第8話:それぞれの夜【女子大生:飯島早紀】

 日付が変わり早一時間。早紀はお風呂に浸かり、未だに昂っている気持ちを静めようとしていた。


「反省しないとなぁ。我ながらさすがに突っ走りすぎだったかなぁ。そりゃいきなり家に呼んで夕飯に手料理振舞って、あんなこと言ったら戸惑うよね」


 肩までしっかり湯船に身体を沈ませて、私は天井を仰いだ。


 晴斗君に迫った時、酒は一滴も飲んでいなかった。さすがに未成年の高校生、しかも今や時の人となっている晴斗君を前にして飲酒は論外。仮に彼が飲んでいなかったとしても話に尾ひれがつくご時世だ。とはいえ二人きりで食事している時点で尾ひれがつくのは十分考えられるのだがそこはご愛敬ということで。


「『時間を下さい』か。フフッ。フフフッ。晴斗君、かっこよかったなーあんな表情、マウンド以外でも作れるんだね……」


 普通に考えたら女性から、しかも四つも歳の離れた女性から、自分でもいうのもあれだが誘惑をされたら喜んで飛びつくか、ドン引きするかの二つに一つ。私の経験上、世の男性のほとんどが服を脱ぎ棄てながらダイブをしてくるだろう。


 だが、彼は違った。負けられない戦いに臨むエースのように、真剣な眼差しで私の目を見て、不器用ながら思いを伝えようとしてくれた。そこに感じられたのは女性を大切にしたいという彼の信念に似た思い。それは最近彼がした苦い経験がそうさせるのだろう。


「その点で言えば元カノさんには感謝かな。晴斗君をあっさり捨てて傷つけたことは許せないけど。でもだからこそ、彼の魅力はさらに増した。だからありがとうって言っておこうかな」


 野球に賭ける彼の思いを幼馴染で彼女なら当然知っているはずだ。それを少しばかり連絡が途絶えたくらいで他の男に乗り換えるなんて言語道断。ましてや準決勝戦後によりを戻してほしいと連絡を入れるとは。


「でももう遅いよ。晴斗君は、誰にも渡さない。私だけの、晴斗君にしてみせる」


 手放したのは元カノさんだ。ならそれを次に誰が手にしたとしても文句を言う権利はその子にはない。


「『心から貴方のことが好きになった時、今度は俺から告白します。』って……でもね、晴斗君。私、そんなに気は長くないんだよ」


 湯船の中でぐぐっと思い切り手足を伸ばして強張っている筋肉をほぐす。その動作に合わせて大きく吸った空気をゆっくりと吐き出した。


「君のためなら私、何でもしてあげるからね。そして絶対に私だけのにしてみせる」


 晴斗君は私にとっての最後の希望だ。まだ二十歳で最後の、と言うのは大げさかもしれないが、私にはそれくらい衝撃的で、理想的な男性なのだ。彼を他の誰かに奪われるようなことがあったら立ち直れないかもしれないくらい。


 だから私は全力を出すことに決めたのだ。


「まずはお弁当作りからかな。好きな食べ物聞けたし、あとは栄養バランスをちゃんと考えて野菜もいれて……お姉さんの本気をみせてやる!」


 はるか昔から、好きな人を虜にするには胃袋を掴むのが一番だと言い伝えられている。晴斗君は毎朝自分で弁当を作っていると言っていたがそれでは睡眠時間が削られる。まだまだ成長期の彼に寝不足は大敵だ。なればこそ私の出番というわけだ。


「あとは、いつその日・・・が来てもいいように自分磨きも欠かさないようにしなと!でも我ながら自信あるんだけどなぁ」


 湯船から勢いよく身体を上げて姿鏡を見る。そこに映るのは己の身体。適度な肉付きできゅっと引き締まったくびれ。自信のある胸は一切垂れていない自慢の美乳。腰から下のラインも昔陸上部だったころに鍛えた甲斐があり、細く綺麗なものだ。肌も手入れを欠かさないので水滴を弾いて艶々と輝いている。虜に出来る自信はあったのだが、彼の精神力は鋼なのか。


「でも、それだけ彼が紳士ってことよね。うしっ、めげずに頑張るとしますか!」


 来るべき戦いに備えて、私は軽く頬を叩いてお風呂を出た。まずは髪を乾かして早く寝よう。睡眠不足が大敵なのは晴斗君だけじゃない。



 *****



 俺は布団の中で興奮して悶々としていた。理由は二つ。


 まず一つは甲子園出場が決まったこと。そのマウンドに立っていられたこと。絶対的エースの松葉先輩から託された聖地を守りきることが出来た興奮と感動。それが今も余韻として残っている。


 二つ目は早紀さんとの秘密の祝勝会。女子大生でずば抜けた美人。色々謎もあるけれど、応援のメッセージをくれたり今日のように球場に応援に来てくれる。そして俺だけのために豪華な手料理をふるまってくれた。笑顔が素敵な、大人な女性。


 これだけでも思春期男子には十分すぎる毒だというのに、彼女は大胆だった。


 ―――一緒にお風呂入ったり、一緒の布団で寝たり…それ以上のことも……いいんだよ?―――


「反則ですよ……早紀さん」


 あんな猫なで声を胸元かつ上目遣いで言われたら、思い出しただけでも頭が沸騰しそうになる。


「なんで俺なんかにあんなことを……? 冗談にしても目は本気だったし、『時間を下さい』って言ったら笑って頷いてくれたし……女心はわからないな」


 俺の頭ではいくら考えても答えは出ない。なら考えないほうが今はいい。それに宣言したように、まずは早紀さんのことをもっと知ろう。そして、彼女のことを心から『好き』だと思えた時、ちゃんと伝えよう。それが、誠意だ。


「はぁ……そろそろ寝ないとな…って、メッセージ届いていたの忘れてた。相手は―――相馬先輩?」


『今宮君! 今日は本当にお疲れさま! そしてナイスピッチングだったよ! ベンチから観ていて涙が出るくらい感動したよ! 憧れだった甲子園に連れて行ってくれてありがとね!』


 相馬先輩からのメッセージは一通ではなかった。


『ねぇ、もし今宮君がよければ明日の休みに二人でお出かけしない? ほら、甲子園出場のお祝いってことでさ! どうかな?』


 いわゆるデートのお誘いという奴だろうか。俺は目をぱちくりとさせて内容を改めて確認するが、文章が変わることはない。


「ど、どうする? 既読つけちゃったし何か返信しないと……」


 時間はすでに日付が変わってから一時間が経とうとしている。迷惑かもしれないが、既読をつけたままスルーするのだけはいけないと、本能がささやいている。俺はどう返事をしようか考えて、また悶々とする羽目になった。


 結局相馬先輩に返事をしたのはそれから三十分が経ってからだった。

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