ー第十四章~守護者の使命~



 そこに立っていたのは、まさしく『魔女』と呼称されるに相応しい魔力の持ち主だった。


 ほんの数分前まで封印されていたとは思えない魔力の圧にフィーロはぐっと奥歯を噛み締めた。


(目覚めたばかりで力の制御ができていないのか...)


 魔女の魔力は本来は癒しや強化などプラスに働くのだが、目の前の紫電の魔女から溢れ出る魔力には狂気と禍々しさが入り混じった邪悪な気配が宿っている。


 咄嗟にフィーロは自身の血で血界を作り、背後に庇うアルシャの周り張り巡らせた。


 ふふ、と笑い声が小さく響く。それまでぼんやりとしていた魔女の瞳に光が宿り、フィーロと対峙していた青い髪の青年の人形を見つめた。


 視線に気づき、人形もまた魔女の方を向く。


「私の愛しいマティアス、戻ってきて頂戴」

 魔女のしなやかな指が伸ばされ、人形を手招きする。


 それに応じるように人形はフィーロに向けちた剣を納めて魔女の傍へと歩み寄った。

 それは、百年余りの時を経て、再会を果たした魔女と人形師の姿だった。


 自身の傍に戻ってきたマティアスの頬に触れ、エマは恋する乙女の表情を浮かべた。


 まるで、フィーロやアルシャがその場にいないとでもいうように、エマは愛しきヒトとの逢瀬を噛み締めた。


 その、異様な雰囲気を破るようにフィーロはエマへ問いを投げかけた。


「貴方が、紫電の魔女・エマ・フォン・ドレイクですか?」


 それまでの甘い空気を切り裂く冷ややかな声にエマは、ようやくその場にいたフィーロの存在に気付いたのか、視線を向けた。直後、憎悪に似た表情がエマの美しい顔に浮かび上がった。


「懐かしい気配がしたと思ったら、ふうん...銀月の子孫ね、貴方」


 しげしげと、舐めるような目線でエマはフィーロを見つめる。

 その何処か鋭さを含んだ視線をフィーロもまた冷めた目で見返した。


「銀月のイリヤ...大戦時の三大魔女の一人にして、ヴェドゴニヤの巫女」

 感情のない声でフィーロがその名が示す人物を反芻すると、エマは嬉しそうに笑う。


「ええ、そう。私をお父様や人間共と結託して、封印する事しか出来なかった魔女」


 嘲笑うように言い募り、エマは興味をなくしたように隣に控えたマティアスに向け、その頬を輪郭をなぞるように撫でた。


「ああ、ようやく会えた。マティアス。貴方に会える日をどれほど待ちわびたことか」


 ひんやりと冷たい人形の身体に擦り寄り、エマは恍惚に頬を染めて瞳を潤ませる。


「さあ、まずは貴方の魂を完全に蘇らせる為にもう一度この街で術を発動しましょう。それから、お父様の領地を乗っ取って私が北の頂点に立つわ。北の王の地位を手に入れさえすれば、当面は私の邪魔を出来ないわ」

 マティアスに向けていた視線をエマはフィーロに向ける。


「それが、かつて神から魔女の称号を与えられた者の発言ですか...」

「世界がどうなろうと知った事ではないわ」

 冷ややかな双眸を向けられ、フィーロは不快を露わにする。


「貴方は人間側であった筈。何故、故郷を襲った謎の襲撃がクドラクの仕業だと気づかないのですか?」


 それは、あくまで推測だった。当時の資料など殆ど残されてはいないが、フィーロは北の王親子が領地を離れた際に起こったツアーンラートの街への襲撃は、エマを仲間に引き入れる為のクドラクの策略だったのではと、予想していた。


 フィーロの問いかけにエマは眉を顰めた。

「マティアスが命を落としたあれね...ええ、後になってからだけど分かってたわ。あれがクドラク達の仕掛けたことだって。でもね、魔族を、私達を信じなかったのはこの街の人間共よ。これまでお父様が庇護してきた事を忘れて、たった一度の襲撃で掌を返して...マティアスが死んで、アイツらは魔族とつるんでいたせいだと言ったのよ。マティアスはこの街を護ろうとしたのに...そんな、彼が死ぬ原因を作った人間を許せというの?ヴェドゴニヤはとんだ理想主義者ね」


