第15話 流浪の姫
扉の中では、先ほどの油売りの少女と男が、ぼーっと、壁画を眺めていました。
「高台に細工したのは、あなたたちですね」
シュンメイは二人に叫びました。
その声が、大聖堂中に響き渡ります。
男は身じろぎして、あわてて少女をかばうように身を乗り出しましたが、シュンメイが一人なのを見て取ると、今度は鬼のような形相でにらみつけてきました。
「親衛隊はイルカン族の偽情報を流して追い払った。残った連中もうまくだましたと思ったが……絵描きの分際で、なぜ気づいた」
男の声には殺気がこもっています。シュンメイは大きく息を吸いなおしました。
「絵描きだからです。あなたの爪にこびりついている絵具は、そんじょそこらで手に入るものではありません。アズライトといって、わざわざ極東から仕入れたものなのです」
男の爪の間には、わずかに青い顔料がこびりついています。
それは、高台が細工された日になくなっていた青い絵具でした。
「それに私は、一度描いた人間の顔は忘れません。お久しぶりです、梁姫様。もっとも姫様は、肖像画を描いた絵描きの顔など、とうにお忘れだと思いますが。」
油売りに身をやつしていた少女は、西夏国の梁姫でした。
梁姫はシュンメイには一瞥もくれず、ただ、絵を眺めています。
無言の姫のかわりに、男が答えました。
「そういえば、以前、我が国にキタイ一とかいう絵描きがきたことがあったな。姫のお顔を知るものであれば、生かしてはおけぬ」
シュンメイは、なおも梁姫に問いかけます。
「梁姫様! どうしてあなたが、イリ殿下の成人の儀の邪魔をなさるのです」
「この壁画を、焼いてしまおうと思いました」
しばしの沈黙の後、姫は、誰に言うともなく口を開きました。
「せめて、私のことを思い出していただけるように。……でも、できませんね。これを見てしまうと」
梁姫は、あの日と同じ憂いの深い表情で、ただじっと壁画を見つめています。
その視線の先には、宮中に上がる姫君の行列がありました。
シュンメイは、姫の気持ちを思うと胸がいっぱいになりました。自らの国を失い、流浪の身であった姫が、一体どのようなつもりでセフィド・キタイを訪れたのか。かつての婚約者である王子の成人の儀が開かれると聞いてどんな思いだったか。
「イリ殿下の下へ嫁がれる梁姫様のお姿を念じて描きました。姫様に、この絵を傷つけることなどできますまい。イリ殿下は今もなお、梁姫様の行方を案じておられます。どうか、私と一緒に殿下の下へ」
シュンメイの言葉を、油売りの男がさえぎりました。この男も、もちろん油売りなどではなく、西夏国の残党なのでしょう。
「うるさい、いまさら王子の何を信用できるか! 絵は傷つけずとも良い。姫、うまい作戦を思いつきましたぞ」
男は、手にした剣の柄で大きな油壺をひとつ叩き割りました。
壺の中からでてきたは、スーリでした。声ひとつ立てず、どうやら気を失っているようです。
「聞くところによると、この娘の素性は誰も知らんらしいな。そこでだ。この娘には、ここらで退場していただく。幸い姫と娘は背格好も同じ。成人の儀で作者の正体があかされ、元婚約者の梁姫が描き上げた壁画だとわかれば、王子もさぞお喜びになるだろう。そして、壁画を描いたものには望みどおりの褒美が与えられる約束」
そう言うと、男は舌なめずりをしました。
「さあて姫、どうしましょう? 西夏国の再興を願うもよし。婚約の履行を願うもよし」
「紀将軍、お前に任せます」
将軍と呼ばれた男は剣の鞘を抜き、光る刃を少女の首元に押し当てました。
「やめろ」
「案ずるな、つぎはお前の番だ」
「これを見ろ!」
シュンメイは、黒く光る鉄製の筒を取り出しました。
「これは、鉄砲という。わが国の秘密兵器だ。あんたも将軍なら、名前くらい聞いたことがあるだろう。あんたが剣を振るうより早く、この鉄砲は姫様の胸を貫くぞ!」
紀将軍の額から、汗が滴り落ちました。
「姫、ご安心を。ハッタリですぞ。鉄砲は、キタイ軍では門外不出とされています。絵描き風情に扱わせるはずがありません」
シュンメイの声は低く、冷静でした。
「残念ながら、私は王子の家庭教師でね。王子の身を守るために、鉄砲の使用が許可されているのさ」
二人の間に緊張した空気が張り詰めました。
紀将軍の剣はスーリの首に突きつけられ、シュンメイのかまえた鉄砲はまっすぐ梁姫の胸に狙いをつけられています。
その緊張を破ったのは、梁姫でした。
「そんなに素晴らしい兵器を持ちながら、なぜにイリ様はわが国を救ってはくれなかったのでしょうか」
美しい両の瞳から一筋の涙がこぼれました。
「もうよい。わらわは疲れました。当初の予定通り、ここに火を放ち、自害します。紀将軍」
「お供します。どこまでも。……絵描き、娘を返す。銃をおろせ」
将軍は、気絶したままのスーリを突き飛ばしました。
シュンメイがあわてて受け止めます。
その拍子にシュンメイの手から鉄砲が落ち、ボコンという乾いた音をたてました。
それは、明らかに鉄ではなく、木の音でした。
紀将軍が目を凝らすと、シュンメイの手は塗ったばかりの黒い絵具で薄汚れています。
将軍は、声を上げて笑いました。
「さすがは、キタイ一の絵描き。木で出来た鉄砲とは。よくぞ、この俺をたばかった」
将軍は残った樽を叩き割ると、こぼれる油に火をつけました。
高々と火の手が上がり、高台を侵していきます。
黒々とした煙が聖堂内に立ち込め、姫と将軍の姿はあっという間に見えなくなってしまいました。
シュンメイは、スーリを両の腕に抱えて大聖堂の外に連れ出しました。
しかし、このままではせっかくの壁画がダメになってしまいます。
(火を消さなければ!)
シュンメイは聖堂の中に戻ろうとしましたが、煙を吸い込んだせいか咳が止まりません。助けを呼ぼうにも声すら出ませんでした。
(折角の壁画が、イリ殿下の、スーリの、みんなの!)
その時でした。
「よくぞ、がんばられた。あとは我輩たちに任されよ。」
この三ヶ月、嫌というほど聞き慣れた声でした。
「皆のもの、龍一門の力の見せ所ぞ!」
龍壮言とその弟子たちが一斉に駆けつけると、一糸乱れぬ連携で火を消しにかかります。
水を運ぶもの、それをかけるもの、燃え移りそうなものをかたづけるもの。
無駄のないその流れを見ながら、シュンメイは思いました。
「これは、まるで竜だ」
シュンメイの膝の上にはスーリがいました。やはり、煙を吸ってしまったのでしょう。
「ごほっ、ごほっ」
少女が大きく咳き込むと、顔を覆っていた仮面が外れて落ちました。
シュンメイは、あらわれた少女の素顔をまじまじと見て、自分が今まで気づかなかった重大な事実に気がつきました。
そして、膝の上の少女を強く抱きかかえると、最後の力を振り絞って医師の元へと駆け出したのでした。
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