父と娘(3)

 その日に取っていた授業の終わったニーチェは、予約していた防音室に入って友人のイヴォンとイザドラとともに歌っていた。といっても、歌っているのは授業でやるような伝統楽曲ではなく、流行りのポップな楽曲ばかり。彼女の通うホアジェン音楽学校は授業料が高いだけあって生徒の自由度と設備の充実は折り紙付きである。


「ほんっとニーチェの喉ってタフだよねー。授業であれだけ高音出し続けたのに、まだそんなに歌えるとかおかしいんじゃない?」

 歯に衣着せぬイヴォン。

「声量も羨ましいほどだしねぇ」

「そう? あたし、子供の頃とか大声張り上げるとかくらいしかストレス発散の手段がなかったからかもしれないし」

「筋金入りなわけね」

 親しい友人には彼女の生い立ちは伝えてある。


 とかくストレスの多い幼年期を過ごしていた。

 児童育成施設ではニーチェが両親を失った経緯が知れ渡っており、それが蔑視の原因になる。子供でもライナックと悶着を起こすのは得策ではないのが常識であるだけに彼女を疎外の対象にしたり、いじめたりするのが横行する。

 施設から通っていたチャイルドエイジスクールでも似たような状況。更に彼女の容姿がそれを助長したのだった。


 ニーチェ・オクトラスレインは赤銅色の強い肌に黒髪の少女。その黒髪が陽光を浴びると濃い藍色を帯びる。濡れたかのように艶やかな髪は密かに自慢だった。

 ただし、ほとんどの人が注目するのはその瞳の色。紫と呼ぶには赤の強い色が正確なところだろう。光の当たり方によっては真っ赤に見える。非常に珍しいその色が不気味だと言われていじめられることが少なくなかった。

 勝気な少女は大人しくいじめの対象になることはなかったものの、相手が歳上で多数となれば勝ち目はない。一方的な暴力にさらされたことも数えきれない。そんな時は広い場所で一人大声を上げるのも日常であった。


「ま、パパに引き取られてからは馬鹿ないじめも収まっていったし」

 親が捜査官では学校側も配慮せざるを得ない。

「教師たちだけじゃなくって、親のほうもビビったんじゃない?」

「うちの親ならすぐ止めちゃう」

「あたしも平気でやり返していたからってのもあるし。その度に叱られてたけど」

 叱る時のジェイルは怖かった。

「ホアジェンに来てからは何の波風も無いから物足りないし。ここはお坊ちゃんお嬢ちゃんばかり」

「当たり前よ。それなりの地位の親なんて大切なのはまず体面なんだから、子供が問題なんか起こそうもんなら社交界でねちねちと責められたりとか」

「大人の世界も陰湿だよね」

 上流は上流で苦労が多いらしい。

「あー、パパもちょっと変わり者だから色々あるみたい。危険な仕事なだけ高給取りだけど出世は無理かな? 元々そんな人だし」

「おっと、またニーチェのパパ自慢が始まっちゃいそう」

 笑いが爆発する。三人寄れば姦しい。


 彼女がジェイルの家に来てすぐ全てが上手くいったわけではない。ニーチェも最初は反発する思いが無くはなかった。あまり恩着せがましいことを言われれば飛び出す覚悟があったほど。


 あれは一緒に生活するようになって二週間ほどだっただろうか。いつものように歳上に取り囲まれて暴言を浴びせかけられる。苛立ったニーチェは一人に拳骨を向け、お互いが怪我を負うような喧嘩になってしまった。

 その報告はジェイルのところまで届いたようで、帰ってきた彼に事情を聞かれる。彼女のほうから手を出したと分かると叱られ、そして頬を打たれた。


「分かったし。あたしのほうから手を出せば悪いのはこっちになるからあんたの体面に傷が付くもんね」

 当時の彼女は養父の思い通りにならないよう優位に立ちたい思いがあって、それが言葉になって溢れ出す。

「それはいいんだけど、分かってる? あたしが訴え出ればあんたを家庭内暴力の犯罪者にすることだってできるし」

「君の言う通りだ」

「今どき、こんなの流行らないって憶えておいたほうがいいんじゃない?」

 ニーチェは赤くなった頬を押さえて薄笑いを見せる。

「それでも君が悪いと判断すれば何度でも頬を打つだろう」

「え?」

「君を善悪の区別のつかない大人に育ててしまうくらいなら、僕は喜んで犯罪者になる。それが親の責任というものなのだからね」

 彼女はその言葉に打ちひしがれた。


(ああ、この人は自分のことなんて後回しなんだ。こんなにあたしを思ってくれる人なんている? もしかしたら血の繋がった親より親らしいし)

 ニーチェは彼の胸に飛び込むと声が枯れるまで泣いた。何度も何度も謝った。


 それ以来というものジェイルを「パパ」と呼ぶようになり、全幅の信頼を傾けるようになったのである。


「これまでの人生の中で一番泣いたし。あの時のパパは最高に格好良かったし」

 話し終えたニーチェはうっとりとしている。

「それ、もう飽きた」

「これで何度目だろうねー」

「いいの! パパの素晴らしさはどれだけ言葉を尽くしても語り足りないし」

 二人は諦めの面持ちで苦笑いしている。

「あー、はいはい」

「ニーチェのパパ愛は宇宙の彼方まで届くんだよねー」

「うん、絶対に誰にも負けないくらい愛してるし」


 何だかんだと言いつつもそれぞれの恋バナに花を咲かせる三人だった。

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