side: BLACK 11話 昼下がりの休息

光輪が消え、瞬きした後、蘇芳はFMDを額から外した。

そして、今いる場所を確認する。

煉瓦が剥がれ落ち、コンクリートが無骨に露出した壁。

天井と床は雨風に晒されたように古ぼけている。

色彩に欠けた部屋。

窓から差し込む陽光が、容赦なく空間から正気を奪って見えた。

ブラインドは閉め切った筈だが。

疑問は程なく解けた。

「おかえりなさい」

来客用のソファに腰掛ける少女。

亜理紗の長い髪は元の黒々とした濡れ羽色に戻っている。

あの薄紅色のイメージは電脳空間におけるアバターだったのだ。

「お仕事おつかれさまでした。はい、これ」

まるで差し入れだと言わんばかり。

氷の浮かぶ翡翠色のグラスが差し出された。

「私はさっき飲んだからいいよ」

言いたいことは山ほどあるが、先に蘇芳は一口だけ飲んだ。

「礼を言う」

「お礼もなにも、蘇芳さんが淹れたお茶だし…」

「違う。バグの件だ」

あ、と丸い大きな目に沿った細い眉毛が僅かに傾いた。

「アレ、もう大丈夫なの?」

アレ、と言いつつ深い事情を知らないであろう。

依頼人との守秘義務は絶対遵守。

ゆえに蘇芳は詳しく語らない。



バグと称したオールド・ワンを撃退した直後、サーバーにこじ開けられた亀裂を修復した。

ひいてはサーバーの復旧作業だ。

終わる頃には現実世界リアルの時計が正午を過ぎていた。

『ありがとうございました、ブラックスミス…夏目蘇芳様』

A.I.Aを代表してアスハは謝辞を述べ、報酬を提示した。

前回と同じ額で現金。

駅前のコインロッカーに預けるという手順はいつもどおり。

金融機関を通す手間が省ける。

『今回の相手は手の込んだやり方でネットワークに介入してきました。本来なら報奨金は倍以上にすべきだと上に掛け合ったのですが』

必要ないと蘇芳は返した。

契約を違えるつもりはないのだ。

『せっかくの好条件だったのによ』

帰還するまでの間、ひたすらウルは愚痴を振りまいた。

家賃と生活費の二ヶ月分を払ってもまだお釣りが出てくるとこぼして。

『見たい映画ダウンロードしたかったけどなあ…』

蘇芳は取り合わなかった。

仕事はまだいくらでもある。

羽目を外さなければ生活には困らないというのに。

それに蘇芳にとって、これから考えなくてはならない問題が眼前にあった。




「ねっ、私って役に立つでしょ?」

眼前の少女である。

あるいは、地球の民間人という体裁を取ったハッカーだ。

『なあにが「私って役に立つでしょ?」だ、このバカが!』

速攻で先手を打ったのはウルだ。

『危ないとこに首突っ込みやがって。下手すりゃお前、目付けられて殺されてたかもしれねえんだぞ? 分かってんのか⁈』

相手が女子供だろうが、発展途上惑星の一般市民だろうが、ウルの言葉には容赦がない。

だから蘇芳は何も言わない。

彼は蘇芳が長年使役してきたAI。

主人の意を代弁しているだけだ。

だから、蘇芳は異口同音に責めない。

代わりに亜理紗の出方を観察する。

『さっきはセーフだった。けど、二度目はねえ。また勝手にしゃしゃり出てみろ。お前のお袋探しは断る。いいな?』

「なにソレ」

キョトンと亜理紗は目を丸くしたまま(元から丸みを帯びてはいるが)首をひねる。

「あなたは探偵じゃないでしょ? どうして依頼を断るなんて決めつけるの? どうするかは蘇芳さんが決めるのに」

『はあ? 蘇芳も同意見だからだろうが‼︎ 無関係なガキが、探偵の仕事に首突っ込んでいいわけねえだろ‼︎』

「首を突っ込むって…私、ただログインして見てただけよ。あなた達が困ってたから、解決策を提案したのに…」

