ー第二章~闘技場の邂逅
結局碌に寝付けずに朝を迎え、朝食もそこそこにフィーロは退魔師本部の執務室へ出勤した。
(はあ...なんとか断れないかな...)
執務室に入ると、入口の壁に掛けられた札の表側にしてフィーロは自席に着く。引き出しの鍵を開けて昨日仕上げた報告書の束を取り出すと、提出前に不備がないかを確認する為に読み始めた。
出勤してから二時間後。執務室に所長であるギルベルトが現れた。
所長が入ってきた途端、報告書を書き上げた同僚達が一斉に席を立ち、所長の執務卓の前に報告書を持って列を成した。
ざっと見て十人程は並んでいるようなのでフィーロは暫く待つ事にして、残りの報告書の下書きを書き始めた。
報告書の提出と受領書を受け取った同僚達は次々に部屋から出て行く。
ある者は訓練へある者は帰宅し、ある者は別の棟へとそれぞれ目的の為に散って行く。
巡回退魔師は報告書の提出が終われば次の巡回まで基本的に休暇になる。その為、報告書をさっさと書き上げて休暇に入る者が多い。
フィーロはどちらかと言えば休暇を取っても読書か訓練をする位しかする事がないので、次の巡回に発つまではなるべく仕事をする事にしていた。
昼休憩を報せる鐘が鳴り、一先ずフィーロは万年筆を置いた。
「ふう...」
肩を落として吐息を零し、デスクワークで縮んでしまった身体を伸ばすように腕を頭上に上げて背筋を伸ばす。
腕を伸ばしたまま上半身を左右に揺らしてから、足元に置いていた鞄を持ち上げてフィーロは鞄を開けた。
鞄の中から布に包まれた四角形の箱を取り出した。
今朝、食事をあまり食べなかったフィーロを気遣ってランスが弁当を作ってくれた。
弁当箱の蓋を開けると、中にはバケットにチーズとベーコン、レタスを挟んだサンドイッチと、クリームチーズとスモークサーモンの挟まれたベーグルサンド。フライドポテトとフライドチキン。デザートに小さなチーズタルトが添えてある。
(相変わらず律儀だな...自分も大変なのに)
自分の弁当のついでだと言っていたが、勉強が忙しいのにこちらに気を配ってくれている事にフィーロは内心感激していた。口には出さないが。
席を立ち、給油室でティーラテを入れ直したフィーロは一人でランチを食べ始めた。
昨夜の事を伝えようと思ったが当のギルベルトはいつの間にか執務室から姿を消していた。
(後ででいいか...)
温かいティーラテに口を付けてフィーロは内心で呟く。
午後は訓練所に行って身体を動かそうとバケットを頬張りながら考えていると、不意に窓の外に見知った顔が数人の部下や同僚らしき人物達と食堂の方へ歩いて行くのが見えた。 その中に、親しい人物を見つけてフィーロは思わず口元に笑みを滲ませる。
午後の予定を脳裏に巡らせフィーロは一人黙々と弁当を腹の中に収めた。
執務室の出勤札を執務中から訓練中に変えてフィーロは執務室を出る。
廊下を小走りに歩いてフィーロは北側の棟にある訓練場へと向かった。
退魔師本部のある西棟から渡り廊下を抜けて中央棟の裏手に位置する北棟が剣術、射撃、術式など、様々な分野の訓練に特化した訓練棟として制夷されている。
北棟の入口には訓練場にいる人数を把握する為に受付があり、フィーロは見知った受付官に身分証を見せた。
「フィロフェロイ神父、巡回からご帰還されていたのですね」
受付官に声を掛けられフィーロは苦笑する。
「ええ、一昨日聖都に。そうだ、ナルカミ大尉の居場所を知りませんか?さっき執務室の窓から姿が見えたので顔を見に行こうかと」
「ナルカミ大尉でしたら、先程部下の人達を連れて訓練場に行かれましたよ」
