ー第八章~手掛かりを探して~




『前略、ギルベルト・ハイライト退魔師課所長様

 無事、予定通り北の工業都市・ツアーンラートに着きました事をお伝え致します。

 現在調査中の北の工業都市においての聖職者失踪事件についての中間報告を申し上げます。

 いまだ犯人の目的、真相等の情報は掴めておらず、今後も調査が必要と思われます。

 調査で分かった事は、一連の事件が、件の街に伝わる伝承に関連した事象である事と、聖職者を襲っている者が人間でも魔族でもないということです。

 犯人らしき人物と遭遇及び交戦に至りましたが、確保には至らず、現状次の遭遇に備えて情報収取中です。

 進展があり次第またお報せ致します。

 フィーロ・フィロフェロイ・ストラウス』


 羊皮紙の便箋にさらさらとフィーロは文字を認める。

 自身のサインをし、便箋を折りたたんで封筒に入れ、蝋を溶かして封をした。


「これでよし」

 宛名を記入し手紙を手に、フィーロは机から離れると、閉じていた窓を開けた。

「よし、天気は大丈夫そうですね」


 天候を確かめたのち、トランクの中から小さな鳥籠を取り出した。鳥籠の蓋を開け、中に手を入れると、一羽の木で出来た鳩が出てきた。


「お願いしますね」

 木彫りの鳩にフィーロは手紙を括り付ける。

 窓辺に鳩を運び、フィーロは黎明に輝く空へと手を伸ばした。

 バササアと、まるで本物の鳩の羽ばたきのような羽音を響かせて木彫りの鳩は宙へと浮かび上がった。

 まるで、自分が何所へ向かうのかを理解しているのか、鳩は迷わず東の空へと飛び立った。


 手紙を携えた鳩を見送ったフィーロは窓辺に腰かけて溜息を零した。

「定期報告終了...と」

 夜が明けたばかりの黎明の空を眺めながらフィーロは独り言ちた。

 巡回から戻ってから、結局眠る事が出来なかった。興奮が冷めなかったのもあるが、青年の正体についてずっと考えていたのだ。


 一滴の血も零れなかった身体。

 痛みは感じていたのだろうが、それでも傷つく事を恐れなかった。

 あれは、生き物の反応とは思えない。


 手掛かりになると思い情報を書き留めて推理してみたが、疲れが出ているのか思うように思考が回らなかった。

 結局、無事に街に着いた事を含めた第一報告の手紙を書くことにシフトして、フィーロは考えるのをやめていた。


 ランスはというと、大事を取って寝かせてしまった。

 彼の不調の原因も探らないとならない。

 情報は多い方が有利だがどれが正しく、どれを使えば真実に辿り着けるのかを精査しない限り、それは何の意味もなさない。

 回らない頭で考えても仕方がないとしたため、窓辺から身体を話した。


 大きく伸びをして凝り固まった身体を解してフィーロは白い詰襟の神父服カソックを脱いだ。

 ワイシャツのボタンを第二ボタンまで開けてスラックスのベルトを外し、衣服を緩めてベッドに寝転んだ。

 

 朝食の時間まではまだ時間がある。

 襲って来た睡魔に抗う事なく、フィーロは微睡に身を沈めた。





 明け方眠りに就いてからフィーロが目を覚ましたのは午前十時を回ろうとしていた頃だった。

 二時間くらいの仮眠のつもりだったが、どうやらがっつり寝入ってしまったらしい。

 いまだぼんやりとしているが、しっかり睡眠を取れた為か、思いのほか頭はスッキリしていた。


 身体を起こし、隣のベッドを見遣る。ランスは起きたのか姿が見えなかった。

 何処に行ったのだろうとぼんやり考えていると、居室の扉が開いた。

「お、起きたのか」

 居室に戻ってきたランスは軽食を載せたお盆を持っていた。


「おはようございます...なんだ、起きたなら起こしてくださいよ...」

 ベッドの上で少し不満げに眉根を寄せる主人にランスは肩を竦めた。


「前日も寝坊した奴を少しでも寝かせてやろうという従者の気持ちが分からないのかよ」

 今度はランスからの不満げな声が室内に零れる。

 似た者同士の主従はしばらく互いを見据えていたが、同時に苦笑した。


「おはよう、よく眠れたか?」

「ええ、お陰様でスッキリしました。ランスは体調はどうですか?」


 扉を閉めてベッドの向かいにあるテーブルにランスは持ってきたお盆を置く。そこには作り立てのパンケーキと焼いたベーコン、スクランブルエッグ、サラダ等が盛り付けられたプレートが二人分、更にヨーグルトと蜂蜜やジャムが添えられ、コーンスープがカップにたっぷりと注がれていた。