『ログインして、だと? ハッキングでログインしたんだろうが‼︎ つうか、「提案しただけ」って、どういう意味だ? あの様子、どう見たって手出しする気満々…』

「もういい」

蘇芳は二人に待ったをかけた。

小競り合いがエスカレートしそうになる前に。

諍いというものは当事者以外の人間も疲れる事象だ。

「結果的には助けられた。ひとまず礼を言っておく」

モニターに浮かぶドット絵のキャラクターが赤くなる。

憤慨していることを示すために。

亜理紗の頰はほんのり赤みが差したようだ。

こちらは照れているのだろう。

「そう言ってもらえると…」

「だが、褒めるつもりはない」

え、とだけ。

形のいい唇がぎこちなく固まる。

「バグの動きを封じる発想は気に入った。冷静な観察眼による分析と判断も認める。はっきり言ってそれだけだ」

途端、亜理紗は身を乗り出しかねない体勢で反論した。

「それ…どういう」

「あの異形が、君の存在に気づいていたらどうする?」

異形、とバグの正体を明かした。

昨夜の廃屋。

待ち伏せしていた公園。

異星の食人鬼と変わらない存在。

そこでようやく、亜理紗の顔から血の気が引いた。

「君のスキルは卓越している。人並み以上だ。だがもし…あの異形が君のかけたテクスチャーを剥がすことなく、君に気付いたらどうしたと思う? あの化け物は迷うことなく君を襲うと想像しなかったのか?」

幸い、ミ=ゴ共は混乱していた。

機神マキナの排除を優先する余り、閉鎖された空間に民間人が侵入したことに気づいていなかった。

「不用心だったな」

反論は聞こえなかった。

ぺたんと尻餅をついたように腰を下ろしたきり。

心なしか、亜理紗のポニーテールは力なく垂れ下がって見えた。

『ナイスフォロー』

モニターから声もなく、文字だけが流れる。

ドット絵のアバターは拍手していた。

『この手のガキには怒鳴るより効果的だな。静かに簡潔に、ってか』

実際、亜理紗は言い返す言葉が見つからないようだ。

昨夜の体験がフラッシュバックしたらしい。

充分だ。

「今回限りだ。いいな?」

「…ん」

返事はいのつもりだろう。

蘇芳はそれ以上言わなかった。

くどくどと小言を並べる行為を嫌う。

「家まで送る。いいな?」

「…ん」

肯定はいと受け取った。




すでに昼食の時間がピークを過ぎたようだ。

アーケードを行き交う通行人の頭数は減っていた。

飲食店に列はなく、暖簾越しに覗く店内の人影はまばらだ。

「昼飯は食ったか?」

舗道に敷き詰められたタイルを見つめながら歩く少女。

ううん、と軽く首を横に振る。

「何が食べたい?」

シュシュで結ばれた黒髪が上下する。

振り返るというよりも、見上げる顔には見開かれた目。

アーケードの透明な屋根に差し込む陽光を受けて輝く。

「なんでもいいの?」

「予算による」

「母子家庭に育ったの。クラスの中じゃ経済観念がしっかりしてるって有名なんだけど」

初耳だ。

唐突に、今朝事務所で聞いたセリフを思い出す。

お茶汲みと掃除。

おそらく、母親から家事も仕込まれたのだろう。

ウルも同じ考えに至ったようだ。

『なあ。マジでこいつ雇うか? 雑用係が見つかったぜ』

ひたすら罵倒したはずの外宇宙産AI。

体内端末越しに主人へ囁く。

『勘違いすんな。こいつのハッキングは気に入らねえ。だから、手元に置いといた方が監視しやすくなる。ついでに、事務所のセキュリティ管理も任せとこうぜ。その分、オレが情報収集に専念できるだろ?』

要は、『楽をしたい』というわけだ。

(その話は後にしろ)

