ー第一章~新月に舞う天使は紅く輝いて~


 月の出ることのない真夜中の闇。

 東の国では〝丑三つ時〟として、人ならざる者達が徘徊する時間。


 人々が寝静まった町の石畳の階段を、踵を鳴らして走る影が二つ。

 一人は闇の色に映える白のフード付きローブを纏った、十五、十六歳程の若者。もう一人は、人ではなく、全身を艶やかな黒い毛で覆った四足歩行の狼。

 二人は何かを追いかけているのか、真っ直ぐに迷うことなく、町の中を走り抜ける。


「ランス、二手に分かれましょう」


 フードを被った若者¦フィーロ・フィロフェロイ・ストラウスは、スッと、手を前に出す。行く手には二股に分かれた道がある。片側をフィーロは素早く指差して指示を出した。


 フィーロの声に頷きランスと呼ばれた狼はフィーロが指差した方向へ駆けて行った。


 それを見届けたフィーロは地面を強く蹴って宙へと跳ね上がった。重力に逆らって身体を空へと跳ばしたフィーロはこの辺りで一番高い建物へ静かに着地した。


 夏の盛りだというのに夜の空気はヒヤリと肌を刺すように冷たい。

 ローブの裾をはためかせフィーロは眼下に広がる地上を見下ろした。


(はぁ…やれやれ、どうしてこんな世の中になっても犯罪ってなくならないんですかね…)

 気だるげに内心で溜息をついたフィーロは、肩を竦めた。


(まぁ、早く終わらせればいいか。〝闇の住人〟といえど、僕の眼は誤魔化せないんですから)


 ニヤリと、口元に不敵な笑みを零しながらフィーロは被っていたフードを両手で下した。 フードの下から現れたのは、月のない新月の夜に突如月が現れたかと錯覚しそうな程の銀白色。冬の夜空に輝く月を思わせるそれは、彼の髪の色。肩口で切り揃えられた髪は夜風に揺れて、はためいた。


 暗黒の夜に沈む町並みを眺める瞳は左右で異なっていた。前髪で少し隠れたようになっている左眼は獣のような琥珀色。右は澄んだ水面を連想させる瑠璃色。


(いた…)


 左右で違う双眸を動かしてフィーロは夜の暗がりの中に標的を捉えた。石畳を走り抜けるのは黒いマントを纏う人影。その斜め後ろからは、先程己が指示を出した狼が、ピタリと張り付くようにして人影を追っていた。


 その光景を見届けたフィーロは、クスリ、と笑みを浮かべると、コートのポケットから紅い液体の入った小瓶を取出してコルク栓を抜いた。


(さて、僕も行きますか…待っててくださいね、ランス)

 暗闇の中、標的との戦闘を開始した狼への励ましの言葉を胸中で呟き、フィーロは小瓶の中の液体を呷った。


  ドクンっ。

 フィーロが液体を体内へ流し込んだ途端、変化は唐突に訪れた。体温が急激に上がり、早く鼓動を刻み始めて心臓が力強く脈打ち、全身に血液を巡らせていく。

「くっ…」

 呼吸が荒くなる中でフィーロは左腕をきつく押さえて左眼を閉じた。

 熱はいつしか背中と、押さえた左腕へと集中し。


 ピキっ…ブチっ。

 鈍い何かが千切れるような音がしたかと思うと、フィーロの背中から突如として血のように紅い翼が生える。それと同時に、銀髪だったフィーロの髪と左右で異なる瞳の色も翼と同じ真紅へと染まった。

「ふう…はぁ…」

 今だズキズキと痛む左腕を抑えて呼吸を整経ると、フィーロは夜の闇へ音もなく舞い降りた。




 本来、この時間は自分達のモノの筈だ。

 だのに、今宵は違う。

 “闇の住人”、“魔族”として人間達から恐れられる自分が今、こうして追われている。

 何故?