「教会の中なら普段と変わらないな。街に出ると相変わらず頭が痛いが、昨日よりはましかな」

 遅めの朝食のセッティングをしながらランスはフィーロの質問に答える。


「出掛けてたんですか?」

「ああ、アルシャに頼んで市場にな」


 ベッドから下り、外していたボタンをきちと留めてフィーロは食卓に着く。

「ざっと、街の様子も見てきたが、特に変わった所はなかったぞ」

 持ってきたポットから紅茶を注ぎ、ランスはフィーロの前にカップを置く。

 ミルクと砂糖を入れて掻きまわし、フィーロはミルクティーを口にしてホッと息を吐いた。


「そうですか...」

 ランスからの報告にフィーロは顎に指を添えて眉を寄せる。

「あれだけ騒ぎを起こせば誰かしら野次馬が来そうなものでしたが...やはり、何か結界のような物が張られていたんでしょうか」

 パンケーキにバターを塗り、蜂蜜を垂らしながらフィーロは昨夜の事を思い出す。


「そこな、それに、十時とは言え酔っ払いの一人もいなかったのは不思議だったよな」

 フィーロの手前の席に腰かけ、ランスも遅めの朝食に手を付ける。

「後で、昨日の現場を見に行こうと思います。何か痕跡があるかもしれませんからね」


 パンケーキを一口頬張り、フィーロはそれまでの険しい顔をほんのりと緩めた。

 ランスの料理は絶品である。彼とサーヴァント契約を結んでから今日まで、フィーロはある一定の期間を除いて食に困った事は一度もない。どんなに疲れていても、毎日欠かさず美味しいご飯が食べられるのは、巡回退魔師として各地を転々と任務で放浪する身には願ってもない事だった。


