第一章ー森の中で




 あの頃の僕は、自分が何者かなんて知らなかった。

 孤児として教会の孤児院で暮らしていた日々。

 あの人に出逢うまでは...。



 クリスタリア公国の聖都の東側の郊外には鬱蒼と繁る森が広がっている。


 『夜の森』と呼ばれ、かつてヴェドゴニヤの集落があった事で知られるその森の中には、ひっそりとまるで隠れるように教会がある。

 鐘楼を備えた白亜の祈りの場には、様々な理由から親と暮らせなくなった子供達が、神父やシスター達の保護の下集団生活を送っていた。


 古くから、孤児院として子供達を受け入れて来た由緒正しきその教会に預けられたのは、真っ白な子供だった。


 白銀の髪に白磁の様な白い肌。白い布をかぶせられた子供は、一歳を迎えたくらいだというのに小さく、言葉もまだ話せないその幼子は左右で瞳の色が異なり、そのうちち琥珀色の左目は光を宿しておらず、真っ白なその肌で唯一、左腕だけが赤黒く変色し、血管が生き物の蔓のように浮かび上がるその異形の腕は全く動く事がなかった。


 教会に預けられた時、責任者である司祭は、動かぬ腕は哀れだと、左腕を切り落とし義手に変えようと提案したが、いざ切り落とそうとして時、左腕はまるで意思を持っていたかの如く、司教が手にしたナイフを弾き落とした。


