side: BLACK 2話 探偵事務所

「どうぞ」

氷が回るグラス二つ。

コースターにシロップとミルクの入った小さな容器もテーブルに降り立つ。

「あいにく紅茶しかないんだ。僕はそっちの方が…」

亜理紗は黙ってグラスを見つめる。

あるいは、グラスで回る氷を。

(できれば温かいのがよかったのに)

通り魔(らしき人物)に見つかったかと思い、さっきは心臓がバクバクと早鐘のように高鳴った。

汗はかいていないが、悪寒がまだ残っている。

「どうかした? もしかしてジュースやココアの方がよかったかな」

亜理紗は首を振った。

どちらかというと緑茶の方が好きなのだが。

「いいです。それより…本当にいいんですか? 私、小学生なのに」

「いいのかって…ああ、もちろんさ。なにしろ、命の恩人だからさ。探偵として依頼を引き受けるよ」

亜理紗が助けた鈴木は、柔和な笑顔で相槌を打った。

「本当なら子どもからの依頼は受け付けないし、料金の関係もある。だけど、君は特別だ。費用はもちろん無料タダ。必ず見つけて見せるよ」

そう言って、湯気の立ち込めたカップに口をつけた。

眼鏡がたちまち白く曇り、亜理紗はその様子がおかしかったので吹き出した。

「やっと笑ったね。大丈夫、必ず会えるよ。君のお母さんにね」




◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



「亜理紗、お家の鍵はちゃんと持ったかしら?」

はい、と携帯端末に繋げたストラップを見せた。

紐にぶら下がるのは二本足で立つ青いネコ。

小さい頃から好きなキャラクターだ。

ネコと並んで小さな銀色の欠片がぶら下がっていることを確認。

「こういうのを鍵っ子っていうんだよね?」

そっと亜理紗の頭に触れながら、

「寂しい?」

「ううん、大丈夫」

むしろ大人になったように得意な気分だった。

下校時刻を気にせず、途中本屋や雑貨店に寄り道して帰れる。

帰ってすぐおやつを食べてゆっくり寛げる。

至れり尽くせりだ。

しかも、

「お誕生日の日には帰るから。それまで叔母さんやしーちゃん達と仲良く過ごしてね」

亡くなった父の姉にあたる叔母夫婦やその子ども達とは物心つく頃から親しく付き合っていた。

叔母は子ども好きで面倒見がよく、従弟妹達とは兄弟姉妹のような間柄だ。

だから亜理紗は母親が仕事で三日間家にいなくなると聞いても平気だった。

しかも、

「誕生日ケーキとプレゼント、今のうちにリクエストしてちょうだい」

座っていたソファから飛び上がりながら抱きついた。

すると、母親は満足そうに微笑んだ。

その日の翌朝、いつもより早く起きた亜理紗は朝食を手をつける前に母親を見送った。

「じゃあ、お母さん行ってくるわね」

そう言って母親は出て行ったのだ。



お誕生日の日には帰る。

そう言って、母親は帰らなかった。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



「遠慮しないで飲んで」


促されて、亜理紗は手にしたグラスが汗をかいていることに気づかされた。

「あ…すみません」

せっかく淹れてもらったのだ。

喉に流し込んでから深く息を吐いた。

「今君が置かれている状況をもう一度整理するね。君のお母さんは一週間前に仕事に行くと伝えて出かけた。君がいつでも自宅に出入りできるように鍵を預け、親戚の家に預けた。間違いないね」

