第10話 少女絵師の正体
少女が目を覚ましたのはそれから丸一日たってからでした。
そのときには、シュンメイ、龍壮言とその弟子たちが、すっかりと絵を描き始める準備をしていました。
スーリはまだ立ち上がれるほどには回復していませんでしたので、弟子たちが輿に乗せて移動をし、皆に色の指定や細かい指示をして回りました.少女の指示は的確で、シュンメイにはお城や市などの細かい図柄を、龍には海や山などの豪快な部分を担当させました。
壁画に使う漆喰は、乾かないうちに色を塗り上げてしまわなければ、もう絵具を受け付けなくなってしまいます。まず弟子たちが昼間にその日に描ける部分の漆喰を塗り、夜になって名人二人が色を塗っていきます。昼夜を分けることで、作業の効率が格段にアップしました。弟子たちは、手伝いをしながら、二人の描きだす豊国図に驚嘆の声がとまりませんでした。
なかでも、王宮に参内する華やかで長い行列は金銀をちりばめた極彩色で、シュンメイの緻筆により、百人を超える人間の表情までが細やかに描かれています。
スーリいわく、これは王子が将来迎える姫君の行列で、中央の輿の中には世にも美しい姫君がいるのでした。
「美人画はシュンメイ先生のお得意ですから、お顔を描かせて差し上げられなくて残念ですが、姫の姿が見えるのはしきたりとしては変ですからね」
こうして、壁画は着々と完成に向かいました。
スーリの体調も徐々に回復し、シュンメイ達と一緒に筆が取れるようになっていました。
「スーリさん。作業もだいぶ軌道に乗りました。このあたりで一度、お医者さんに診てもらってはいかがですか?」
シュンメイがすすめると、少女は仮面の下で大きくかぶりをふりました。
作業の間も、スーリはひと時も仮面をはずすことはありませんでした。それについては、シュンメイも龍壮言もスーリに問いただすことはしないつもりでした。
「事情はおありでしょうが、腕がよく口の堅い医師を紹介できますよ。絵描きは体が資本ですから」
「いえ、特に事情というわけではありませんが、でも本当に大丈夫なのです。それに、私が見張っていないと龍壮言先生が」
その頃のスーリの悩みといえば、壮言がひっきりなしに、壁画のここに竜をいれてはどうか、とかあそこに竜を描いてやろうかなどと言ってくることでした。それどころか、少女の目を盗んであちこちに竜の絵を描き込もうとするのです。
「龍先生、今、何か描きましたね!」
「えっ、いや、なんのことかな」
「そこをどいてください。あ、もう、やっぱり!」
スーリは、仮面から出た耳までを真っ赤にして怒りました。そして、頑として竜を入れさせませんでしたが、医者にも行こうとしませんでした。
その理由をスーリは、自分がいないと龍壮言が何をするかわからないからだと言い訳しました。そのわりに、彼女は時折作業場から抜け出していなくなることがありました。
心配してスーリを捜そうとするシュンメイを、壮言は諭しました。
「ちいさくても女の子じゃ、わしらのようなおっさん達と始終一緒というわけにはいくまい。それにあの仮面だ。顔を隠すのには何か事情はあるのじゃろうが、たまには外してのんびりしたいだろう」
「わしらおっさんって、それに私も含まれているのですか?」
おっさんの仲間にされて憤るシュンメイを見て、壮言は笑いました。
「なんじゃシュンメイ殿、あの子が気になるのか? 惚れたか?」
壮言の言葉は、シュンメイの意表をつきました。あせった青年絵師は、年上の老絵師につい心のうちにあった疑問を口にしました。
「そんな、あの子は、スーリは、まだ子供じゃないですか。……ただちょっと、どこか、知っている人のような気がするのです」
「誰だ? ここにいる連中なら心配要らぬ。口は堅いし、おぬしやスーリのためにならぬことはせん」