フィーロに訊ねられ受付官はフィーロより少し前に北棟にやってきた騎士の顔を思い出して居場所を伝える。
「ありがとうございます」
ひらひらと手を振ってフィーロは受付官に礼を言って目的の場所へ向かって歩いて行く。
廊下を進んだ先。まるでトンネルを抜けたかのような薄暗い場所から一気に明るい場所へ出ると、そこは中庭に造られた闘技場だった。
場内では軍服や運動服姿の者が武術や剣術、槍術等の訓練に明け暮れている。
その集団の中に長い黒髪を高く結い上げた長身の青年を見つけ、フィーロはゆっくりと背後から歩を進めた。
「おら、そこっ。詰めが甘い!脇締めろ」
軍服を身に纏い、二人一組で剣を振るい合う若者達を見つめるのは、ぬばたまの黒髪を高くポニーテールに結い上げた長身の青年。歳は二十代半ば。釣り目がちの黒曜石の瞳を宿す精悍な顔は真剣な表情で部下達の稽古を見つめている。
軍服の胸元に着いた階級章から彼が部隊を預かる隊長クラスの人物だという事が容易に想像できる。
訓練の様子を見つめ、時に指示を出し、時に励ましながらナルカミ・シンヤは部下達の指導に当たっていた。
「そんなんじゃ敵に直ぐ切り込まれるぞ。もっと素早く剣を振れ」
部下の剣捌きに指摘をし、その場にいる五十人程の部下達全員の一挙動を見つめる眼差しは真剣そのものだった。
だからこそ、彼は気付かなかった。
闘技場の乾いた地面を音もなくゆっくりと歩み。近づく者の存在に。
ニヤリと、口元に笑みを刻んだ人影が、シンヤの背後に忍び寄り、勢いよくレイピアの細い切っ先を突き出した。
キイイーン。
甲高い刃のぶつかる音が、闘技場の喧騒を鎮めるように響き渡る。
突然の斬撃にその場にいた誰もが音のした方へ視線を向けた。
注目されていると知ってか知らずか、二つの剣が交わる。
フィーロが突き出したレイピアの切っ先を、振り返りもせずに背後に剣を突き出して受け止めていた。
フィーロのレイピアを上段に弾き、その勢いでシンヤは背後を振り返る。
フィーロもまた弾かれたレイピアを構え直し、自分と向かい合う形を取るシンヤを見据えた。
無言のまま、数秒睨み合った後、フィーロとシンヤは同時に動いた。
互いの刃が激突し火花を散らす。その動きは訓練とは思えない、あたかも実際の戦場で見るような実践的な動き方で、その場にいる誰もが息を飲む程だ。
フィーロの突きを躱したシンヤが剣を頭上から振り下ろせば、フィーロは素早く踵を返して下から剣を受け止め、シンヤを引き離す。
シンヤが横薙ぎに振るった剣をフィーロは切っ先で突いて軌道を変えて躱し、シンヤの懐へ踏み込む。
それを横に僅かにずれて防いだシンヤはやり返しとばかりに突きを繰り出す。
そんなシンヤの動きをやり過してフィーロは再び相手と向かい合うと、一気に飛び込んで激しく剣を打ち合った。
両社一歩も引かぬ攻防が続き、やがて互いが互いの懐に入り、首元に刃を突き付け合ってぴたりと止まった。
「...帰ってきて早々、随分な挨拶だな...フィーロ」
「そっちこそ、帰ってきてるなら声かけて下さいよ、ナルカミ君」
ニヤリと、互いに笑い合い、他者には聞こえない声で再会を喜び合った二人は、試合の終了を告げるように一斉に距離を取った。
フィーロはレイピアを自身の血に戻し、シンヤは剣を鞘に納める。
気が付くと、周りには二人の剣術に見惚れた野次馬が集まっていた。
「おい、あれ、騎士団のホープナルカミ・シンヤ大尉だよな」
「あっちは最年少退魔師のストラウス少佐だ」
ざわざわと、その場にはざっと見渡して百人程の人々が集まっている。