 まくしたてるような悲痛な叫びにも似たエマの思いが、零れ落ちる。


 エマの気持ちも考えも理解は出来る。だが、それは許してはいけないものだ。

 小さく息を吐き出し、フィーロは気持ちを落ち着ける。と、レイピアを握り直した。


「そうですか...」

 それは、決意を含んだ呟き。

 すっと、真っ直ぐに腕を伸ばしフィーロはレイピアの切っ先をエマへと向ける。


「ふうん、私と戦うつもりなの?」

 自分に向けられた切っ先を前に、嘲笑うようにエマはフィーロを見つめる。


「いいわ、相手になってあげる」

 マティアスを背後に下がらせ、エマは掌に空気中の水分を集めると、一瞬にして凍らせる。それはピキピキと音を立てて一振りの氷槍へと変化した。


「悪いけど、容赦しないわ。私の邪魔はさせない」


「臨む所です」

 どちらからともなく、フィーロとエマは相手に向かって床を蹴った。





 ツアーンラートのシンボルたるミッテンヴァルト大聖堂の中で、紅い閃光と紫電が迸る。


 刃がぶつかりあう度、フィーロとエマの間で電撃を纏った火花が散る。 


「私はただ、あの人を蘇らせたかっただけなのにっ」

 悲痛な嘆きと共に距離を取ったエマの尾手から氷の礫が打ち出され、フィーロ襲い掛かる。


 それを左右に避け、レイピアの刀身で叩き落してなんなく躱しながらフィーロはエマを見据えた。


「それでも人間を犠牲にするのは間違ってますよ」


「貴方に何が分かるの?人間は、罪もないあの人を侮辱したのよ。護ってくれたにも関わらず、屍者を愚弄した。私やお父様が護ってきたにも関わらず、恩を仇で返すような卑劣な生き物」


 キンと、鋭い音を響かせてエマはフィーロのレイピアを弾き返す。

 後ろに下がったフィーロはすぐさま体制と立て直す。


「私は後悔した。何故、早くマティアスをヴァンパイアに転化させなかったのかって。人間の愚かさにもっと早く気づいていたら、あんなことにはならなかったのよ」


 フィーロの攻撃を返しながらエマは己の胸の内を吐き出すように声を張り上げる。


 それは、彼女がずっと秘めていた思い。封印され、深い眠りのうちにあって増幅された一人の乙女の憎悪。

 彼女の言葉を静かに、攻撃と共に受け止めながらフィーロは静かに言葉を紡ぎ出す。


「確かに人間は身勝手で傲慢な部分があります。でも、それはどの種族にだって言えることです」

「神に愛されし魔族。吸血鬼殺しの吸血鬼に言われたくないわ」


 雷鳴が大聖堂の中に轟、一筋の雷がフィーロの上に落とされる。

「くっ」


 雷撃をフィーロは咄嗟に血界を張り、レイピアを避雷針にして受け止める。

 レイピアを走り抜け、左腕にびりびりと電流が流れ、フィーロは眉を寄せた。


 電流が流れた為にレイピアが血に戻り床に飛び散った。


 白い神父服の袖が破れ、赤黒く変色した異形の左腕が露わになる。

 びりびりと痺れた異形の左腕を押さえながら、距離を取ったフィーロはエマを見据えた。


 攻撃を受け、僅かに疲弊したフィーロをエマはしげしげと眺め、何かを思い出したように話し始めた。


「ねえ、貴方、あの銀月のイリヤの親族なんでしょう?その銀色の髪に半分蒼い瞳。もう半分の黄色い瞳は東のヴァンパイア王のものかしら?」


 唐突なエマの問いかけ。

 それにフィーロは答えず、沈黙を貫く。

 その瞳に映る光を見つめ、エマは口許うっすらと笑みを刻んだ。


「ふふ、もしかして貴方はあの二人の子供?だとしたら、あの魔女はどうしたの?東の王と結ばれたのかしら?それとも、ヴァンパイアと恋に落ちた事で非業の最期を遂げたのかしら?」