「そういえば、昨日の青年、明らかに僕等を捕獲しようとしていましたね」

 昨夜の事を思い出しながらフィーロは検証を開始した。

「確かに、殺すつもりならもう少し攻撃してくるよな」

 ランスもそれは感じていたらしく、コーンスープのカップに口を付けながら頷く。


「これは、もしかしたら失踪した聖職者達は何処かに捕らわれているだけかもしれませんね。そうなると、早急に事件の真相に辿り着かないと」

「けど、手掛かりなしだぜ?それに、どうやら仲間もいるみたいだし...」

「ここは思い切って捕まってみますか」

「確かに有効な手段だが、危険すぎる。お前にもしもの事があったらどうすんだよ」

 ランスの気遣いにフィーロは感謝しつつもどうしたものかと首を捻った。


「せめて、あの青年の目的さえ分かればなあ...」

 パクリと、大きな口を開けてこの辺りの名産品であるソーセージを頬張る。

「暫くは地道に情報収集と夜の巡回だな」

「そうですね」

 相槌を打ってフィーロはミルクティーをぐっと飲み干した。




 朝食を終えたフィーロとランスは身支度を整えて一階へと降りた。

「おはようございます、フィーロ様」

 階段を降りた所で、籠いっぱいに入れた洗濯物を運んでいたアルシャと出くわした。


「お疲れだったとランスさんから聞きましたが大丈夫ですか?」

 籠の後ろから顔を覗かせてアルシャは心配そうに尋ねてくる。それにフィーロは笑顔で答えた。


「問題ありません。しっかり寝たら疲れも飛びましたよ」

「それは良かった」

 本当に心配してくれていたのかアルシャはフィーロの笑顔を見るなりホッと胸を撫で下ろした。


「お二人はこれからお出かけですか?」

 籠越しに聞いてくるアルシャにフィーロはこくりと頷く。

「あの、もしお邪魔でなかったら僕も同行させて下さい。街の案内くらいなら出来ますから」

 アルシャの申し出にフィーロとランスは顔を見合わせた。 

 どうします?と、フィーロが視線で訴えてくる。俺に聞くなよ、とランスは怪訝に眉を顰めた。

 しばし視線を交わし合っていたフィーロとランスは、自分達を見つめる純真無垢な瞳に気まずさを覚えた。


「...案内、お願いできますか?」

 半ば強引に笑顔を取り繕いながらフィーロはアルシャにそう告げた。

「はい、喜んで」

 満面の笑みで力強く声を張り上げて、アルシャはポンと胸を叩いた。





 アルシャが手繰る馬車に揺られてツアーンラートの市街地へやってきたフィーロとランスは手始めに昨日襲撃を受けた第五の銅像の前へと足を向けた。

「やはり、何も変わった様子はないですね」

 銅像を見上げてフィーロは眉を顰める。

 変わった事と言えば、昨夜の戦闘で付いたであろう傷跡が、石畳が抉れたという形で残っている程度だった。


「ここまで人が多いと、気配の残滓も読み取れないし...」

 難しい顔でフィーロは銅像の周りをぐるぐる回る。しかし、手掛かりになるものは何も出てこなかった。


「そういえばフィーロ様、昨日は誰もいなくなりませんでした。この一カ月、水曜日の晩は必ず誰かが帰って来なかったので」

 フィーロの真似をして銅像を見上げていたアルシャが不意にそんなことを口にした。

「え?水曜日?」

「はい。誰かが消える時はいつも水曜日だってアンジュお姉ちゃんが言ってました」

 アルシャの発言にフィーロは視線を銅像からアルシャへ移す。


「その、誰かとは今起きている聖職者失踪事件の事ですか?」

 フィーロに詰め寄られアルシャは驚きに目を丸くしながらこくりと頷いた。

「だからひと月で四人か...」

 納得した様子で一人首を縦に振るフィーロをアルシャは不思議そうに見つめる。

 アルシャから得た情報をフィーロは整理する。水曜日に消える聖職者。水。


(そういえば...昨日襲撃してきた青年は氷の魔術を使ってきていた。何か関連があるかもしれない)

 水や氷は魔術の世界では同系統と見なされる事も少なくはない。水系魔術の応用が氷なら、昨夜の青年に繋がる何かが分かるかもしれない。


「ちなみにアルシャ君、マティアスの伝承で彼が水や氷に関わる話しとかないですか?」

「水ですか...?いえ、そういうのは聞いたことがないです」

 フィーロの問いにアルシャは小さく首を横に振る。

「何故...水曜日なんでしょうか...」

 顎に手を添えて訝しみながらフィーロは考え込む。曜日を決めているという事は何か意味がある筈だ。


(これは、街を調査するより教会か街の図書館かで伝承や歴史を調べる方が近道かもしれない)

 これまでもフィーロは伝承に準えた事件を幾つか解決してきたし、過去の事件でも似たようなものの調査報告書を見聞している。今回も、そう言った古い書物にヒントがあるかもしれない。


「よし、街の調査は終わりにしましょう」

 ポンと、胸の前で両手を打ち、フィーロは思考を切り替える。

「今度は文献漁りか」

 ランスは次にフィーロがやろうとしていることを察して思わず溜息をついた。


「フィーロ様、街の調査は終わりってどういう事ですか?もう、調べないんですか」

 突然のフィーロの発言に不安を感じたのかアルシャは焦った様子でフィーロに詰め寄った。


「あ、別に事件をほっぽり出してこの街を出て行くという意味ではないですよ。街の中をこれだけ回っても手掛かりがないので、過去の伝承やこの街の歴史を漁ってみようかと思っただけです」

 アルシャの目線に視線を合わせてフィーロは穏やかに説明する。

「聖職者が失踪している事や、この銅像が何か関わっているという事は魔術を用いた何らかの術式を発動させる為の準備という可能性があるので。そういった場合、過去に似たような事例が起こっていたりするので、それを調べてみようかなと」


「良かった...」

 フィーロの説明にアルシャはホッとする。

「あの、それ、僕も手伝わせて下さい」

「いいですよ。この調査は人手が多い方が捗りますし。アルシャ君は本は好きですか?」

「勉強は少し苦手だけど、本を読むのは好きです」

「では、お手伝いお願いしますね」

 ニコリと、優しく微笑まれてアルシャは大きく返事をした。





 ツアーンラートのカフェで軽く昼食を済ませたフィーロ達は、教会に戻るなり司教。カリーナの執務室を訪れた。

「書架の閲覧許可ですか?」

 書類作業に従事していたカリーナはフィーロの申し出に大きく目を見開いた。


「はい、街の現場を調査するだけではこれ以上の手掛かりは掴めず、この街の史実や伝承で何か手掛かりがないかと思いまして。許可を頂けませんか」

 フィーロの申しでにカリーノは少し戸惑った様子を見せた。


 艶やかな唇に指を載せ、暫し逡巡を重ねてからカリーノは真っ直ぐに顔を上げた。

「このミッテンヴァルトには先の戦禍を免れた貴重な書物も沢山所蔵しております。閲覧は構いませんが、持ち出しは許可出来ませんが、それでよろしければ書架の立ち入りを許可致します」