そんな彼等を見渡してフィーロは苦笑した。
「わあ~ギャラリーがいっぱいですね」
「お前も俺も容姿的にかなり目立つ上に、有名人だからな...」
自分達を取り巻く観客の多さにフィーロは肩を竦め、同じくシンヤも呆れたように溜息を吐く。
「つか、仕掛けておいてこうなるのくらい予想がついただろ、お前なら」
「普通に声掛けるのがなんだか勿体なくて...ほら、新権に隊長やってるナルカミ君の姿を僕はあんまり見る機会無いですから」
眉を顰めてそう言ってるシンヤにフィーロは悪戯がバレた子供のような笑みで答えた。
ざわざわと、二人を囲むギャラリーの中から、パチパチと甲高い拍手の音が聞こえてくる。
その音に誰もが拍手のする方を振り返り、一斉に敬礼をした。
人込みが、その一か所だけ潮が引くように左右に下がっていく。
「いやあ~相変わらず見事な剣捌きだったね。流石は聖天騎士団と退魔師のホープと謳われる二人だけはある」
人々が敬礼をして居並ぶ中、自然と出来た通路を通って二人の前に現れたのは、白いローブに学帽を身に着け、左目に銀縁のモノクルを光らせたギルベルト・ハイライト退魔師本部所長だった。
「所長」
「師匠」
「やあ、フィーロにシンヤ。君達相変わらずだね。いい物を見せてもらったよ。皆、今のが我が国の若き精鋭二人だ。いずれは君達も彼等に並べる様日々の修行に励むように」
ギルベルトは肩越しに背後を振り返りながらまるで授業でもするかのような口上を述べる。
彼の後ろには、まだあどけなさを残した少年少女達が従っている。彼等の胸には鞘に収まった剣を模した十字架のバッジが輝いていた。
フィーロが首から下げている剣を模したロザリオによく似たデザインのそれは、彼等が退魔師の見習いである事を示すモノ。
「...所長、何してるんですか?」
ギルベルトに従う少年達を見遣り、フィーロはおもむろに疑問を投げかける。
「何って、今は見習いの授業中だよ。今年の新入生達に本部内を案内していてね。週明けから彼等もこの本部で見習いとして仕事をする事になるから」
フィーロの疑問にギルベルトは流暢に答える。
「なるほど、もうそのような時期ですか」
新入生と聞いてシンヤは不意に今が十月だという事を思い出した。
クリスタリア公国の新学期は十月から始まる。
夏の暑い時期に入る前に卒業を迎え、長い夏休みを経て新たな環境に飛び込むのだ。
季節の移ろいに思いを馳せるシンヤを見つめ、フィーロは肩を竦めた。
「ナルカミ君が親父臭い...」
「おまっ誰が親父だ」
フィーロの口から出た感想にシンヤは思わず抗議する。
「まあ、シンヤはフィーロより年上だから仕方ないかもね」
「師匠までなんてことを仰る」
意外な所で同意を示されてシンヤは困惑する。
「あはは~所長の言う通りですね」
「フィーロ、お前もう一度やるか?」
「いいですよ」
ムキになり再び剣の柄を握るシンヤの申し出に、フィーロは応えるようにフィーロはシンヤと向かい合う。
そんな二人をギルベルトはやんわりと制止した。
「こおら二人とも、熱くならない。シンヤ、君は部隊の訓練中だろう?そろそろ部下達の元に戻りなさい」
「はい。そうさせて頂きます」
ギルベルトに指摘されシンヤは軍人らしい綺麗な敬礼をギルベルトにする。
「フィーロ、今少しいいかな?」
シンヤに敬礼を返したギルベルトは今度はフィーロの方に顔を向けて訊ねて来た。
突然の事に目を丸くして小首を傾げたフィーロだったが、ギルベルトが意図している事を察し、彼の後ろにいる見習い達に視線を向けた。
(...いた...)
