第9話 少女の夢
三日後、シュンメイは旅支度を整えて、国を出ようとしていました。
「殿下には悪いことをしたな」
旅に出ることは、イリ王子には伝えることができませんでした。王子は成人の儀の前に禊をするとのことで、しばらくの間、寺院に籠らなければならなかったのです。それに、自分を世界一と信じてくれている弟子に合わせる顔もありません。
道すがら、大聖堂にさしかかりました。
大聖堂は頑丈な石造りで、一万人もの人間を収容できるという巨大施設です。
シュンメイが世界一の壁画を描くことになっていたかもしれない場所ですが、今では自分よりも遥か年下の少女が絵を描いていると聞きました。
「少し、覗いてみるか」
シュンメイは、雀の絵を描いた少女がどんな壁画を描くのか、どうしても見てみたくなりました。
大聖堂に入ると、先客がいました。
龍壮言とその一行でした。
皆、一心に聖堂内を眺めています。
シュンメイも、驚いて大聖堂の壁に見入りました。
絵を描き始めてまだ三日足らずだというのに、布で作った下絵が壁一面に仮留めされていました。
下絵に描かれていたのは、この国の姿です。
山があり、海があり、田畑があり、街があり、そのすべての場所で人々の笑顔がありました。山の幸はたわわに実り、漁をする船はみな大漁、田畑が黄金色に輝き、市場には活気があふれています。
理想の国土を描いた「豊国図」。祝い事によく用いられる題材です。
「シュンメイ殿とお見受けした。おぬし、これをどう思う?」
龍壮言が、シュンメイに声をかけてきました。
その表情に困惑の色が隠せません。それでシュンメイも、龍壮言が自分と同じ考えなのだと気づきました。
「龍壮言殿。おそらくあの少女は、わが国では良く使われる壁画の技法を用いるのだと思います。壁面に石灰を練りこんだ漆喰を塗り、乾く前に水絵具ですばやく彩色する。漆喰が乾く頃には、絵具の色合いが輝きを増します。この下絵どおりに完成すれば、すばらしい壁画になるでしょう。しかし、どう考えても……」
「おぬしもそう思うか。そのとおりじゃ。どう見てもこの図案、二月三月では仕上がらんぞ」
下絵の細かさと色数の多さ。少女ひとりで描こうとすれば、一年はゆうにかかってしまうでしょう。この下絵を完成させるだけで、彼女はおそらく一睡もしていないはずです。
当の少女は、大聖堂奥の二階部分の下絵を留めるため、高いはしごのてっぺんに腰を下ろしていました。噂どおり、顔にすっぽりと仮面をかぶっています。
シュンメイは、仮面の少女に意見しようと近寄りました。
そのときです。
はしごの上の肢体がふらふらと揺れたかと思うまもなく、少女は頭からまっさかさまに落ちてしまいました。
シュンメイはあわてて助けようとしましたが、咄嗟のことで体が思うように動きません。
大聖堂の床は、石造りです。このはしごの高さから落ちたのでは助かるはずもありません。シュンメイは思わず目をつむりました。
しかし、次の瞬間聞こえてきたのは、壮言の声でした。
「シュンメイ殿、おぬし、もう少し体を鍛えたほうがよくないかな」
シュンメイが目を開けると、自分よりも遥か後ろにいたはずの龍壮言が、かるがると少女を抱きかかえていました。
壮言は、少女の明らかな異常に気がつきました。
「おぬし、すごい熱ではないか。医者を呼ぼう。すこし休まなければ」
しかし少女はかたくなに「医者はいやだ」と主張しました。
絵を描き続けなければ、間に合わないというのです。
「そんな状態で描き続けても、到底間に合うはずがない。下手すると、命にかかわるぞ。おぬしの絵は、確かに美しい。しかしこの美しい絵は、本当のこの国の姿ではないな。こんな夢のような国は、世界中どこにもありはせん。言ってみればまがいものじゃ。まがいもののために命を懸ける必要があるのか?」
しかし、少女は答えました。
「この国は私の夢です。確かにこんな夢のような国はどこにもないでしょう。でも、なければ、つくればいいのです。もちろん私が王になれるわけではありませんから、私には国はつくれません。でも、王子は違います。だから私はその夢を、未来の王に託したいのです」
それを聞くと、壮言はにやりと笑いました。
「おぬし、名をなんという?」
「……スーリ」
「そうか。我が名は龍壮言、こちらの御仁は、シュンメイ殿じゃ。スーリ嬢も、絵描きであれば、知らぬ名前ではあるまい」
スーリはコクンと頷きました。
「よく聞くが良い、スーリ嬢よ、なるほど、いかにおぬしが世界一の絵師でも、一人では到底間に合うはずがない。しかしな、世界で二番目と三番目の絵描きが手伝うとしたら、どうであろう。なあ、シュンメイ殿」
シュンメイもうなずきました。
「まず、しっかり休んで体調を戻すことです。私たちが手伝えば、ちょっとの遅れなど物の数ではありません。まあ、どちらが二番目でどちらが三番目かはゆっくり話し合うとして……」
スーリは無言でうなずくと、安心したのか、そのまま眠りに落ちました。
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