エピローグ

ステージ

 ゼムナ革命から三年経った進宙歴514年のこと。


 ホールには続々と人が集まりつつある。控室から覗く彼女は、大変だったレッスンの日々に自信をみなぎらせながらも、それが必ずしも成功に繋がるわけではないという不安も抱えていた。


 動員状況は極めて好調。それもそのはず、確かに彼女にとってデビューリサイタルではあるものの、世界的声楽家オネスト・ヘルマンの秘蔵っ子という看板に支えられている。

 更に師であるヘルマン本人が前座として一曲披露するとなればチケットが売れないはずがない。観客は期待に胸膨らませて参集しつつあるのだろう。


「大丈夫ー?」

 控室を覗き込んできた師のマネージャーが問い掛けてくる。顔色に表れてしまっているのだろうか?

「問題ないです。ちょっと緊張してるけど、いつも通りのパフォーマンスはできますから」

「鍛えられたものね。傍で見てたわたしは信じてるから」


 今日は彼女、イヴォン・マストラタの今までの生涯で一番大事な日なのだ。失敗などしていられない。親友との約束のためにも。


「それでも緊張しちゃうわよね? 仕方ない。お姉さんがいいもの見せてあげる」

 マネージャーは携帯端末を取りだす。

「噂になってるこれ、知ってる?」

「噂?」

「うんうん、題名は『子守歌』なんだけど、巷では『どんな赤ちゃんでも泣きやむ動画』って呼ばれてるのよ」

 そう言って彼女は投映パネルを回転させた。


 カメラは見渡す限りの草原を捉えている。そこに微かな鼻歌が聞こえ始めた。

 画面が横に振られると画角に一人の女性の後姿。黒髪が背中まで流され、ゆったりと身体を揺らしている。背中から両肘が垣間見え、胸元に赤ん坊を抱えているのだと分かった。


 拾っているのは吹き過ぎる爽やかな風の音と単なる鼻歌だけ。それなのにイヴォンは溢れる涙を止められなかった。

 その鼻歌には深い幸福と慈愛の情感がこれでもかというほど込められている。『どんな赤ちゃんでも泣きやむ動画』なのは当然だろう。この鼻歌に何も感じない赤ん坊などいないと思った。


「あ、あれ、失敗しちゃった? わたしも初めてこれ観た時は涙でぐちょぐちょになっちゃったもの」

 確かに失敗だ。しかし、大手柄でもある。

「生きてた……。なんて幸せそう。あなたはあの人を捕まえたのね」

「どうしたの? あー、メイクし直さないと。歌えそう? なんだったら開演時間を少し融通してもらう?」

「いえ、とんでもない……。見ていてください。今日のステージは私史上最高のものになりますから」

 親友の元に届けるために。



 イヴォンのデビューリサイタルは観客はもちろん、評論家全員を唸らせるほどの出来であった。彼女は勇躍スターへの道を駆けのぼる。

 普段は男装の麗人っぽいイヴォンは男性だけでなく女性の心も奪い、一躍人類圏にその名を馳せた。普通のタレントでは勝負にならないほどの歌唱力を背景に、様々なジャンルを歌いこなしてトップに立つ。


 どんな田舎でも彼女の名を知らぬ者などいないほどに。


   ◇      ◇      ◇


 進宙歴515年の開拓惑星ベッフェルベリ。


 ダントンは畑へと汎用耕作機マルチキャリブレイターを転がしていた。タイヤが土を食む音を聞いていたが、しばらくすると向かい側より鼻歌が聞こえてくる。

 それは今やこんな田舎町の人間でも一度は耳にしたことのある曲。イヴォン・マストラタの『親友へ』だ。


「ご機嫌だね、ニーチェちゃん」

「おー、ダントンさんだし」


 燃料電池スクーターに乗ってやってきた黒髪に赤い瞳の女はニーチェ・ユング。四年前にどこからか流れてきた若夫婦の嫁のほうである。


「見てもらってからのこいつの調子は最高だべ。旦那さんに礼を言っといてくれ」

「はーい。でも、パパは何でもできる人だから気にしなくていいし」

 口調は変わっているが気立ての良い嫁である。

「まだ若いんだからパパって呼ぶのもなんだなぁ」

「あははー、慣れちゃってるもん」

「で、あの色男の旦那は?」

 夫のほうは銀灰色の髪の目の覚めるような美男子。

息子ハイノを連れて山に行ってるー。頼まれたし」

「あー、間伐の頃合いかぁ。そりゃ旦那の出番だよな」

「でしょ?」


 二人は元傭兵だったと聞いている。夫は見慣れない暗灰色の戦闘用アームドスキンを所有し、頼まれれば多種多様な作業へと協力している。快く請け、見返りをほとんど受け取らない彼を皆が頼りにしていた。


「旦那はまるで手足みたいにあんなでかいもんを操るからなぁ」

 街外れに一軒家を構えた夫婦は二人してアームドスキン乗り。ニーチェもσシグマ・ルーンを着けっ放しにしている。

「もしかしたら自分の手足を動かすより器用かもだし」

「あながち冗談でもないべさ」

 二人してひと笑い。


 ニーチェも操縦して作業することもあるし、何より酒盛りの時に引っ張りだこ。彼女は驚くほど歌が上手い。そんな二人なので、街の者はすぐに受け入れた。


「あ、買い物の途中だったし」

「呼び止めてすまんかったの」

「ううん、行くよ、ルーゴ」


 道端の草の匂いを嗅いでいたサバトラブチの猫が「にゃーん」と返事してシートの後ろへと飛び乗る。またダントンの耳にはタイヤの立てる音が響く。


 そこへ混じる陽気な鼻歌が少しずつ遠ざかっていった。



 〈完〉

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