二十人近くはいる中にフィーロは見覚えのある顔を見つけて内心舌打ちした。
前髪の一部だけが黒い、背中まで伸びた銀色の髪を項で一つに束ね、まだあどけなさを残しながら、何処か中性的な容貌に瑠璃色のの熱の籠った瞳。
じっと、自分を羨望の眼差しで見つめてくる少年にフィーロはギルベルトの意図を汲みとった。
ギルベルトがここに見習い達を連れて来たのは何も本部の案内をしていたから、だけではない。
彼等に、いや、彼に自分の実力を見せる為。
「...わざとですね」
「何のことかな?それより、今暇?」
フィーロの指摘をさらりと躱し、まるで友人をお茶にでも誘うこのような声掛けにフィーロは眉を顰めた。
「...どうせ、断れないんでしょう」
恨みがましげにフィーロはギルベルトを見上げる。
睨みつけられているというのに当の本人は実に楽しげだった。
小さく息をついてフィーロは観念したとばかりに頷く。
「分かりました。行きますよ」
「流石は期待の星。それじゃ、三十分後に私の執務室においで」
フィーロの肩をポンっと叩き、秘め事を囁くように告げたギルベルトは見習い達を連れ、闘技場を後にする。
立ち去り際もフィーロには一つの熱い視線が向けられていた。
ギルベルトと退魔師見習い達が立ち去ってから、フィーロは深い溜息を吐いた。
「どうした?なんだかやけに疲れた顔してるな」
ギルベルトが立ち去るや否や、ドッと疲れを感じているフィーロに気づき、シンヤは首を傾げた。
「ギルが悪いんです」
「師匠が?」
ぼそりとぼやくフィーロにますます理由が分からずにシンヤが眉を顰めていると、フィーロは理由を話し出した。
「僕に今年はブラザーをやれって」
「珍しいな。巡回退魔師のお前に回って来るなんて」
驚いたように目を丸くしてシンヤは言う。彼の言葉にフィーロは更に深く溜息を吐き出した。
「...まあ、いつかは向き合わなければいけない事なんですけどね...」
「ん?」
フィーロの呟きにシンヤは言葉の意味を掴めずに疑問を抱く。
「いえ、なんでもありません。それよりナルカミ君、今夜空いてます?」
話題を変えるように切り出された誘いにシンヤはニヤリと笑う。
「ああ、今日は訓練だけだから定刻には終わる予定だ。なんだ?飲みに行くか?」
「ええ、久し振りに行きませんか?僕も報告書の提出だけなので定刻には終わると思います」
「分かった。終わったら図書館にいるからそこで待ち合わせな」
シンヤが指定してきた待ち合わせ場所を了承しフィーロはシンヤとハイタッチを交わすと、ギルベルト達の後を追うように闘技場を後にした。
闘技場を出て、一度退魔師の執務室に戻ったフィーロは書き上げた報告書を手に、退魔師本部のある東棟から渡り廊下を渡った反対側にある西棟へと向かう。
西棟には主に上位の冠位を持つ者の個人的な居室が与えられたエリアで、用事がなければ普段はあまり訪れることのない場所だ。
ギルベルトが「執務室」と言ったからには退魔師本部の所長としての執務場所ではなく、こちらの事だ。
ローブの裾を傍目かせ、足早にギルベルトの執務室に前にやってきたフィーロは、エンブレムの施された扉をノックした。
中から入室許可を告げる声が響く。
それに従ってフィーロはドアノブを押し扉を開いた。
「失礼致します。所長。お呼びにより参上致しました」
室内に入るなりフィーロは敬礼をする。
「呼びつけて悪かったね。ああ、楽にしてくれて構わないよ」
室内では正面の執務卓の前に立ったギルベルトが出迎えてくれた。
部屋に入ってきたフィーロに、ギルベルトは目配せする。その視線を追うと、ギルベルトと自分との間にある応接セットのソファにきちんと背筋を伸ばして座る少年の姿があった。