 封印されていた彼女はその後、銀月の魔女と呼ばれたイリヤがどうなったのかは知らない。けれど、エマが口にした銀月の魔女の事はほぼ真実だった。


 フィーロにとって、銀月の魔女は確かに親族だ。だが、実の母親ではない。

 フィーロがこの世に生を受けた頃にはイリヤはおろか、東のヴァンパイア王であったルキウスもこの世の者ではなかった。


「...銀月の魔女がどんな女性だったか、僕は知りません。ですが、彼女がこのクリスタリアに平和を導く礎を築いてくれたのは事実です。その証拠に僕がいます。ようやく訪れた平和を壊すなら、僕は容赦はしません」


 エマを見据えたまま、フィーロは再び自身の血から一振りのレイピアを作り出した。

 武器が握られたのを見つめ、エマはそれを宣戦布告とみなした。 


「やってみなさい。クドラクの守護を受けた私に、勝てるならね」

 レイピアを構え直したフィーロに対峙するようにエマも槍を構える。


 痺れた腕が回復したのを確認しフィーロは切っ先をエマへと向ける。

 視線が交わった刹那、フィーロとエマは互いに向かって迫ると、刃を交わらた。

 縦横無尽に振るわれる槍捌きをフィーロは細い刃で薙ぎ払う。


「くっ」

 封印が解けてから時間が経つにつれ、エマの力が強くなっていく。


(流石は、クドラクに転化しただけはある...)


 槍に込められた魔力から、エマの強さがひしひしと伝わってくる。

 その異様な強さにフィーロは胸中で苦笑した。


 目の前にいるエマは既にヴァンパイアではなく、この世界の悪を象徴する存在。ヴェドゴニヤの宿敵であるクドラクだ。


「口の勢いの割には押されてるじゃない。血を使い過ぎたんじゃないの」

 黒みを帯びた赤い双眸が嘲笑うようにフィーロを見据える。


 彼女の言う通り、血を流し過ぎたフィーロの力は、普段の半分も出せていなかった。

(今更ながらに、ギルの忠告が効きますね)


 先日、通信魔術を使った時に血を触媒として使った事を、フィーロは少しだけ後悔した。


 僅かな気の緩みと、一瞬襲った眩暈にフィーロの身体はエマの振るった槍の柄に当てられ、大聖堂の壁に吹き飛ばされた。


 衝撃で大聖堂が揺れ、描かれたステンドグラスにひびが入る。


「フィーロ様っ」


 ズルズルと壁を伝ってフィーロは床へとずり落ちた。

 血界に守られ、エマとの交戦を見守っていたアルシャは無我夢中でフィーロの傍に駆け寄った。


「大丈夫ですか!」


 落ちた衝撃で砕けた長椅子の破片に埋もれたフィーロをアルシャは懸命に抱き起す。壁にフィーロを寄り掛からせると、その身体に傷がないかを確かめようとして、アルシャは思わず息を飲んだ。