「ありがとうございます。それで構いません」

 恭しくフィーロはカリーナに一礼する。


 すると、カリーナは執務室の奥に声をかけた。

「ジョナサン、書架の鍵をお持ちして」


 執務室と扉一枚で繋がった部屋から、一人の若い神父が姿を現した。

 エーベルヴァイン司教の補佐官で司祭の階位を賜るジョナサン・ブラントは、眉間に深い皺を刻んだ不機嫌そうな顔で司教の執務室へやって来ると、デスクの上に真鍮の鍵を置いた。


「こちらは書架の合鍵です。フィロフェロイ神父にはこちらをお預け致します。ですが、他の者達の手前もあるので、夜十時以降は書架への立ち入りはお控え下さい。明かりが漏れていると気になる者もおりますし、アルシャはまだ子供ですから、あまり遅くまで起きているのは感心しませんので」

 チラリと、フィーロの後ろに控えているアルシャにカリーノは母親のような厳しい視線を送る。


「分かりました」

 カリーノから合鍵を受け取り、フィーロは深く頷いて、彼女が出した条件を了承した。


「書架はこの執務室の手前にある大きな羊の意匠が入った扉の部屋です。普段あまり人の出入りはないので埃っぽいと思いますから、調べ物をする前に換気をお薦めしますよ」


「ご忠告感謝致します。それでは早速掃除から始めさせて頂きますね」

 ニコリと笑みを零してフィーロはランス、アルシャを引き連れて執務室を後にする。




「よろしいのですか?マダム」

 フィーロ達が退室したのを確認するなりジョナサンが重い口を開き、司教へと問いかけた。


「聖天教会本部からの退魔師を無碍に扱うことは出来ません。それに、北の王の息がかかっているなら尚更扱いには慎重にならなくては...あまり妙な動きを見せると不審がられてしまいます」