膝の上に置かれた拳が緊張できつく握り締められ、じわりと汗が滲んでいる。
口許は真一文字に結ばれ、瑠璃色の瞳には不安げな色を湛えていた。
教授の居室というのはそれなりに緊張するのだろうが、おそらく彼のはそれだけではない。
ここに彼がいる。その真意ををフィーロは直ぐに理解した。
もう、逃げられない。そうフィーロは確信した。それならいっそ、なるようになってしまえと内心自分を鼓舞した。
ソファに座る少年を静かに見つめた後、フィーロは小さく吐息を零してから、見た目だけなら大して変わらない年下の見習い退魔師の少年に声を掛けた。
「ハンス・フォン・ロードナイト君」
フィーロが名前を呼んだ途端、ビクリと少年の肩が上下に震える。
「は、はいっ」
返事の仕方から彼がかなり生真面目な性格であるのが想像できる。きっと、成績も優秀だったに違いない。そんな事を考えながらフィーロは少年ーハンス・フォン・ロードナイトの前にやってきた。
「そんなに畏まらなくて大丈夫です。僕は君を食べたりしませんよ」
「は、はい...すみません」
怒られたと思ったのか、ハンスはシュンと肩を落として頭を垂れた。
(...まるで、子犬みたいですね...)
ハンスの様子を見遣り、胸中でそんな感想を零してからフィーロはハンスに向けていた視線を再びギルベルトへと移した。
「所長。改めてお聞きします。僕が呼ばれた用件はなんでしょうか?」
フィーロの問いかけにギルベルトは笑みを浮かべてから退魔師本部の所長らしい精悍な顔つきでフィーロを見据えた。
「フィロフェロイ神父に正式に要請する。彼の者ハンス・フォン・ロードナイトのブラザーを引き受けてはくれないか?」
来た。と、内心フィーロは呟いた。
本人を前にして断れないのを分かっていてこの人は自分をここに呼んだのだ。
(流石は我が師というべきか...)
かつて、自分のブラザーであった男を見据えフィーロは覚悟を決めるように首を縦に振った。
「...そのお申し出、
騎士の様な振る舞いで床に跪き、フィーロは恭しく頭を垂れる。
それは、最上級の礼を尽くした作法。
その様にそれまで身を緊張で強張らせていたハンスは溢れんばかりに目を見開き、キラキラと瞳を輝かせた。
「それでこそ我が愛弟子。君に依頼して良かったよ」
フィーロの承諾にギルベルトは満足げに微笑む。と、今度はハンスに視線を移した。
「ハンス」
「あ、はいっ」
それまで恍惚とフィーロの姿を見つめていたハンスは、唐突にギルベルトに名を呼ばれ、ビクリと背筋を正した。
「彼が君のブラザーを引き受けてくれるフィーロ・フィロフェロイ・ストラウス神父だ。知っていると思うが、十歳の若さで退魔師一次試験を突破し、十二歳で正式な退魔師になった天才。君と同じヴェドゴニヤだ。本来巡回退魔師である彼がブラザーを拝命する事は殆どない。しかし、君の種族や今後を考えた上で短期間ではあるが彼の元で学ぶ事とする。国家の若きホープの下、しかと励みなさい」
教授らしい口調でそう告げるギルベルトにハンスは熱の籠った返事をする。
その様子を眺めてフィーロはやれやれと肩を竦めた。
「さて、正式なブラザー契約は明日の朝にしよう。ハンスもフィーロも荷物を今夜中に纏めておくように。知っていると思うけど、ブラザー同士は寝食を共にする。その為専用の寮に入るのが習わしだからね」
「分かっています。旅支度程度の用意でいいですね?」
フィーロの問いにギルベルトは頷く。
「まあ、聖都内だし、フィーロはいつでも家に帰れるから必要な物だけ持ってくればいいよ」
「そうします」
こくりと頷いてフィーロはハンスの元に歩み寄る。
フィーロが近づいた途端、ハンスは跳ね上がるようにして勢いよく立ち上がった。
