付論:ライトノベルはバイトするヤンキーのためにある
ライトノベルは誰の利益に最も適うものなのか。
明るい者が自分を変えずに暗い他人を思想改造することこそライトノベル最大のお楽しみだ。しかし、明るくても真面目な性格では、登場人物が髪を染めている時点で受け付けがたい。
ライトノベルは日陰者の味方を自称するが、実際には孤独を「一人はだめだ」自己憎悪させ、「もう一人じゃない」と周囲への隷属を迫るメッセージばかりを発してきた。ゆえに、そうした日陰者は、ライトノベルの本質を悟るなり、幻滅して読まなくなるだろう。
つまり、本論で述べてきたライトノベルの体質から最も利益を受けられるのは、「アルバイト」と「ヤンキー」だろう。表現水準がラノベと同等の深夜アニメやソシャゲもこれと同じである。
ただし、ヤンキーといってもガチンコではない。
学校の怖くない先生には反抗しても、バイト先の怖い上司には決して逆らわないどころか、労組などの敵対勢力に暴力をふるうのをいとわない。アニメの中の変態には寛容でも、目の前の異端者には躊躇なく個人情報を晒し、面前であざけり笑う。そんな程度のしがない自称ヤンキーだ。
彼らにとってライトノベルは実に優しい。
髪を赤や青に染めても構わない。
いつまでバイトでいても、正社員から馬鹿にされない。
出産に至らない恋愛をいつまで続けても、親は登場しないので許される。
バイトの仕事は上司からけなされず、必ず肯定される。
バイトの勤勉は善である。
絶対正義のヤンキーバイトは、暗そうな奴の心理をどんなに蹂躙して無双しても感謝される。
「進む」選択は考える余地なく正しい。
ヤンキーが売り場とかの美女たちを独占して、暗い奴の悪口を吹き込み、美女たちと笑いあっているのが、現実空間のライトノベルだ。
やらおん等のまとめサイトが暗い奴を毎日迫害する記事を載せるのは、自虐しているからではない。
本当の読者層がこうしたバイトするヤンキーだからだ。
派手な映像が乱れ飛ぶeスポーツが、暗い奴の居場所であるかのように偽装されて、正統文化の中で受け入れられる構図もこれと同じである。eスポーツもまた、ライトノベルよりもずっと分かりやすく、学校へ滅多に行かずにバイトするヤンキーのためのものだ。
宇野常寛や斎藤環あたりのヤンキー文化論をライトノベルか深夜アニメに適用してみよう。ポップカルチャーを語る彼らのヤンキー文化論は何故か、主要科目のはずのライトノベルや深夜アニメを分析対象にしない。分析したら、それらが社会から疎外された弱者の味方というイメージが崩壊してしまうからだ。
ラノベの限界―ーライトノベル表現の不自由 純文仮面 @83-418
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