第71話:夏の亡霊の足音が聞こえる

 文化祭から一週間が過ぎた。10月も2週目に入り、春のセンバツ甲子園の切符をかけた秋季大会が間もなく始まろうとしていた。


 背番号1を渡された俺の状態だが。監督からの許しが出て本格的な投球練習を行っていた。


 初めはまずは身体の上下のバランスを確かめるためにキャッチャーは座らせずに立たせた状態で力は込めずに軽く行った。そこから徐々に強度を上げていき、最近になってようやく6割程度まで出せるようになってきた。順調な仕上がりだと思う。


 そしてこの日の練習終了後。大会間近このタイミングで練習試合が組まれることが工藤監督の口からレギュラー選手に告げられた。


「試合は三日後の土曜日。場所はここで行います。相手は静岡県の強豪、常華明城とこはなめいじょう高校です」


 俺の時が止まる。常華明城高校そこは―――


「今宮君。この試合の先発に任せます。秋季大会前に君の復帰戦が組めて本当に良かったです。球数は50球から80球前後を予定しています。いけますね?」


「は、はい。大丈夫です。任せて下さい」


 なんとか俺は返事をした。だが心境は穏やかではない。いくら秋季大会が近いからと言ってわざわざ静岡から出向くことはあるのだろうか。


「大会が差し迫った中、最後の調整をと考えているところに常葉明城さんから練習試合の話がありました。静岡の強豪校と戦えるのはまたとない絶好の機会です。皆さん、気を引き締めるように!」


「「はい!!」」


 そういうことか。ならこれはあいつと、あの人たちが仕組んだことか。


 俺はこみあげてくる怒りや吐き気、その他諸々の負の感情を全力で抑え、この場を乗り切った。


 悠岐や美咲さんは声をかけてきそうな顔をしていたが、俺は申し訳ないと思いながらもそれを断った。この二人では、俺は戻って来れない。そんな気がした。


 正直、この後どうやって帰ったかは記憶が曖昧だ。


 ただ本能に従って、足が動くままに俺は歩いていたのだと思う。習慣というものがいかにすごいものかを俺は改めて実感した。


「……晴斗? 晴斗!? ちょっとどうしたの!? 顔真っ青だよ!? 何かあったの?」


 自宅の扉の前。呆然と立ち尽くしている俺の前に現れたのは今一番会いたいと思っていた人。その人は心配そうな声で俺に話かけてくれた。


早紀さつき……さん。あぁ……早紀さんだ……」


 ふらふらと。俺はただその光を求めて彷徨っていた。


「どうしたの、晴斗? あなた本当に大丈夫―――ッツ!?」


 誰よりも近くで。誰よりも俺を支えてくれた人に。気付けば俺は身体を預けていた。


「あいつが……あの人達が……来るんです…‥……もしかしたら、俺を連れ戻しに来るのかも……そのためにわざわざ野球部を使って……俺はもう、何を信じたらいいのか……怖いです…‥」


「あの人達? 野球部を使って? ねぇ晴斗、本当にどうしたの? 何があったの? わかるように話してほしいな」


 突然のことに驚いたと思う。手にしていた鞄などの荷物もドサッと地面に落としている。でも早紀さんはあの時のように優しく抱き留めてくれた。


「練習試合が決まりました……相手は静岡の常華明城高校。そこは……本来俺が行くはずだった高校です」


「それって……もしかして……」


「はい。父の恩師が野球部監督を務めているところです。そして、あの女が通っている高校でもあります」


 夏の亡霊がケタケタと気味の悪い笑い声とともに近づいてくる。


 自然と震える俺の身体。呼吸がどんどん速くなり、視界も暗くなってくる。


 ナオちゃんと再会して。彼女の変わらぬ純真さに頑張ろう、前を向いてあの人たちと向き合ってみよう。既読すらしていなかったメッセージは最低限見るようにしてきた。内容はひどいものだったから返せていないが、いずれ返さなければと思っていた。


 そんな矢先の強硬手段。なりふり構わずの行動に、俺の決意は無惨にも砕け散った。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 早紀さんの胸の中でまた意識を失う。情けない所をまたこの人に見せてしまう。そう思った時だった。


 俺の唇は。


 早紀さんの柔らかい唇で。


 ふさがれた。


 初めてのキスだった。


 そしてそれは、深い深い沼底で藻掻いている俺を救い出す一筋の希望となった。


「―――んっ……ふぁっ……フフッ。晴斗、少しは……落ち着いた?」


「早紀……さん……」


 永遠ともいえるそのわずかな口づけ。だが俺の心は不思議と落ち着きを取り戻していた。早紀さんは顔を真っ赤にしながら笑っていた。


「もう……初めてのキスがこんな場所になるなんて思ってもみなかったなぁ」


「初め……て?」


「そうだよ。私の最初で最後のファーストキス。晴斗にあげたんだよ。この意味、わかるよね?」


「早紀さん……俺は……」


「大丈夫だよ。今は落ち着こうね。ここで話すもあれだから、まずは部屋に入ろうか? 家、くる?」


「…………はい。お邪魔します」


 素直にうなずいた。早紀さんはフフッ、といつものように笑ってくれた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る