「あ...」

 雷撃で袖が破れ、露わになった異形の左腕を目にしてアルシャはフィーロに触れるのを躊躇った。


 アルシャの反応にフィーロは苦笑いを浮かべて溜息を吐く。

「...すみません、見苦しい物を見せてしまいましたね...」

 嘆息と共に吐き出されたフィーロの言葉には何処か諦めの色が混じっている。


 生まれながらの異形の腕。これが元で子供の頃は虐めを受けた。


 気味が悪い。


 気持ち悪い。


 そんな侮蔑の言葉はもう慣れ過ぎて、今更何を言われても大して傷つかないが、今まで自分を少なからず慕ってくれていた少年に見せるにはあまりにも酷だろう。


 アルシャの戸惑いと驚きの入り混じった視線はこれまでも何度も浴びている。

 これを驚か無かったのは、ランスと上司であるギルベルト。関わりのある魔族だけだ。


 左腕を隠すように押さえて、フィーロは身体を起こす。

「フィーロ様...あの、その腕は...」


「これは、僕がこの世界の守護者に選ばれたという証なんです...」

 普通、この腕を見たら人間は怖がって逃げるのに、アルシャは逃げるどころか、興味を抱いて訊ねてきた。


 それを意外に思いながらもフィーロは彼の問いに答えた。

「守護者...って、お伽噺に出て来る、悪い魔族を狩る紅い天使様?」


 それは、この世界に伝わる誰もが知るお伽噺。

 悪い魔族が人間をいじめると、天から紅い翼を持った天使が現れて、人間を護ってくれる。


 幼い頃から慣れ親しむ物語。


 人間側にとっては自分達の守護者である存在だが、魔族達にとっては少し違う。


 魔族にとって、紅い天使は自分達を狩る死神であると同時に、闇に染まった魂をあるべき場所へ導いてくれる救いの存在。


 悪の道に引きずり込まれた魔族が安らかな死を迎えるには、死神による救済がなければならない。


 人間にとっても魔族にとっても、救いの存在の紅い天使の名は。


「そう、僕がクルースニク。遥か古の時代よりこの世界を見守ってきた守護者の後継者です」


 アルシャの問いかけにフィーロは淡く微笑んで頷いた。

 身体が動くことを確認し、フィーロはよろめきながらも立ち上がる。


「だから、彼女を、クドラクに堕ちた紫電の魔女を止めなくてはならないんです」

 己れを奮い立たせフィーロは再びエマと向かい合う。

 だが、血と力の使い過ぎで既にフィーロの体力は限界に近かった。


(なんとか、持たせるしか...)