 自分はただいつものように人間を襲い、食餌をしていただけだ。

 ヴァンパイアの世間ではなんらおかしくない話なのに。


「そこを動くんじゃねえぞ」

 突如として正面に現れた黒い狼に行く手を塞がれ、走っていた男は咄嗟に足を止めた。


「もう逃げられねぞ」

「貴様っ、人狼のくせに人間に味方するのか⁉」

 羽織っている黒に赤地のコートを捌き、男は目の前の狼を睨み付けた。

 そんな男を見据え、狼は長い鼻を鳴らして。

「“人狼”なんてもんで俺を片付けるなよ。俺は“聖なる獣”だぜ」


 表情など獣である者にはない筈なのに、男には目前の狼が笑ったように見えた。

 “聖なる獣”

 その単語に男は背筋が凍りつくのを感じた。


「ま、まさか…貴様はライカンスロープかっ」

 男が苦し紛れに吐いた一言に、狼は頷く様に身を縮めた。


「魔族でありながら同族に牙を剥き、“神に愛された魔族”に付き従う人狼…滅びたのではなかったのか」


「へえ~よく知ってるじゃねえか。あんたのいう通りだ。残念ながら滅びてはいないけどな」

 ニヤリと口許を歪ませ狼は静かな瑠璃色の双眸を細めた。


「あんたには神の審判が下った。もうすぐうちのマスターが裁きにくるぜ。覚悟しな」

「マスターだと…ではあの小僧はまさか…」

 狼の言葉に怯み、男が一歩後退りながら何事かを呟いた時。

 バサア、と大型の鳥が翼を羽ばたかせたような夜気を切り裂く羽音が頭上から降り注いだ。


 男の目の前に現れたのは、白いフードのついたローブを纏う紅い翼を生やした天使。否、その男には悪魔か死神に見えていたかもしれない。


「ランス、ご苦労様。遅くなってすみませんでした」

 地上へ降り立つなりフィーロは、追跡を続けてくれたランスへ労いの言葉を掛ける。

「俺が代わりに捕まえて手柄にしても良かったんだぞ」

「またまた。冗談でしょう」


 低音だが性別の分からない何処か澄んだ独特の声が夜風となって男の幻聴のように耳に届く。目の前で繰り広げられる主人と従者の他愛もない会話が男には裁きを決める裁判官の会議に聞こえた。


 一通りランスとの会話を終えたフィーロはゆっくりと顔を上げて目の前の男を、焔の如き紅い瞳で捉えた。


「お待たせしました。もう逃げられませんよ、ヴァンパイアさん」


 にっこりと人の良さそうな笑みを浮かべてフィーロは目の前の男…魔族の上位種にして、魔族達の纏め役である種族“ヴァンパイア”を見据えた。

 右手を上げてフィーロは促すように優しく諭す。


「さあ、大人しく自首して下さい。そうすれば、命までは獲りませんし、教会に弁護してあげますよ。貴方だって、教会に味方している同族から裁かれたくはないでしょう?」

 手を伸ばし自分が敵ではないことを示しながら、フィーロは穏やかな視線を向けつつ、ゆっくりと男に歩み寄る。


「さあ…」

 諭すような言葉に、男は狼狽えながら男は吠えるように吐き捨てた。

「魔族でありながら夜の女神に愛され、かつての同族の血肉を喰らう裏切者共に誰が従うかっ私は誇り高きヴァンパイア。魔族の頂点にいる上位種だぞっ」


 吐き捨てるなり男はフィーロに向かって駆けだす。鋭利な刃のように伸ばした爪を男はナイフのように構えた。


「フィーロっ」

 主の危機にランスはフィーロの名前を盛んで走り出そうとする。

「大丈夫…」


 加勢に入ろうとするランスを制してフィーロは小さく息を吐いた。

 フィーロの動きを隙とみて男はフィーロの胸元目がけて爪を繰り出した。


 ザシュ。肉の切れるような鈍い音が辺りに響き渡る。

 やった。と、そう男が安堵したのも束の間。

「なっ」

 男の胸と右腕に激痛が走った。


 己の胸に寄りかかるようにしているフィーロと自分との間に、男は恐る恐る目線を落とした。


 目の前の者の胸に突き刺した筈の腕は石畳の上に転がり、己の胸に腕が突き刺さっている。それは、フィーロの左腕だった。


「なん…だと…」

 狼狽える男の耳元で、囁くようなアルト声が聞こえた。

「哀れな闇の住人に、夜の女神の祝福があらんことを…」

 そう囁き終えると、フィーロは背伸びをして男の首筋に鋭い牙を突き立てた。

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