 以来、幼子の左腕はせめて傷つかぬようにと革製のカバーで保護された。


 司教を始めとした聖職者達はその幼子の行く末に不安を感じながらも、洗礼名を与え、他の孤児達と同じように厳しく、優しく、そして正しく育てる事にした。


 けれど、他者と違うその左腕の存在は幼子が周りの孤児達と確執を生むには十分な理由であった。




 鬱蒼と繁る森の中にある教会の中には、孤児院が併設されている。


 その孤児院の中にある図書室の隅でフィーロ・フィロフェロイはまるで隠れるようにして本の紙面に顔を向けていた。


 今年で十歳になるというのに小さな身体は、本棚と本棚の隙間にすっぽりと収まり、一見しただけでは見つけられない。


 いや、自分からわざと見つからないようにしていたのだから、簡単に見つかっては困るのだが。


「やっぱりここに居ましたね」


 不意に影が濃くなったのに驚いて顔を上げると、そこにはこの教会の最高責任者であり、洗礼名を与えてくれた司教が自分を覗き込んでいた。


「司教さま...」


 身を隠すようによじりながらフィーロは自分を見下ろしてくる初老の男を見上げた。


 フィーロの視線に合わせるように床に膝をつき、司教ーポール・スミルノフは穏やかに笑いかけた。


「また、イジメられましたか?」


 そっと、白銀の頭に触れ、ポールはフィーロの頭を優しく撫でる。


「...違います。騒がしかったから静かな場所にいたかっただけです...」


 大人しく頭を撫でられながら、フィーロはポールから顔を逸らして答えを口にする。


 だが、そんな言葉とは裏腹にフィーロの頬や衣服には汚れが付き、あちこちに痣が出来ていた。


 明らかに暴行を受けたと分かる痕にポールは唇を噛み締めた。


「もう直ぐ夕飯ですから、出てきなさい。シスター達が心配しますよ」


 ぽん、とフィーロの肩を叩きポールはゆっくりと腰を上げる。


「...僕を心配してくれるのなんて、司教様とシスターリベラだけでしょう...」


 ぼそりと、呟くようにぼやくフィーロに肩を竦め、ポールは「早く来るんだよ」と、一言残して図書室を出て行く。


 扉の閉まる音を聞きながら、フィーロはぱたんと読みかけの本を閉じた。


「はあ...」


 子供にしては深すぎる溜息を吐き、フィーロは本を床に置いて右手だけで起用に立ち上がる。


 白い布を広げたような膝下までのチュニックを纏う身体には似つかわしくない革制のカバーが左腕に嵌められている。


 その左腕のカバーに合わせるように顔の左側半分を覆うように革製の眼帯が巻かれている。


 その姿は、戦地から命からがら逃げて来た兵士の様な何処か異様な出で立ちのフィーロは床に置いた本を拾い上げて隅っこから出た。


 ぼんやりと、図書室の窓の外に目を向けると、ここに来た時はまだ高かった陽が、鬱蒼と繁る森の中に消えようとしていた。


 どおりで、暗い訳だ。

 肩を竦めてフィーロは入口へと向かった。




 陽が暮れて、夜の帳が深い森の中に落ちた頃。


 孤児院を併設した森の教会には、明かりが灯され、広い食堂には教会に仕える司教を筆頭に五人のシスターと二十人の子供達が集まっていた。


「我らが夜の女神のご加護がありますことを」


 ポールの言葉に合わせてその場の全員が目を閉じて祈りの言葉を捧げる。


 皆が胸の前で手を握り顔を伏せていたが、左腕の不自由なフィーロは胸の前で右手を握り、目を閉じて祈りを捧げていた。


「さあ、食べましょう」


 祈りを終えてポールの合図をもと子供達は待ち兼ねたとばかりにパンとシチューにかぶりついた。


 フィーロもそれに合わせて食事を取る。


 周りの同じ歳くらいの子供達はパンとシチューを両手でかぶりつくように食べている。


 横に座る少年は既にパンを食べ終えいる。


「なあ、それ食べないならくれよ」


「え?あっ」


 フィーロが左側に置いていた皿から、一人二つずつ配られるパンが一つ容赦なく持っていかれる。


 動かない左腕でそれを阻止する事は出来ず、パンは隣の席の少年の口に運ばれていった。


 あまりに一瞬の事で、シスター達はそれを見ておらず、少年の行為を咎める者は誰もいなかった。


 二十人も子供がいて、中には一人では食事の出来ない幼子や、自分のように身体の不自由な者もいる中、比較的自立しているフィーロを含めた十歳に近い者達に構うシスターは誰もいなかった。


 内心溜息を吐き、残ったパンとスープを早々と流し込んだ。


 食事の一部を横取りされるのも日常茶飯事だった。


 空になった食器を片付け、部屋に帰ろうとすると、自分より年上の子供達に、食器洗いを押し付けられ、フィーロは片手で人数分の食器と、寸胴を洗う日々を繰り返していた。


 昼間は、事あるごとに難題を押し付けられ、腹いせに殴られるのも珍しくなかった。


 そんな日々の中で、フィーロの心の拠り所は文字を覚える為に行っていた読書だった。


 その日もフィーロは同じ孤児の子供達から逃げるように森の中へとやってきてた。


 右手には読みかけの本が小脇に抱えられている。


 それは、この世界の悪しき魂を還るべき場所に還す役目を担う紅い天使の物語。

 誰もが知るお伽話がフィーロは誰よりも好きだった。


 本を抱えてフィーロは森の中を歩き続ける。今日は何故か、少し遠くに行ってみたくなったのだ。


 島国である地を巻き込んだ魔族と人間の百年にも及ぶ大戦が終結して既に十年近くが過ぎた。


 フィーロにとっては生まれる前の事でよく分からないが、戦時中はあちこちで魔獣や魔物が溢れ、森の中は危険だったという。


 今でこそ、それも少なくなったが、いつ奥から出て来るか分からないからと、孤児院では森の奥に子供が一人で入るのを止められていた。

 ましてや、十歳に満たない子供が一人で森の奥に行くのは固く禁じられていた。


「あれ...?」


 気が付くと、辺りの景色が一変している事に気づいてフィーロは歩みを止めた。


 さっきまでは空から木々の間をすり抜けて陽光が降り注ぎ、足元の草花はフィーロの踝くらいの高さのものばかりだったのだが。今は薄暗く、周囲の草木は腰を優に超える高さとなり、森を構成する木々には蔓が巻き付いて不気味な空気を漂わせていた。