 執務机の上に本部から送られてきたフィーロのプロフィールを見下ろし、カリーノは冷ややかな笑みを口元に浮かべる。

「もう少し泳がせましょう。始末はいつでもできますからね」

 ふふっと、口元に笑みを刻み、カリーノはプロフィールの添えられた写真に爪を立てた。





 早速教えられた書架にフィーロはランスとアルシャを連れて足を運ぶ。

 司教の言う通り、普段人の出入りが少ない書架の中は薄暗く、扉を開けただけで埃が舞い上がった。


「ごほっごほっ」

 舞い上がった埃に当てられフィーロは思わず咳き込んだ。


「こりゃ相当掃除さぼってんな...」

「貴重な書物を収蔵しているとは思えませんね...」

 口と鼻を袖で覆い隠してフィーロは眉根を寄せる。


 一先ず書架の中に足を踏み入れたフィーロ達は、部屋の脇にあった窓を開けた。

 フリーレン山脈から吹き抜けてくる風がひんやりと書架の中を吹き抜けていく。

 室内に溜まっていた埃が宙を舞い、まるで寒い日に起こるダイヤモンドダストのようにキラキラと輝いた。


「普段書架に入るのは司教様と数人だけなので、年に数回しか掃除をしないんです。僕も、ここに入るのは初めてで」

 室内にある四つの窓をそれぞれ手分けして開けながらアルシャは日頃の様子を伝える。


「まあ、教会の書架なんてそんなもんだろ。割とえげつない資料を保管してたりするからな」


 教会とは、時としてその地域の要塞の役目も担ってきたのは珍しい話ではない。現に先の大戦でも多くの教会が人間側の拠点として前線基地を担っていた。

 そういった事情から、教会の地下には独房や拷問を行った部屋など、薄暗い過去をもつものも少なくない。


 昔から北のヴァンパイア王の庇護下にあるこのツアーンラートの街ですら、もしかしたら凄い資料が出る可能性もある。


「取り合えず、まずはこの街の歴史とマティアスの伝承に関する書籍から漁ってみましょう」


 一通りの換気を済ませた後、フィーロは本棚が所狭しと並ぶ書架の中央に設けられた調べ物をする為の長テーブルの一角に陣取った。

 ペンと手帳、インク壷を並べて準備を整えると、早速本棚へ足を運ぶ。


「フィーロ、持って行ってやるからお前は中身調べろ」

「そうですか。分かりました」

 ランスに言われてフィーロは自身が準備した物の前にストンと腰を下ろす。


「アルシャ君、君は文字は読めますか?」

「はい、大丈夫です」

「では、マティアスの伝承から、貴方が知っているモノと相違がある部分を見つけて下さい。そこに、この付箋を貼っていってもらえますか?」

 筆記具の中から付箋の束を取り出してフィーロはアルシャに手渡す。


「分かりました」

 ぴしっと、敬礼をしてアルシャは本棚からマティアスの伝承に関わる書物を引っ張りでして来るなり、真剣な表情で書物に食い入った。


 その様子を見つめた後、フィーロはランスが持ってきた紐で閉じられた分厚い日誌らしきファイルを目の前で広げた。


『ツアーンラート年代記』そう背表紙に記されたそれは、この街が出来てからの覚書だった。

「始まりは...三百年前か」

(ここの日付は初日にアルシャ君から聞いた通りですね)


 ふむ、とフィーロはゆっくりと黄色く変色したページを捲っていく。

 始めの方は小さな村であったツアーンラートだったが、やがて大きな街へ発展していき、この教会が出来たのは村が築かれて間もない頃であったようだ。


(この辺は特に事件と関係なさそうだな...ふむ、北の王がこの街を作る時に尽力じてるのか...)

 そこに記されていたのは若かりし頃の北の王の姿。

 彼の逸話はこれまで色々と聞かされてきたが、若い頃はかなりの豪傑だったようだ。


(いや待て、この人間と力比べして負けた腹いせに池の水凍らせたって逸話はどうなんだろう...)