「ブラザーを務めるのは初めてなので至らない点もあるとは思いますがよろしくお願いします」
「はいっ、よろしくお願いいたします。師匠」
フィーロが差し出した手をハンスは両手で掴み強く握る。
「俺、ずっと貴方に憧れていたんです。まさかブラザーになってくれるなんて...ギルベルト先生から言われた時はもう眠れないくらい嬉しくて...」
頬を紅潮させ歓喜に打ち震えながら熱弁を口にするハンスをフィーロは苦笑しながら見つめる。
「僕に憧れていたなんて...変わってますね」
精一杯の皮肉を込めてそう言ったつもりだったがハンスは首を横に振ってそれを否定した。
「そんなことありません。弱冠十二歳で退魔師になった天才。学園ではいつも話題に上がっていましたから。貴方は俺達の憧れの的です」
「へえ~それは知りませんでした。なにせ、僕は学校に通った事がないので。学生というのは現役退魔師の話をするのですね」
まさか自分がエリートが通う退魔師学校で話題にされていたとは。驚きのあまりフィーロの毒舌に拍車がかかる。これは、余計な期待を抱かれて失望される前にお灸を据えた方がいいかもしれない。
ハンスへの躾を考え始めていたフィーロは、ハンスが口に出した話を耳にした途端、その表情を強張らせた。
「七年前の聖都の西で人々を悩ませていた
咄嗟に、ハンスと握手を交わしていた右手を彼の手を振り払うようにして引き寄せ、フィーロは反射的に自身の左腕をきつく掴んだ。
突然手を振り払われてハンスは驚愕する。
目の前には、顔を青くして乱れた呼吸を直してい居るフィーロの姿があった。
「...ハンス君。あれは、確かに僕にとって退魔師としての名を響かせる出来事でした。しかし、その戦いで多くの仲間が命を落とした...そんな嬉しそうに語るのはやめてくれませんか?」
それは、フィーロにとって自分の出自より触れられたくない過去。
世間一般には英雄譚だが、フィーロにとってはトラウマでしかない出来事。
冷ややかな視線にハンスはそれまではしゃいでいた自分を恥じた。
「す...すみません...」
「名声を手に入れるという事は、その陰で多くの犠牲を払っているという事。それを胸に刻まなければなりません。退魔師になるという事は、明日は自分が狩られる側になるかもしれない。それを覚えておいてください。ハンス」
フィーロからの教示にハンスは悄然としながら返事をする。
肩を落としまた不安そうな顔に戻った彼にフィーロは神父らしい慈愛に満ちた笑みを向けた。
「...すみません。あまりいい思い出ではないんです。僕にとっては...」
「俺こそすみませんでした...今後は気を付けます」
深く頭を下げるハンスの肩をフィーロは軽く叩く。
「契約前からきつい事を言ってすみません。それでは明日からよろしくお願いしますね」
フィーロに肩を叩かれ、ハンスは顔を上げる。
その瞳には決意や覚悟、気合のようなものが入り混じり、キラキラと輝いていた。
「それでは僕はこれで、所長。報告書出来たので受け取って下さい」
「ああ、この間のツアーンラートの奴ね。なかなか興味深い案件だったと聞いてるよ。報告書楽しみにしてたんだ」
フィーロから報告書の束を受け取り、ギルベルトはニコニコと笑う。
「...それも、僕にとってはあまり良いものではなかったですよ...」
北の大地での出来事を脳裏に反芻しながらフィーロは肩を落とす。
「それでも、君の道行きに必要な任務だった。そう私は思っているよ」
優しく、労わるような眼差しにフィーロは何処か寂しげな笑みを浮かべる。
「それでは、失礼します」
踵を返し、今度こそフィーロはギルベルトの執務室を後にした。
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