第72話:あなたに黄色いヒヤシンスを
「どう? 少しは落ち着いた?」
「はい……ありがとうございます、早紀さん」
ふらついた足取りの俺は早紀さんに身体を抱えられながらリビングに入った。いつ買ったのだろうか、初めて来たときにはなかったソファがあって、そこに座らされて早紀さんが用意してくれた温かいはちみつ入りのホットミルクを飲んでいる。
温かくて甘い、ほっとするその味はまるで早紀さんの優しさそのもののようで。一人ぼっちで膝を抱える俺に手を差し伸べてくれた聖女に思えた。なんて言うのは大袈裟かもしれないけれど、それほどまでに、俺の精神は再び追い詰められていた。
「何があったのか、話してくれる? 話せば気持ちが楽になることもあると思うから。一人で抱えこまないで?」
「あり、がとう……ございます」
ついさっき話したことと重なってしまうが、俺は今日あった出来事を早紀さんに話した。
練習試合が決まったこと。その相手が父の恩師がいる野球部だということ。本来なら俺が行くはずだった高校で、あの女がいるということ。
「監督が言っていました。この試合は
「ご両親が仕組んだ、と。そう思ったんだね」
「はい……メッセージは毎日のように着ます。見て下さい、これ。ハハハ……笑っちゃいますよね? 学校をさぼってでも一度帰ってこい、だなんて親が言っていいと思いますか?」
俺は両親から送られて着たメッセージを早紀さんに見せた。そこに書かれていた内容を見て、彼女の表情はどんどん険しくなっていく。それもそうだろう。一度帰ってこい、しっかり話をしよう、なぜ恵里菜ちゃんと別れたのか、女子大生に唆されているんだろうとか見るに堪えないものばかりだ。
「里美さんは……このことを知っているの?」
「もちろんです。とりあえず無視するようにと。里美さんから連絡してもらっているんですけど聞く耳もたないみたいで……いずれ話さないといけないと思っていたんですけどね……」
俺は視線を地面に落とす。カップを持つ手が自然と震える。
怖い。ただただ怖い。あの人たちが何を考えているのかわからない。あの女が何を考えているのかわからない。どうしたらいいかもわからない。わからないことだらけだ。
「俺はただ……俺がやりたいと思えた場所で野球がやりたかった。それを親にも……恵里菜にもわかってほしかった。応援して欲しかった。ただそれだけだったんです……それなのにどうして……どうして……誰も………俺は、人形じゃないのに………」
ポタ。ポタ。ポタ。床に落ちる涙の粒を見つめながら、心に溜まる汚泥を吐き出していた。素直に応援してくれた。野球で活躍している姿をカッコいいと褒めてくれた。それが嬉しくて頑張ってきた。悠岐や友哉と出会い、互いに切磋琢磨して日本代表にも選ばれた。みんなが祝福してくれた。
「でもみんな、変わっちゃったみたいです……」
「晴斗…………」
「ごめんさない……ごめんなさい………有名になるから……頑張るから……だから俺にここで……悠岐たちと一緒に野球をさせてください…………俺から全部……奪おうとしないでください………もう俺を……一人にしないで……ください……」
自分が何を言っているのかわからない。頭がくらくらとして視界が揺れる。揺れているのは視界じゃなくて身体の方か。
「―――晴斗!」
目の前が真っ暗になる寸前。俺を柔らかくて慈愛溢れる温もりが包み込んだ。頭をぎゅっと抱きかかえられた。
「大丈夫だよ、晴斗。大丈夫。大丈夫だから」
ポンポンと。泣く子をあやすように、この人は俺の背中をただ優しく何度も何度もさすってくれた。
「早紀……さん……」
「怖いよね……みんなが別人のように見るのは。怖いよね……そんな人達に連れ戻されると思ったら、怖いよね……」
「ぅぅ………はい……」
「安心して、晴斗。君は一人じゃない。坂本君や、ナオちゃんがいる。哀ちゃんや、美咲ちゃんも、里美さんだっている。それに……私も」
「ぅあ………早紀さん……」
俺は自然に、彼女の身体に腕を回していた。俺達に間にわずかに残っていた空間はこれで無くなった。