 自身が知る北の王のイメージとはかけ離れた事実にフィーロは心底呆れた。

 だが、日誌を読む限りこの街が北の王に守られ、発展してきたのがひしひしと伝わってきた。


 それは、街の歴史でありながら、今この国が最も求めている理想の姿を映したもののように思えてフィーロは唇を噛み締めた。


 フィーロが読み終えた日誌を左に起き、右に積まれた日誌に手を伸ばす。左に積まれた日誌を戻しては、ランスは古い物を戸棚に戻して新しい物を運んでくる。

 フィーロの目の前ではアルシャが真剣な顔でマティアスの伝承を一から読み返していた。


 始めた頃は昼であったのが、いつしか日が傾き、換気の為に開け放った窓から夜気を含んだ風と共に斜陽の光が差し込んで来る。


「はあ、疲れたあ...」

 同じ姿勢で文献を調べていたアルシャは大きな溜息と共にテーブルに突っ伏した。


 アルシャの壮大な溜息を聞き、それまで集中して文献の文章を追っていたフィーロは思い出したように顔を上げた。

 おもむろに、ポケットから懐中時計を取り出して時刻を確認する。


「おや、もう五時過ぎなんですね」

 すっかり夢中になって時が経つのを忘れていた。

 改めて気づくと心なしか肩が痛かった。


「もう直ぐ夕食ですし、一先ず休憩にしましょう。アルシャ君、夕食後は僕達でやりますからまた明日手伝ってもらえますか?」

「えっ今夜はダメなんですか?」

「君はまだ十二歳でしょう。きちんと寝ないと大きくなれませんよ。夜更かしは大人に任せてまた明日お願いしますね」


 不満そうなアルシャをフィーロはやんわりと窘めた。これ以上彼を突き合わせて司教から小言を言われてはこの先調査に支障が出るかもしれない。

 そんな事を考えながらフィーロは筆記具を仕舞い、席を立った。


「さて、僕等は一度自室に戻りますね。また夕食の時に会いましょう」

「はい...」

 意気消沈としながらもアルシャは自分を納得させる。別に邪魔者扱いをされている訳ではないのでここは大人しくフィーロの言うとおりにする事にした。





 夕食を終えて書架に戻ったフィーロとランスは再び日誌の記述に目を通していた。

 ランプのオレンジ色の明かりに照らされた室内は薄暗く、とても読書をするには不向きだが、フィーロもランスも夜の住人であるため気にもならなかった。


「ん...」

 遡る事百八十年程前の記録にそれまで登場していなかった人物が現れ、フィーロは興味を惹かれた。


 年が明けたばかりの冬の日。北の王の城に一人の姫が生まれた。

 北の王にとっての最初の子であるその姫の誕生をツアーンラートの人々は大いに喜び、三日三晩に渡って祭りが催された程だったと記述にはある。


「エマ・フォン・ドレイク...」

 記された名前をフィーロは唇に載せる。


 それは、間違いなく北の王の一族を表すファミリーネーム。

 東西南北を支配下とするヴァンパイア王は基本は世襲制ではない。その時の王が力ある者を次の後継者にと選ぶ。

 だが、北の王に関しては土地柄もあってか代々ドレイクに連なる者がその任を担ってきた。

 現在の北の王・バーレイク・フォン・ドレイクも例にもれなく自身の父親からその地位を受け継いでいる。

 そんな由緒正しきヴァンパイアの貴族の姫がこの地に関わっている事にフィーロは興味を覚えた。


「ランス、マティアスの伝承で、彼の恋人の名前を捜してくれますか?簡単な伝承の説明ではそれが出てこなかったので」

 棚から次の日誌を運んできていたランスに指示を出した。

「日誌は?」

「自分で持って来るからいいですよ」


 次の日誌を受け取ったフィーロはランスにそう告げて再び文面に視線を落とす。

 やれやれと肩を落としながらランスは、昼間アルシャが調べてくれた伝承に関わる書物を引っ張り出してくると、それらを広げて椅子に腰かけた。

 ランスが次に持ってきた日誌にはエマと名付けられた姫君の事が事あるごとに登場していた。


 フリーレン山脈の中央に位置すると言われる北の王の居城から、彼女は時々この近辺に降りてきていたらしい。

 初めのうちは人の子に混ざって遊びをしていたが、いつしか氷の魔法を覚えた彼女は、氷像を作ったり、池の水を凍らせたりしては人々を楽しませたり、力になったりしていたとある。


(かなりのお転婆娘だったようですね...)

 エマという少女の成長録とでも言えそうな日誌の内容にフィーロは苦笑いを浮かべた。


(百八十年前...となると、既に覚醒は済ませている筈。そういえば、北の王に数人子息息女がいるのは知っていたけど、彼女の事は初めてだな...)


 ヴァンパイア達はその殆どが貴族と称されて独自のコミュニティを形成している。特に、王の冠位を賜る者の子息達なら、社交界や政治の場でも名が知れている。


 フィーロが属するクリスタリア公国ではヴァンパイアは魔族側の代表として政治に関わっている為、フィーロも多少面識はあった。


(けど、彼女のレビュタントの時に名前を拝見しなかったような...)

 エマ・フォン・ドレイクという名をフィーロは知らなかった。

 あるつてでヴァンパイア達の社交場に出たことがあったが、その時の招待客にその名を見た事がなかったのだ。


(このくらいの年齢なら社交界を渡り歩いていそうなのに...)

 そんな事を考えながらフィーロは次の日誌を捜そうと席を立った。


「えっと...次はいよいよ先の大戦の始まる前後か...)

 年代を確認しながら、フィーロは日誌を開く。


 だが、そこで思わず眉を顰めた。

「ない...」

 本来なら続いていた筈の日誌が、ある一定の期間、ぽっかりと抜け落ちていた。

 書いた跡がある、というよりその一定のページだけが破かれて消えている。


「どうなってるんだ...」

 近くの棚にある本を開いて項を捜すが、何処にも見当たらない。


 そんな時、ランスがフィーロの方に一冊の本を持って近付いてきた。

「フィーロ、ここ見ろ。多分マティアスの恋人の名前が記されていたらしい部分、なんでか黒く塗り潰されてるぜ」

「は?」


 ランスが見せてきたのは伝承を研究したものらしい文献のある一行だった。そこには確かに黒くインクで塗りつぶしたような痕跡がある。それは更に先の項まで続いていた。


「なんでこんなことを...」

「墨の乾き具合の匂いから随分前にやられたみたいだけど、なんで塗り潰す必要があったんだ?」


 ランスの疑問にはフィーロも同意見だった。

 マティアスが生き返らせようとした恋人。彼女は一体何者だったのか。

「まさか...北の王の娘がマティアスの恋人ってことは無いですよね...」

 破かれた日誌の項、塗り潰された行。


 推測でしかないが、エマがマティアスに関わっているなら、教会が何らかの要因で隠したかった事があるかもしれない。

 ヴァンパイア王の娘と街に伝わる悲劇の伝承の主人公。


「これは、本部に協力を仰ぐ必要が出てきましたね...」

 小さく吐息を零しフィーロは、今夜の調べ物を中断することにした。

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