紅の歌姫(4)
「調べさせましてよ」
ユリーヤの今日の武器はそれらしい。
「養父の名はジェイル・ユング。こちらの界隈ではちょっと有名な捜査官」
「有名? どんな男ですの?」
取り巻きの一人がわざとらしく訊く。
「社会のルールを理解しない間抜けな男というのが正解かしら。だって平気でライナックに歯向かってくるそうだもの」
「確かに愚か者ですのね」
父親の事まで持ち出されればニーチェも顔色を変える。適当にあしらっていた姿勢はどこかに消え、瞳に剣呑な色が浮かび始めていた。
「そちらの方々もお家の事を考えて友人を選ばなくてはなりませんわね。巻き込まれて破滅など洒落にもならないのではありませんか?」
ライナックの娘は鼻をそびやかす。
「安い挑発だね。ジェイルさんの事は私たちも知ってる。立派な方よ」
「立派な方? まさか冗談でしょう? だって年若いうちから少女を引き取って養育しようという方ですのよ。何の手ほどきをなさっているのでしょう。ああ、汚らわしい」
「嫌ですわ、ユリーヤ様」
彼女らは嘲りの笑いに包まれる。
「あんたら……」
「手を出したら駄目だよ、ニーチェ。こんな連中に」
内なる熱量が高まってきた。握った拳が震える。それなのにユリーヤたちは気付きもせず嘲笑を浴びせかけてくる。
「そのような不届き者、ユリーヤ様がライナックの正義で討ち滅ぼしてくださいますでしょう?」
言い返さないのをいい事に、取り巻きは笠に着る。
「名案ですわね。まあ、わたくしが騒がなくともそんな社会の害悪、いずれ本家の方に処分されてしまうのでご安心なさって」
「はい、ライナックは人類社会の守護者ですもの」
(殺しても許されるんじゃないかって思うくらい憎らしい奴っているもんだし)
背筋がピリピリと痺れる。ニーチェの中で新しい何かが目覚めそうな感じがしてならない。
「おやめなさい、あなたたち」
凛とした声音が空気を裂く。
「何をしているの? この歴史ある音楽の学び舎で諍い事など起こしてはなりませんよ」
「え? プリシラ様……、そんな諍い事など」
「言い訳は結構。私を誰と思って?」
ユリーヤは瞳を逸らす。
「正統なる血を受け継ぎしお方です」
「その意味を理解しているわね?」
「はい……」
完全に委縮している。
それもその筈、乱入してきた女性は上級生の四回生。深い茶色の長い髪を腰まで垂らし、薄い茶色の瞳で眼光鋭く窘めてきたのはライナック本家の娘である。
名前はプリシラ・ライナック。彼女の事はニーチェも知っている。過去の発表会の映像で見た上位入賞者の一人。透明感のある声で旋律を響かせていた歌い手。
「ですけど、このような者を野放しにしていては示しがつきませんわ」
ユリーヤは言い募る。
「プリシラ様も名前はご存じでしょう? あのジェイル・ユングの娘でしてよ」
「大人の事情は持ち込まないで。ここは芸術に励む若人の場所です」
「でも……!」
プリシラは手を振って言を断ち切る。
「悩ませないでと言っているの。私が自由でいられるのはもう半年と少し。その間くらい平穏な学校生活を送りたいと望むのは我儘なのかしら?」
「申し訳ございません」
「理解してくれたのなら、もう外してくださらない?」
促されたユリーヤたちは立ち去っていく。何もかも丸く収まったとは思えないが、当面の激突は避けられたようだ。
ただ、残ったプリシラは今度はニーチェに目を向ける。どうやら彼女から見れば同罪であるらしい。
「あなたも自制なさい」
窘めてくる。
「努力はするし。限度ってものがあるけど」
「そうね……」
プリシラは溜息を一つ。
「それと、お父様にも自重なさるよう忠言して差し上げて」
「先輩もそんな事言っちゃうわけ?」
「前言をひるがえすのは申し訳ないわ。でも、危うげな空気になっているのも事実なの。下からの突き上げだけじゃなくって、本家でも内圧が高まってきている感じがしているのよ」
揺れる瞳は、言わざるべきかという内心の迷いを表している。
「窘める相手を間違ってるし」
「言わないで。私でも本家では末端の一人。あまり発言力はないし、卒業すれば宗主様の道具の一つになってしまうの」
自由な時間云々の台詞はそういう意味らしい。おそらく彼女は卒業後、政略的もしくは戦略的な役割を担わされる立場なのだろう。
「ここは先輩の顔を立ててあげない、ニーチェ?」
「仕方ないし」
ニーチェの中にも多少は憐れみに近い思いがあって矛を収めた。
◇ ◇ ◇
(あの娘は何者?)
プリシラは戦慄している。
(無縁な筈の場所で、あんな戦気を感じたら黙ってなんていられないわ)
それに彼女は反応したのだ。
プリシラは本家でも主流近くの人間。幸いな事に、それほど強くはないながらも
しかし、今はまだ小娘の一人でしかない。ライナックの在り様を問いたい思いはあれど時期尚早である。かのジェイルの娘に問い詰められても抗弁はできなかった。
(好きな歌に没頭していられるあなたが羨ましい。だからつまらない事に足を取られていないで羽ばたいていきなさい)
プリシラは本心からそう思っていた。
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