「ここ...どこ?」


 キョロキョロと辺りを見渡すが、自分がどちらの方角から歩いてきたのか、既にわからなくなっていた。


 バサバサっ。


「ひっ」


 枝葉を揺らし、暗い森の中を数羽の鳥がと至って行く。


 風が木々を揺らす音は、誰かの囁きの如く不気味に響き渡り、幼いフィーロの恐怖心にじわじわと染み込んでくる。


 ガサっと、足元に落ちていた枝を踏んだだけで、それが何か違う生き物の蠢きのようで、フィーロは頬を強張らせて肩を縮こませた。


 早くここから離れなければ、と自分に言い聞かせる。

 だが、理性とは裏腹に本能が足を竦ませる。

 心臓が早鐘を打ち、呼吸が早くなる。


 本を握った右手に力が入った刹那、それは唐突に現れた。


 ずんぐりとした灰色の身体に齧歯目の如き長い前歯。顔はまるで仮面をかぶったかのように白塗りのそれは、様々な怨念が集まった負の塊。


 魔物と呼ぶにはあまりにお粗末だが、他者を食らう事に対しては魔獣以上に貪欲なその魔物を前に、フィーロはごくりと息を飲んだ。


 細い空洞になった目の様な器官が自分を見つめている。


 木々のざわめきの中、両者は相手の出方を見るように見つめ合ったあと、同時に行動を起こした。


「わああああー」


 恐怖を振り払うように大声を張り上げながらフィーロは後ろを振り返って駈け出した。


 走り出した小さな獲物を求め、魔物もまた走って行くその小さな背中を追いかける。


がむしゃらに、走って、走って、いつの間にか、自分が何所を走っているのかさえ分からなくなって、それでもフィーロは迫りくる魔物から逃れたくて、必死に小さな足を動かした。


 まだ、死にたくない。

 どうして自分が生まれてきたのか。

 それすら知らないのに。

 死ぬのは嫌だった。


 強い思いは、森が宿す力を呼び起こす。

 淡い光が、粒のようにフィーロの周りに纏わりつく。


 かつて、この森に棲んでいた古の種族が残した残り火が、同じ血を持つフィーロの願いに応えた。


 ふわりと、身体が浮くような感覚にフィーロは息を飲む。


 直後、それまで鬱蒼と繁っていた木々が消え、視界が開けたと思った時にはフィーロは森ではなく開けた場所に抜け出ていた。


「わっ」


 何かに足を取られたのか、前のめりに身体が倒れ込む。

 その瞬間を狙い、魔物の口が大きく開いた。


「炎よ、焼き尽くせ」


 囁く声音がに応じて魔物の周りを炎の渦が包み込む。

 それは魔物の身体を触媒にして激しく燃え上がった。


「あ...」


 地面に倒れ、腰を抜かした目の前で自分を追って来た魔物が火柱になる様を、フィーロは茫然と見つめた。


 やがて、火柱は断末魔と共に魔物は灰となって飛散した。


「凄いね君は」


 茫然と焼け焦げた地面を見ていたフィーロの鼓膜を、緩やかな声音が震わせる。

 声に導かれるように辺りを見渡すと、開けた場所に森の中にあるには不釣り合いな漆喰の壁をの小さな屋敷が佇んでいる。


 その屋根に人影があるのを見つけてフィーロは思わず身構えた。


「この森には古いまじないが掛けてあったんだけど、それを発動させるとはね...」


嬉々とした様子でそう話しかけてきたのは、金色の髪にスグリの如き赤い瞳。

 赤いドレスシャツに裾の長い黒のジャケットを身に纏ったその姿は、貴族と呼ばれる位の人物だ。


 だが、ただの貴族でない事は、幼いフィーロにも分かった。


「ヴァンパイア...」


「ああ、すまない。別に取って食べたりはしないよ。でも、まさか君に出逢えるとは思わなかったよ」


 ニコリと、柔和な笑みを浮かべながら貴族の男は屋根から身軽に飛び降りると、フィーロの前に降り立った。


「初めまして」


「どうして今...助けてくれたんですか?」


 自分の状況が理解できず、キョトンと目を見張る。


「君が、知り合いに似ていたから。今はそれだけ。それより、少し休んで行ったら?」


 そう言って、男は背後にある屋敷を指差した。


「でも...」


「あそこは、私が知り合いから譲り受けたものなんだ。だから、入っても大丈夫だよ」


 戸惑っていると、ふわりと手を引かれた。

 そのまま、フィーロは手を引かれて歩き出した。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る