それでも、シュンメイは声をひそめました。
「私の他に、この国には絵の描けるものがもう一人います。私の弟子で、この国の王子です」
壮言は、からからと笑いました。
「はっはっはっ、それは面白い話じゃ。王子が少女に化けて、絵を描くというのか? おぬしからそんな面白い発想が出るとは、意外や意外。本当なら実に面白いが、残念ながらそりゃはずれじゃ」
「なぜです? 壮言先生は殿下をご存じないでしょう」
「あの日じゃ。スーリがはしごから落ちた日。わしゃあの子を助けただろう」
「はい」
「まあ、あのときの感触じゃな。あの子は間違いなく女子じゃ。むひひ、こればっかりは間違えんよ」
老絵師は、その時の感触を思い出したのか、両手をおわん形にかたどってニヤケ顔になりました。
しかしシュンメイと、いつもなら何を言っても敬意を崩さない弟子たちの冷ややかな視線に、咳払いをひとつして続けます。
「オホン。あの子がいったい何者か? 我輩には、当たりがついておるのじゃ」
「昨夜、こんなことがあってな。弟子が夜食に饅頭を買ってきて、みんなに配った。饅頭はこのキタイでもあちこちの屋台でよく売られているようじゃが、もとは我が祖国の食べ物じゃ。皆懐かしく思って、喜んで食べておった」
すると、スーリがこう言ったというのだ。
『これ、おいしいですね。なんて食べ物ですか?』
「饅頭を知らんやつなんか、聞いたことない。スーリは、おそらくこの辺りではないもっと西方の国の人間か、でなければ饅頭を知らないくらい高貴な身分、つまりどこかの国の王族ってことになる。そこで我輩は考えた。去年、キタイの隣の西夏国がイルカン族に滅ぼされただろう。あそこの梁姫は、形だけとは言えイリ王子の許婚だったと聞いている。王子を頼ってこの国にやってきても、不思議ではないじゃろ」
(そういえば)
三年ほど前のことです。
シュンメイは、梁姫の肖像画を描きに西夏国の宮殿を訪れていました。
その肖像画は婚約の証としてイリ王子の元に送られるためのもので、後にシュンメイはイリ王子の部屋に飾られた過去の自作と対面することになります。もっともイリ王子はその肖像に描かれた梁姫の美しさよりも、シュンメイの絵の技術の方に心を惹かれていた様子でしたが……
「西夏国の梁姫には、お会いしたことがあります。なんというか、儚げな方でした。いつも憂い顔で」
この時代、キタイ同様ほとんどの国で、王族と直接顔を合わせることのできるのは貴族や重臣にかぎられていました。お嫁入り前の姫君であればなおさらです。
しかしもちろん、肖像画を描く絵師には顔を見せなければ話になりません。
シュンメイにあたえられた時間はほんの数時間でした。
シュンメイは梁姫に言いました。
「姫、申し訳ありませんが、できれば姫君の笑顔をお願いしたく存じます。姫君のご結婚相手であられるわが国のイリ殿下も、姫君の笑顔の肖像をお望みでしょう」
「イリ様には、一度お会いしただけです。それも五歳のとき」
「はあ」(姫は、殿下との結婚をお望みでないのか?)
「供のものにかくれて宮殿の噴水で水浴びをしました。とても楽しかった。そのときから、私の夫となる男性はイリ様しかいないと心に決めておりました」
「はあ」(イリ殿下との結婚を望んでおられるのか?)
「まあ、所詮かなわぬ恋ですが」
「はあ?」(なんなんだ?)
梁姫は、そのあとは一言も言葉を発さず、もちろんニコリともしませんでした。
結局、出来上がった肖像画は憂い顔のまま。
しかし、それはそれは美しい絵姿でした。
(あれは、私の最高傑作の一つだ。たしか婚約が破棄されたあと、セフィド・キタイの国宝として王宮の宝物庫におさめられたと聞いたが……)
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