第22話 大陸の喉仏
陸路で国境を越えるためには通らなければならない場所がある。
急峻な崖が左右に伸びているこの土地によって南北は隔てられている。繋がっているのではなく隔てられているとされているのは、この区域に人の往来がほとんどないからだ。戦争中だから人が通れないのではなく、海によって浸食された崖は地盤が緩くもろい岩石でできており、崩落が多いのだ。南北ともにここを渡ろうとして事故死した者は多数に及び「死神の食道」とも呼ばれている。そのため関所や門を構えているわけではないが、ここを越えようとする者はいない。
南の国は、その無謀とも思える作戦を決行した。
「やはり、南は陸路をとるか。グラジオスの港はどこもどこも防壁がしっかりしているからな」
マルスの案は功を奏した。闇夜に乗じ、北に進軍する荷馬車にうまく忍び込むことができたのだ。破壊された船を確認したあと、ガスパでタウラたちが使っていた部屋に戻り、服を着替えた。いざ忍び込むとき段取りになったとき、大量のニマを目の当たりにして息を止めた。足を止めたマルスの肩を、ハンニバルがつかんだ。「やめてくれ」と懇願する目をマルスに向けていたが、却下された。たしかに、姿を隠すには好都合だ。しかし、入り込んで後悔した。荷馬車の中は鼻がへし折れるほど臭い。このまま、山脈を越えるまで過ごすのか。
日の出を前にして、南の軍が動き始めた。
「おれ、吐きそうなんだけど」ハンニバルの顔は、すでに青ざめている。
「そうか? 特に気にはならないが。ニマは身体にもいいんだぞ」
せっかくだからと言ってマルスはニマをかじった。
「マルスって、どういう嗅覚してるのさ」
タウラも極力息をしないでいたので、この状況でニマをかじれるマルスが信じられなかった。それに、問題は他にもあった。荷馬車にいる限りタウラたちは動くことができない。「大陸の喉仏」では崩落が何より危険だ。マルスがガスパに向かった際、航路を選んだのもそのためだ。崖の上から岩がしょっちゅう落ちてこられてはひとたまりもない。
「この速度で進めば、夕刻には山脈の入り口には着くだろう」
荷馬車からわずかに顔をのぞかせて外を警戒する。三人は交代で仮眠をとっている。タウラとマルスが二回目の仮眠を終えようとしたとき、ハンニバルが二人の肩を揺さぶった。
「到着だ」
タウラが外を見た。夕日が顔にかかったので、目を細めながら先に目を凝らした。巨大な山脈が
「明日はここを通るのか、いやだなあ」
「周囲の変化を見逃さないようにするぞ。いざとなれば荷馬車から飛び出す」
タウラの時代では、大陸の喉仏は封鎖されている。北と南の双方に関所が設けられ、だれも通ることができない。なので、その危険性を知っているわけではない。
「タウラくん、いざというときは盾になってね」
冗談とも思えないようなお願いをされた。ハンニバルがいやがるのだ、本当に危険なのだろう。この二人が生き延びるのであれば、犠牲になるのも仕方ないと考えそうになったが、首をふった。
弱気になっちゃだめだ。
タウラは思考を変えるために、ニマをかじった。
明朝、南の軍は進行を開始した。午前中はなにも問題が起きなかった。中天を越えたあたりで動きが止まった。三人は様子をうかがう。
「どっこらしょ」と荷馬車のすぐ近くで声がした。
「さっさと越えちまおうぜ。ここで休憩しても気が休まらねえ」
「馬を休める必要がある。敵の領地に入ればはどこで仕掛けてくるかわからん。体力を温存しておきたいのさ」
二人の兵士が会話をはじめたので、耳を傾ける。
「そうは言っても、敵の前に崩落に襲われちゃたまらんだろ。陸路を選ぶなんて正気の沙汰じゃねえ」
「新しい総帥の命令だそうだ。たいそう頭の切れると評判らしいぞ」
また総帥だ。ガスパの酒場でも客たちがうわさしていた人物であり、おそらく風を操った男が崇拝して――人に敬意を振る舞うのを極度に嫌いそうな人間がわざわざ敬って――いた「あのお方」と同じだろう。
腰を下ろしている男が舌打ちした。
「おれたちの苦労も知らねえでよ。人に指図する前に自分が身体を張れってんだ」
「身体を張ってきたからこそ、いまの立場があるのだろう」
「どうだかなあ。金でも積んだのかもしれないぜ。それか女でも貢いだか」
不満も多いみたいだ。総帥は兵士たちにはあまり評判がよくないのか。
「マルス、新しい総帥ってだれのこと」
「わからない。捕らえられていたときも、具体的な人物については聞かなかった」
「タウラくんは」
首を振った。今の話を聞いて腹の奥がむずむずした。グラジオスの将官でさえ知らない人物が総帥をしている? 変な感じがする。
「油断できない事態だ。グラジオス王にこのことを伝えないと」
そのためにはもっと進む必要がある。山脈を越えてもグラジオスまでは、陸路で三日かかる。
マルスとハンニバルが何かを察した。兵士たちに緊張が走っている。先頭の方からやってくる人物に直立不動で敬礼していた。腰を下ろしていた男も立ち上がり、姿勢を正している。
「クロス・リード様。どうなさいましたか」
「見回りだよ。ここは危険が多いからな。なるべく早くここを抜ける。苦痛を強いるが、しばし辛抱してくれ」
「はっ。お心遣い感謝致します」
さっきまで愚痴をこぼしていた兵士の声に張りが出ていた。タウラはマルスとハンニバルが並々ならぬ警戒をしていることに気づいた。
「どうしてあいつがここに」
南の国色である青の鎧をまとった男、体躯はハンニバルと同じくらいだろうか。鎧に負けぬ青の髪を刈り込み、額に傷を負っている。身体からほとばしる生気は自軍の兵士を活気づけるだけでなくタウラにも及んでいた。腕章をつけているから階級は上級指揮官だ。
「付近に問題はないか」
「いまのところ異常はありません」
兵士の言葉に一度は納得したものの、クロス・リードはタウラたちの潜んでいる荷馬車に目をやった。
「どうかなさいましたか」
「微弱なエラを感じるな」
クロス・リード荷馬車に向かって腕を突き上げた。突如、タウラたちの真下、地面が盛り上がり出した。
「まずい」
荷車が馬から切り離され、タウラたちの潜んでいたニマがひっくり返る。三人はうまく着地したが、その場に姿を現してしまった。
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