 策を講じるべく思考を巡らせていると、大きな音を立てて大聖堂の扉が開いた。




「フィーロっ」

 外から現れのは、息も絶え絶えになりながらも追いついたランスだった。


「ランス」

 突然の従者の登場に驚いていると、肩で息をしながら顔色の悪いランスが近付いてきた。


 新たな闖入者にエマは一瞬気後れする。

 その隙をついてランスは主の傍へと辿り着いた。


「ランス、顔色悪いですよ」

「俺の事はいい、それよりフィーロ、俺の血を吸え、今はそれしか方法がない」


 唐突な申し出に、ランスが何を言っているのかフィーロは直ぐに理解した。

「ストックは?」

「ねえから言ってんだろ」

 主の問いかけをきっぱりと否定してランスはジャケットを脱いで首筋を晒した。


「腕でいいんですけど...」

「こっちの方が効果が早いだろ、早くしろクルースニク」


 グイっと、腕を引かれて半ば抱き寄せられる形でフィーロはランスの肩に顔を埋める。


「...ぶっ倒れても知りませんからね」

「気にすんな、血の気は多い方だから」


 不満げなフィーロの言葉にランスは苦笑する。

 覚悟を決め、フィーロは犬歯を伸ばすとランスの首筋に牙を突き立てた。


 突然現れた新たな人物とフィーロのやり取りを眺めていたエマは、不意にそれまでと違う気配を感じ取った。


「っ」

 それは、本能とでも呼ぶべき感覚。

 魂が警鐘を鳴らし、背筋に悪寒に近いものが走り抜ける。


「なによ...この感じわ...」


 ぞわりと鳥肌の立つ感覚に目を見開いていたエマの瞳に、異様な光景が飛び込んできた。


 それまで満身創痍だったフィーロの弱っていた魔力が漲り始める。


 それに付随するように髪が伸び、銀色の神は毛先から紅く染まっていく。


 ビキビキと軋むような音を立て、背中を突き破ったのは、深紅の翼。


 緋色に染まった双眸がまるで獲物を捉えるような視線を向けてくる。


 そこでエマは確信した。目の前にいるのがただのヴェドゴニヤでない事を。


「まさか、貴方がクルースニクなの...」


「次代のです。まだ修行中の身ではありますが、貴方を屠るのは使命だと思います」


 左腕に牙を突き立て、そこから滲んだ血でフィーロは再び武器を作り出す。現れたのはレイピアではなく、深紅に染まる背丈ほどもある鎌だった。


「ヴェドゴニヤの先祖返り、クルースニク。クドラクとクドラクに浸食された魔族を狩る死神、この世界の守護者...まさか、この目で拝めるなんて思わなかったわ」

 ふふ、と不敵な笑みを浮かべエマは紅い死神と対峙する。


「これは、退魔師でもヴェドゴニヤでもなく、クルースニクとしての警告です。紫電の魔女エマ・フォン。ドレイク。その矛を収めなければ貴殿を戦乱の兆しと見なし断罪する」


「なら、やってみなさい。貴方を葬って私は神をも殺す存在になる。そうすれば、この世界に私とマティアスの邪魔をする者はいなくなるわ」

 氷の槍を手に、エマはフィーロに向かって迫りくる。


 振り下ろされた槍を大きな三日月の刃で弾き返し、フィーロはエマを迎え撃つ。


「貴方のお父君からも、娘を安らかに眠らせて欲しいと言われています。だから、僕は貴方をクドラクの呪縛から解放する」


 縦横無尽に振るわれる槍の刃をフィーロは先程とは打って変わって見事に全て弾き返す。その動きに無駄はなく、まるで乱舞を踊るように鮮やかだった。


「このっ」

 横に薙いでも、縦に振り下ろしても、前方に突いても、エマの槍はフィーロの鎌に弾かれ、叩かれ、躱される。


 さっきまで優勢だった自分が劣勢に持ち込まれている事にエマは焦燥に駆られた。


 このままでは負けてしまう。

 それだけは出来ない。

 焦りがエマの槍を鈍らせていく。


 フィーロの鎌が、大振りながらも隙をつき、的確にエマの胸元へ迫る。


(しまった)

 深紅の切っ先がエマの心臓を捉え振り下ろされた瞬間、彼女と鎌の間に人影が躍り出た。


 それまで、どれほど長い時間意識を失っていたのかは分からない。

 気が付くと、目の前には彼女がいた。

 喜びに溢れていた表情はいつしか沈み、悲壮に暮れた。


 その名を呼ぼうにも上手く言葉が出ず、抱きしめようにも思うように身体が動かない。


 やがて、彼女から笑顔が消え、自分を見つめる瞳には諦めと悲哀が満ちていた。


 それでも、彼女が必死に何かを成し遂げようとしていたのは傍で見ていて理解していた。


 けれど、それがどれ程悲しいことか、罪を重ねる彼女を止める事が出来ない自分を私は悔やみ、意識のないフリを貫いた。


 目を覚ましてから、彼女の傍にいるうちに、自分が何者であるのかを理解した。

 後少しで彼女の名を呼べる。


 意識がはっきりしたその瞬間、彼女は紅い棺の中に押し込められ、その姿を私の前から消していた。


 そして、この意識も再び眠りに就いた。筈だったのに。


 


 ミシッ。と、何かにヒビが入るような乾いた音が響き渡る。

 エマとフィーロ、どちらからともなく二人は思わず言葉を失った。


「あ...」


 エマを庇うようにフィーロの槍をその胸で受け止めていたのは、それまで静かにこの戦いを見守っていた人形ーマティアス。


 マティアスの胸に深く突き刺さった鎌の切っ先が何かを砕く。 


 それが何かに気づいたエマは絶叫した。


 咄嗟にフィーロは鎌を引き抜いて二人から離れる。


 倒れ込むその身体を抱きしめ、崩れる様に床に座り込んだエマは、マティアスの肩を必死に揺さぶった。


「マティアスっマティスっああ、どうして」


 震える声で愛しき者の名を叫び、震える手で鎌の刺さった胸元をにエマは触れる。


 砕かれた人形の外殻の下、生き物の心臓に当たる場所に埋め込まれた赤く光る鉱石。それが、砕かれている。


 それは、錬金術によって作られた人形であるマティアスの魂を宿す依り代として使われた賢者の石。


 人形の彼にとって、この世に存在する為になくてはならない物が壊れている。


 その現実が導く末路を予感してエマは恐怖のあまり身体を震わせた。


「...エマ...」


 微かな呼び声にエマは赤く染まった瞳を大きく見開き、真っ直ぐにマティアスを見つめる。と、目元に滴を滲ませた。


「嘘...意識が...」


 いつの間にか、マティアスの灰色の双眸には生者と同様の、かつての彼と変わらぬ優しい光が宿っていた。


 魂を偽りの身体に降ろしてから幾星霜。ずっと宿る事の無かった意識が宿っている事実にエマは唇を震わせ、必死にそれを抑え込んで彼を凝視した。


「...ごめん...」

 最初に口を吐いたのは謝罪の言葉。


「私は...今までずっと、長い夢を見ていた...君を捜して、夜の街を彷徨い、誰かの命令で人を襲ってしまった...」


 次に浮かんだのは後悔の念。これは、再び目覚めてからのもの。


「...本当は...ずっと前に、意識も記憶もあったんだよ...」


 紡がれる言葉は記憶を継承するのに失敗した筈の人形が本当はマティアスとしての意識と記憶を宿していたと証明だった。


「でも...私を蘇らせる為に...優しかった君が変わってしまう姿を...見たくなくて...意識がないフリをしていたんだ...こんなことになるなら、早く君を止めていたら良かったな...」