はい、と短く一言だけで答えた。

この探偵は頭をフル回転させて母を見つける方法を探している。

だから必要な情報だけ伝えた。

「以前にも…こんな風に長く留守にしてたことは?」

「ないです。それに連絡だって」

「ちなみに、お母さんは何のお仕事をしてるのかな?」

「道の駅です。自然食品を扱ってる。でも、今度は違うんです」

眉間に皺を寄せながら、鈴木は首を傾げた。

「前にやってた仕事なんです」

「前に?」

亜理紗は背もたれから離れた。

「私のお母さん、前はお父さんと同じ所で働いてたんです。そのお父さんも私が小さい時に死んじゃって、その後すぐお母さんはその職場を辞めたんです」

亜理紗の父親は学園都市にある民間の産業技術研究所に勤めていた。

母親は父親と学生時代からの同期で、結婚してからも家庭と仕事を共有していた。

亜理紗が生まれてからも変わらなかった。

ただし、夫の死と共に研究が中止になったこと、亜理紗を一人で育てなくてはならなくなったこともあり、研究所を辞めた。

以来大学時代のツテを頼って地元の農協に就職、亜理紗は母子家庭で育ったというわけだ。

「ちょうど二月の終わりくらいなんです。お母さん、昔一緒に仕事してた人にまた会えたって言って」

かつての同僚はもう一度亜理紗の母親に来てほしいと頼んだそうだ。

力を貸してほしい、研究に協力してほしい、と。

「研究?」

「くわしいことは聞いてません。お母さんはしかたないわねなんて言ってました。あんまり気乗りしないけど、他に行ける人がいないからとか」

私立探偵の男性は腕組みしながら頷いている。

ときおり相槌を打ちながら。

「かなり骨の折れる仕事ってことだな。帰りが遅いどころか、音信不通になるくらいだから」

「でも…誕生日の約束してたんです。しかも今…通り魔が」

初めて。

膝に乗せた手の指がきつく折り畳まれた。

節々が痛くなるほど。

先程、この探偵を追ってきた人影を思い出す。

闇の中の影。

歪な歩き方も。

「もし…お母さんまで、あいつにやられたら」

「そうだなあ…」

鈴木は自身のグラスを肘でテーブルの端に押しやった。

一口も口にすることなく。

「今のところ、被害者は死後二日経たないうちに発見されてる。もし君のお母さんが同じ目に遭ってたら、警察が見つけてるはずだよ」

血の気が引いたように青ざめた小さな顔と目が合い、若い探偵は動揺した。

「いや、別にその…悪気があって言ったんじゃないよっ! 君を安心させようとしただけだから…じゃなくて」

不審そうに少女の目が泳いだため、鈴木は必死でフォローしようとする。

「なんていうか…まだ諦めるには早いってことだよ。お母さんからは帰る日の前日まで連絡あったんだよね?」

「…はい」

「だったら、まだ焦る必要はないよ。むしろ、早めにこっちに来てくれて幸いだよ。心配しないで。必ず僕が君とお母さんを会わせてあげる。とりあえず、君のお母さんが勤めてるっていう職場の住所。知らないかな?」

住所どころか電話番号も知っているし、直接行ったりもした。

実際は、中まで入ったことはない。

職場にかけてみたが、なかなか繋がらなかった。

「今日はもう遅い。住所と電話番号さえ教えてくれたら、僕の方から連絡して直接行ってみる。それでいいかな」

探偵大人といっても、やることは自分子どもとたいして変わらない。

しかし、この探偵なら直接研究所の中まで入れるだろう。

実際に母親の同僚と会って話が聞けるだろうに。

「どうかな? 今日はもう遅い。家の前まで送るよ」

「でも…」

帰るのはともかく、亜理紗の目はまだ探偵を追ってきた影法師のシルエットがチラつく。

曲がり角で待ち構えていたら。

(どうしよう。きっと、私目をつけられたかも)

見透かしたように、亜理紗を覗き込んだ探偵は微笑んだ。

「大丈夫。いざとなったら、隠れられる場所を知ってるんだ。それに交番に面した通りを使うから、いざとなればそこに駆け込めばいいよ」

そうは言っても、実際この鈴木探偵は危うく通り魔の手にかかるところだったのだ。

亜理紗は不審そうに眉をひそめた。

「大丈夫だよ。そうだ、あれもいる」

そう言って壁際の事務机から小さな細長い板状を取り出した。

「それ、何ですか?」

「折り畳みナイフ…のレプリカ」

本物だったら、とドキリとした瞬間。

しかし、違うと知ってからの落差。

思わず顔をしかめた少女の顔に、探偵は吹き出した。

「まあまあ…じゃあ行こうか」




昔のシャッター街を通り抜けると、金融機関の集まる通りに出た。

そこから南下すると建物は次第に低くなり、あとは集合住宅の林立する郊外に出られる。

亜理紗と母親はその中のマンションに住んでいる。

「…」

市街地から出る車道は、夕方の喧騒と程遠い。

街灯は足元のみを照らし、電光消えた看板に最早意味はない。

「…」

「振り返らないで」

唐突な探偵の言葉に、亜理紗の足は止まりそうになる。

しかし鈴木は立ち止まろうとしない。

ただ、

「来てるね」

何が、と亜理紗は尋ねなかった。

誰が、と聞けなかった。

「見てご覧」

鈴木のズボンのポケットから楕円形が取り出された。

街灯の下でそれは開き、手鏡としての一面を見せた。

促されるまま、亜理紗は鏡を覗いた。

そして、目が見開かれる。





頭を包み込んだ輪郭。

肩はなく、最早首と胴体がひと繋ぎのように伸びた人型。

そしてぎこちなかった歩みはなぜか滑らか。

浮いているように体重を感じさせず、

進む様は足がないかのよう。





「走ろう」

鈴木の手は熱く、亜理紗の手をしっかり握っている。

自己紹介したとはいえ、ほぼ知らない人に近い大人に触られた。

亜理紗はぐっと堪えた。

今は文句を言っている場合ではない。

「逃げるんですか? でも交番は」

商店街の交番はすでに通り過ぎた。

次の交番まで五百メートルだ。

そこまで走るには体力に乏しい。

「ああ、分かってる。だから、別の場所を目指す」

「別の?」

「空き家だよ。もちろん所有者はいるけど県外にいるそうだ。今は不法侵入どころじゃないだろ?」

もたもたしていると追いつかれる。

亜理紗は迷うことなく頷いた。

その様子に鈴木も満足そうに頷いた。

「一気に走るぞ。ついて来てくれ」




たちまち、亜理紗の踵は地面から離れていた。

鈴木の足もまた重力や空気の抵抗を感じさせないほど、とにかく軽い。

二人の足は車なき車道を信号に関係なく突っ切った。歩み寄る襲撃者から逃れるべく。











知らなかった。

本当の恐怖がどこから来るのか。

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