば、この森にいました」


「うん、そうだよね。僕らも気付いたらここにいた。だいぶ、昔の事だけどね」


話を聞くと、どうやらここの猫たちは長い時間、ここに住んでいるらしい。


「あの踊りはずっとやっているのですか?」


「うん、そうだよ。やる事が他にないし、来る前と違ってお腹も別に空かないからね」


そう言えば私も夕飯を食べてないのに、まだお腹が空いていない。

喉は乾いていたが。なんでだろう。


ふと、私にコップを出すように言った猫を見る、

その猫は木のコップを作っている最中だった。

爪を使って太い木の内側を彫っていく。

何だか、道具を使う人間が馬鹿みたいに思えてきた。

コップを作り終えると、集中力を使い果たしたのか、うつらうつらと船を漕ぎ始めた。


一通り話し終えて他の猫たちも眠くなり始めたのか、目が徐々に細くなり始めている。

一匹が足を胴体の方に閉じて、手を前に組んでアイロンのように眠り始めると、他の猫たちも寄り添って眠り出した。

私も眠い。もう一生ここにいてもいいと思うくらい寝たい。


「そうだ!」


私を引っ張った猫が立ち上がって肉球を叩いた。


「この森に来たなら湖へ行こうよ!」


そう言ってまた私の手を掴んで、歩き始めた。

私は睡魔に襲われていたので、されるがまま湖に連れて行かれる事にした。



夜の森は月明かりを枝で隠すので松明の灯りに頼って歩く。

しばらく歩いていると霧が出てきた。

湖が近いらしい。


霧の染み出す草の壁を爪でかき分けると私は息を飲んだ。


見渡す限りの水面に一点、丸い月が映っていた。

ここに来るまでは霧に包まれていたのに、ここは空気が澄んでいる。

この湖は空の鏡だ。

風に揺れる星々、流れていく雲。


ふと懐かしい感触が胸を埋め尽くす。


記憶が閉じ込められた箱の蓋が開いていく。

私の忘れていた記憶が呼び覚まされた。

それは今の私の家がどこにあるかの情報よりも、もっともっと古い朧げなホコリをかぶった光景だ。


この湖は時間を保存しているんだ。



私は小さい頃、ここを訪れている。

確か私はその日、いなくなってしまった飼い猫のタマを探して家の裏の山に入った。

お母さんに怒られたくないから、という理由で私は母が帰って来る前にタマを探した。

夕陽はあっという間に沈んだ。

夜の山道は怖かったが、タマがいなくなってしまう事の方がもっと怖かった。


私はあの時、どこまで行ったのだろう。

月がずいぶんと高く登ってしまって、霧も出てきてしまった。

もう私はタマを見つけられない、それどころか私も家に帰れないかもしれないと思うと涙が溢れた。

泣きながら歩いた。

その時、うっそうとした木々の視界が開くと水面に月が映っていた。

あの湖はこんな幻想的な場所ではなく、実際はただの池だったのかもしれない。

それでもあの時見た光景とこの湖は同じ物を映していた。


私は見つけられなかった猫を思い出し、振り返る。

私はこの森がどんな場所なのか理解した。


「ありがとう、タマ。ここに呼んでくれて、でも私はもう戻るよ」


「あの時は突然、いなくなってごめんね。

猫の森に帰らないといけなかったんだ。

でも、今は元気に過ごしているから、もう心の奥底で罪悪感を持ち続けないで。

こうして、また会えたんだから」


霧が晴れていく、草についた露に一斉に月が映った。


「わかった」


その月も沈んでいく。

数千の朝が木々に草に土に訪れていく。

森に陽が降り始めると、


私の身体は徐々に消え始める。



「でも、また会えるよね」




「うん、またね」







私の視界が真っ白に染まった。

























随分と長い夢を見ていた。

不思議な世界に行ったような。

夢の中で何があったのか忘れてしまった。

霞がかって思い出せない。


なぜか全身が軽くなったような気がする。

身体は相変わらずダルいが、心は以前みたいな重さが取れている。

心に乗っかっていた荷物がおりたような気分だ。


家を出て朝の街を歩いていく。

何だか生まれ変わったようだ。


朝日を浴びるアスファルトの上を歩く。

ふと泣き声が聞こえたので、横を見た。

公園で子供が泣いていた。


近寄ってみると、子供の下には猫が倒れていた。


「どうしたの」


私は言った。


「猫さん死んじゃった。かわいそう」


子供の返答に私は言う。


「猫さんは今も幸せにどこかにいるよ」


「本当に? どうして?」


子供が聞いて来ると、私はなぜか確信して答えた。


「猫さんは猫の住んでいる森に帰ったんだよ」

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猫の住んでいる森 髙月晴嵐 @takatsukiseiran

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