今は栄養補給が先である。

AIと違って、人間には生理現象が付き纏うからだ。

「昨夜の中華料理屋はどうだ?」

「あそこはよかったけど…今日は違う所がいい。できれば、ハンバーガーとうどん以外で」



消去法の末、カレー屋に落ち着いた。

その店は家具が壁と床に倣って濃いめのブラウンに統一されており、蘇芳の探偵事務所と内装のコンセプトがよく似ていた。

初めての来店ということで、亜理紗は興味深そうに辺りをそわそわ観察していた。

しかし鼻腔をくすぐる香辛料の匂いに気づいたらしい。

見慣れた友人に会えたような表情を浮かべている。

「外でカレー食べたことあるけど…ここ、なんか変わってる」

吊り照明が並んだカウンターを博物館のショーケースのようにじっくり眺める地球の少女。

その姿に蘇芳は納得する。

午後五時以降になると、この店はバーに早変わりするからだ。

注文を受けて盛り付ける店員はシックなベストとスラックス。

彼らの背後には、渋い色合いのボトルが大小問わず勢揃い。

逆さに吊るされたグラスは、それ自体が照明のように煌く。

『ここの店長、元は呉にいたとさ。かねえ』

さりげなく、ウルが仕入れた小ネタを披露する。

「そういえば」

二人の注文を受けた給仕の背中がカウンター奥に消えてからだ。

思い出したかのように、亜理紗は切り出した。

「蘇芳さん…ホントに宇宙人なんだよね?」

『宇宙人』の意義が『宇宙に住む人類ヒューマノイド』を指すなら、亜理紗も同類だろう。

しかしこの場合、『異星人』と捉える方が妥当だ。

この店の席には衝立がない。

数年前地球を襲ったパンデミックの影響で、テーブル間の距離は広まった。

声のトーンに注意すれば、聞かれる心配はない。

「なぜそんなことが聞きたい?」

「だって、見た目全然私たちとちがうから…あ、でも、あの時…」

サイバースペースで目撃した蘇芳の姿と彼の力。

思い出したのか、亜理紗の頭は疑問符だらけに違いない。

「いったい、何者なの? ただの探偵じゃないよね。どちらかというと、ルパンやホームズみたいっていうか、むしろハリー…なんだっけ?」

固有名詞を幾つも出されたところで、蘇芳にはイメージが浮かばない。

少なくとも、亜理紗の年齢から察するに、フィクションの登場人物だろう。

「本当に探偵なの? まさか、魔法使いとかじゃ…」

「だとしたら、どうする?」

丸みを帯びた眼球。

瞳孔がすっと縦に伸びる。

見開かれた黒目がちな双眸は蘇芳から引き剥がせないでいた。

黒い瞳が映す、のせいで。

「…冗談、よね?」

応えるより先にドリンクが運ばれた。

蘇芳の瞳から赤みは消えていた。

砂糖もミルクも断ると、蘇芳は一口だけコーヒーを啜った。

返答を亜理紗は待ち構えるが、蘇芳が冷たいうちに飲めとラッシーを勧めたため、話題はすり替わる。

「俺は地球人ではない。だが、俺だけではない。君は知らないだろうが、県全体から見れば、少なくとも…百人に一人は異星人ということになる」

高天市を含む、全ての市町村と島嶼部を包括するK県。

全人口は約九十八万人。

内訳、約八千九百人に及ぶ。

「私の学年。一クラス三十六人なの。で、五クラスあるから、百八十人」 

「つまり、一学年に一人は紛れ込んでいると見た方がいいな」

それならまだ穏やかな話だ、と蘇芳は思う。

仮にクラスメイトが異星人だったとしても。

いきなり取って食われる心配はないだろう。

「蘇芳さんの仕事…依頼ってそんなのばかりなの? 異星人と戦ったり、ネットに潜り込んで怪物を見つけたり」

「一部分に過ぎない」

あとは地球人達がやるような、ありふれた調査依頼である。

一般人の素行調査や素性調査、企業の信用調査、行方不明者の所在調査等。

いずれもプライバシーの観点から蘇芳は調査内容を明かさない。

「詳しくは話さない。だが、君の依頼に関しても同じだ。誰にも明かすつもりはない」

「そっか」

僅かに黒い瞳が細まる。

緊張で張り詰めていた眉間が、今は緩んでいる。

夏目蘇芳という探偵を、あるいは異星の異形殺しをあらためて信用することにしたのだろう。

「分かった。もう、あなたの仕事を邪魔しない。お母さんについて分かるまで、おとなしく待ってる」

今度こそ。

亜理紗は諦めたようだ。

「そうだな。そうできればいい」

これ以上、御堂亜理紗という地球の少女に危険な行為をさせるわけにはいかない。

あの時は、ミ=ゴの攻略方法がすぐに思いつかなかったため、やむを得ず手を借りた。

もう巻き込むわけにはいかない。

(またわけにはいかない)




カレー屋を後にした時点で二時を過ぎていた。

「遅いランチになっちゃったね」

「自宅まで送ろう」

すでに亜理紗の住所は把握してある。

旧市街地とウォーターフロントが交わる住宅地に位置していた。

『案外近くだったな。なんなら、帰りに紫苑のとこに寄るか?』

「今日はよしておく」

ふと、視線を感じた。

亜理紗が覗き込むように見上げているからだ。

「どうした?」

「気にしなくていいのに、私のこと」

蘇芳は眉根を寄せた。

(何を言ってる?)

聞き返そうとするが、メールが入ったらしく、亜理紗はスマホの画面に顔を突っ込んだきり。

『危なっかしいな。ながら歩きかよ』

小柄な少女が通行人や自動車とぶつからないように注意して付き添うことにした。

目を丸くしてスマホを覗き込む仕草。

湖水に映る自身を見つめる小動物そのもの。

(たしか、紫苑がそうだったな)

ウルの提案ではないが、いずれ顔を出した方が良さそうだ。

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