「忘れないで……あなたの周りには、あなたのことをちゃんと見て、応援してくる人がたくさんいるってことを。
忘れないで。その中でも私が、誰よりも私が……晴斗のことを応援していることを。
好きよ、晴斗。誰よりも……あなたのことが」
早紀さんの静かで凛とした、でも溢れんばかりの愛に満ちた告白が、俺の耳元で囁かれた。
俺だけに聞かせるため。他の誰にも聞かせないその告白は、冷たい雨に打たれて震える俺の心に差し込む太陽だ。
「早紀さん……俺は…………」
あなたに何も返せていません。
支えられてばっかりで。
それでもあなたは、俺のことを好きだと言ってくれるんですか―――
落ち込んだ時。辛い時、苦しい時。俺はこの笑顔に救われてきた。
頑張った時。この人は心から褒めてくれた。頑張ったね、と言ってくれた。それが嬉しくて、また頑張ろうと思えた。
いつからだろう。練習でも。試合でも。この人の姿を探すようになったのは。
いつからだろう。この人の声を聴いて、嬉しくなるようになったのは。
いつからだろう。この人に、そばにいて欲しいと思ったのは。
いつからだろう。早紀さんのことが、好きになったのは。
「ありがとうございます……ありがとうございます……早紀さん……」
俺は早紀さんを強く、強く抱きしめる。
「は、晴斗……苦しいよ……」
「早紀さん……どこにも……どこにもいかないで……俺のそばに……いて……」
「晴斗…………?」
「落ちた心をあなたに救われた。緊張でおかしくなりそうな時、あなたの声で落ちつくことができた。頑張らないといけない時、あなたとの約束を思い出して頑張れた。俺が震える時、あなたが優しく抱きしめてくれた。今、してくれているように……」
まるで駄々をこねる子供のように。俺は彼女の胸に顔をうずめてイヤイヤと首を振りながら、俺は必死に思いを吐き出す。
だがこの想いは決して先ほどのような汚泥ではない。
ただ
「今日だって……話の後に悠岐や美咲さんに声をかけられました…………でも、俺はそれを断って、一人で帰って来たんです……
他の誰でもない……早紀さんに会いたかった……俺の心が、そう叫んだんだと思います……そんな風に思ったこと、一度もなかったのに」
辛い時や落ち込んだ時、心配された時。もし声をかけられたら、以前の俺なら悠岐や美咲さんに話していただろう。だけど、今は違う。
「心が……あなたを求めたんです……
だから、随分と遅くなりましたが、今ならはっきり言えます。
早紀さん。あなたことが好きです。誰よりも……好きです。
早紀さんからしたら俺は全然子供で……あなたに支えられてばかりいますけど……俺には早紀さんがいてくれないとダメなんです。それくらい、どうしよもなくあなたのことが……」
好きです、と口にするより早く。
俺の唇は、彼女によって塞がれた。
「んんっ………フフッ。嬉しい…………ずっと待ってたんだよ。晴斗から、そう言われるのを……すごく不安だったんだよ?」
「不安、ですか? どうして?」
「もう……言ったでしょう?
早紀さんの両手が俺の顔を包むようにして持ち上げる。見上げるような形で俺は彼女の瞳をじっと見つめた。
「だからね、晴斗が私を選んでくれて本当に嬉しいの。ありがとう、晴斗。私も、大好きよ。あなたのことが、誰よりも」
そして、早紀さんと俺は三度目のキスをする。
それはとても幸福で。蜜のように甘かった。
「早紀さん…………」
「ん? どうしたの、晴斗?」
「今日は……ずっと……このまま……一緒に、いたいです……離れたくない……」
自分でも驚くようなことを言ったと思うけれど。それ以上に、今日は大好きな人と一緒にいたいと俺の心が願っている。
早紀さんは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに目を細めて優しい声で言ってくれた。
「いいよ。晴斗が望むのなら、今夜はずっと一緒にいてあげる」
温かい陽射しが差し込んで。
俺の心は確かに、救われた。
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