 かつて、自分の為に全てを投げ出したエマを止めなかった責任をどう果たそうかと考えていた。


 でも、行動に起こせる程、強くはなくて。


「...また、君が傷つくのを見ていられなかった...失いたくないと思ったら...自然に身体が動いていたよ...」


 どこか、苦笑いを浮かべた彼の顔に、ぽたりと、熱い滴が落ちる。

 涙に濡れた頬をマティアスは、手を伸ばして包み込んだ。


「ごめん...君の傍にずっといられなくて...でも、君を愛せて私は幸せだった...先に逝ってしまってごめん...でも...君にもう一度会えた事は感謝してる...こうして、想いを伝えられたから...」


 あの襲撃の時、死ぬのは分かっていた。ただ一つ心残りがあるとすれば、エマに、愛しい人に最期を伝えられない事。


 それが、多くの犠牲と時間を費やした結果であったとしても、マティアスはこの瞬間に感謝した。


「あり...が...とう...」


 力なく、頬に当てていた手が滑り落ちる。宿った意識は薄れ、マティアスの魂が偽りの身体から解放されていく。


 再び、ガラス玉へと戻った光の無い人形の瞳を力なく見つめ、エマは吐き出すように呟いた。


「...結局、私も彼も利用されただけか...」


 ずっと、胸の片隅にあった考えをエマはようやく受け入れた。


 動かなくなった人形を抱きしめたまま、幽鬼のようにエマは立ち上がる。


 咄嗟に鎌を構えて警戒するフィーロだったが、自分の前に立つ彼女には既に戦う気力は残っていなかった。


「クドラクへと転化したヴァンパイアはそう簡単には死ねない。ねえ、次代のクルースニクさん、私を彼の元に送って下さらない?」

 それは、全てを後悔した魔女の哀しい末路。


「...そのつもりです」

 エマとマティアスの最期の別れを見守っていたフィーロは、静かに、処刑人が刑の執行を告げるような声でエマの思いに応える。


「はあ、今更になって銀月が羨ましくなってきたわ。愛する人と結ばれて、彼女は未来に希望を託せたのだもの...それが、貴方なのね」


 深く息を吐き出してたエマの顔は、まるで憑き物が落ちたかのようにスッキリとしていた。


「もっと早く気づけていたら、彼を失わずに済んだのにね...」 


 それは、何に対しての後悔か。

 マティアスの意識が宿っていた事に対するものか。クドラクが自分を利用した事に気づきながら知らぬフリをした事へのものか。


 推し量れない真意をフィーロが追求することはない。

 携えていた鎌を消し、フィーロはゆっくりとエマの傍に歩み寄る。


「あら?あの鎌で首を落とすのではないの?」

 クスクスと笑う彼女にフィーロは苦笑いを浮かべて首を横に振った。


「そんな事はしません。あれは、悪鬼の手足を刈り取る為の物ですから」


 エマの疑問に答えながら、フィーロは彼女に腕を伸ばし、背中を包み込むように抱きしめると、その首筋に顔を近づけた。


「そう...これが、お伽噺に出て来た送り方なのね...」


 かつて、父や母に読んでもらった絵本の一節を思い出してエマは静かに瞼を閉じる。


 子供の頃、誰もが読んだ紅い天使の物語。

 それは、悪い魔族を天へと送る御使いの話。

 人間にも魔族にも、等しく優しいこの世界の守護者。

 クドラクによって染められた魂をあるべき場所に戻す唯一の方法。


「貴方に、夜の女神の祝福があらんことを」


 決まり文句を口にして、フィーロはエマ尾首筋に牙を突き立てる。滲みだしたその血を迷うことなく吸い上げた。


 血が身体から抜けていく。その感覚と共にエマの意識が薄れていく。

 遠のく意識の中で彼女は恋人との再会を願った。


 血の気が引き、熱をなくして蒼くなったエマの身体が、灰となって崩れ落ちた。

 それに合わせる様にして、マティアスの姿を模した人形もバラバラに砕け散った。


「......」

 床に散らばる二つの遺骸を見つめて、フィーロは小さく息を吐く。

 そんなフィーロの背をランスとアルシャは静かに見つめていた。


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