第8話 絵師たちの決心

 それから、約一月が過ぎました。

 王宮の正門前には、シュンメイの滝の絵と龍壮言の竜図と並べて、少女の小さな雀の絵が飾られています。

 大臣たちは相譲らず、どの絵が世界一なのかはまだ決まっていません。

 その間に、変わったことが起こりました。

 門の前にたくさんの人が集まるようになったのです。

 少女の雀の絵は子供たちに人気で、絵を見たい子供や家族連れが休日をすごしにやってきました。すると、それまで畏れ多いと近づかなかった画学生たちが、滝の絵や竜図を勉強しに来て、模写をする姿があちこちに見られるようになりました。

 いつの間にか、王宮の正門前広場は、人々の憩いの場になっていたのでした。



 そんな中、世界一の絵師が決まらないことにいらだっていたのは、大臣たちだけではありません。

 ある日とうとうシュンメイは、紫大臣に直訴をするため王宮を訪れました。

 大臣は、以前王子が描いた庭園にいました。

 広い庭園には、大理石で作った噴水があり、王妃自らの手で育てられたバラの花があちこちに咲き誇っています。

 乾燥した気候のキタイ北部は、もともと薔薇やカーネーション、チューリップの原産地ですが、特に「キタイの薔薇」はその花弁の色が深く濃いことで有名でした。

 シュンメイは、紫大臣の前に恭しく膝をつきました。

「世界一の絵師を決めることが、難しい時間のかかる作業だということは承知しております。しかし、世界一の壁画を描くことのほうがもっと困難で、たくさんの時間を要するのです。もうそろそろこの辺で決着をつけていただかないと、壁画を描く時間がなくなってしまいます」

 紫大臣は、シュンメイを一瞥しました。

 その目には猜疑と憎悪と、何よりも強い疲労が浮かんでいます。

「何が言いたい」

「王宮の門に飾られた三枚の絵が、甲乙つけがたい、同じレベルの絵だということは私も認めます。しかし、誰に壁画を描かせるかということになれば、それは明らかです」

「なぜじゃ。申してみよ」

「ありがとうございます。まず竜図ですが、竜絵師というものは、竜しか描かないと聞いています。巨大な聖堂の壁画に竜だけというのはどう考えても無理があるでしょう。竜をいったい何匹描くつもりですか百匹ですか、千匹ですか、それが世界一の壁画といえますか」

「むう」

「それから雀の絵です。あれもよい絵ですが、あの白黒の絵では、作者がどのくらいの色彩画をかける男かわかりません。成人の儀式の壁画が白黒というわけにはいかないでしょう」

「フン」

「とすれば、成人の儀にふさわしい世界一の壁画を描けるのは、この私のみでございます。イリ殿下のために、どうかご決断を」

 シュンメイは深々と頭を下げました。

 しかし、紫大臣の心は頑なでした。

「それで、お前を世界一にしろというのか。ふん、ばかばかしい。それに、知らないようだから教えてやるが、雀の絵を描いたのは男ではなく、まだ十四、五の小娘ぞ」

「なんですと?」

「シュンメイよ。おぬしはキタイ一の絵描きといわれて浮かれておるようじゃが、所詮子供と同じレベル、まだまだというわけだのう。無論、我々大臣としては、正体もわからぬ子供に大事な壁画を描かせるつもりはない。だから、おぬしが本当にイリ殿下のことを思うなら、おぬしが辞退すればいいのじゃ。そうすれば、すぐにでも龍壮言に絵を描かせられる」

 紫大臣は、ここぞとばかりにシュンメイを非難しました。

「それを、『イリ殿下のためを思って、私を世界一に』だと。絵で勝負がつかぬからといって、今度は小理屈を並べおって。語るにおちたな」


 シュンメイは、雀の絵の作者が子供だと聞いて、びっくりしました。

 正直に言って、シュンメイはあの三つの絵の中で、雀の絵が一番優れていると思っていたのです。

 もちろん、滝の絵はシュンメイの作品の中での一番ではありません。せいぜい、中の上といったところです。

 本気さえ出せば自分のほうが上だろう、シュンメイはそう思っていました。

(しかし、そんなことを思うこと自体、私がいかに絵の序列に心を取られているかという証拠だ)


 シュンメイは、自分が国一番の絵描きになったときのことを思い出しました。

 もう、十年以上前のことです。

 当時、国一番といわれていたのはシュンメイの師匠でした。

 しかし、若いシュンメイが次々に傑作を描き出すと、周囲には「キタイ一の画家はもう、師匠でなくて弟子のシュンメイだろう」という者が出てきました。

 シュンメイにとって、師匠は親も同然です。どちらが優れているかなど考えたこともありませんでした。

 その師匠が、シュンメイの絵を見ていいました。

「むう。もう、わしよりお前のほうが優れているな。これより、国一番はわしではなくシュンメイ、おまえじゃ。」

 その後、師匠はアトリエや画廊を全部シュンメイに譲りました。これからどうするのかと聞くシュンメイに、師匠は答えました。

「まあ、世界を旅して回るさ。そして、いろんなものを絵にしよう」

 師匠の絵と自分の絵とどちらが優れていたか。

 今考えても、シュンメイにはっきりと答えをだすことはできません。

 そして、師匠とはそれ以来会っていません。


(今にして思えば、師匠があんなにあっさりと私にキタイ一の座を譲ったのは、誰が一番で誰が二番という争いに自らの心が巻き込まれていくのを嫌ったからではないだろうか?)

(そして私は、キタイ一の名を受け継いだばかりに、知らず知らずにそれに囚われている)


 シュンメイは、一瞬のうちに心を決めました。


「大臣殿、わかりました。私は、どうやら世界一ではなかったようです。辞退させていただきます」

 シュンメイはそう告げると、紫大臣に背を向け、庭園を後にしました。

「え? は? なにぃ?」

 紫大臣は、突然のシュンメイの辞退にびっくりしましたが、

「こりゃ一大事、あやつの気の変わらんうちに……龍壮言殿! だれか、壮言殿はどこにおられるか!」

 あわてて、龍壮言を探そうとしました。

 しかし、すぐにその必要がないことがわかりました。

 音楽が聞こえてきたからです。

 異国の笛と太鼓、龍一門の登場です。

 御輿の上から、龍壮言がバサッと飛び降りました。老人とは思えぬ身のこなしです。

「大臣殿、ここにおられましたか。捜しましたぞ」

 紫大臣も、大急ぎで駆け寄りました。

「壮言殿、ちょうどよいところに来られた。たったいま、シュンメイが辞退をしまして、これで壮言殿が世界一に決まりますぞ」

 それをきいて、龍は困った顔になりました。

「それは、ありがたい。ありがたい話じゃが、……大臣殿、少し遅すぎましたぞ。我輩、イリ殿下の成人の儀式にふさわしい世界一の壁画に、題して「千匹の龍舞」、千匹の龍が華麗にかつ豪快に舞い踊る姿を描いたこれまでの歴史にない超大作を作るつもりでありました。しかしその超大作、どこをどう計算しても、完成まで三ヶ月かかります。つまり今からでは、一日、間に合いません。したがって我輩も、今回のお話を辞退させていただきます」

 これを聞いて、紫大臣はあわてました。

「いや、そんなことをおっしゃらずに! 龍は千匹いなくても構いますまい! 九百匹でも八百匹でも、なんなら五百匹でも!」

 しかし、龍壮言は首を振りました。

「我輩は、誇り高き龍家の二十七代目である。間に合わぬとわかって未熟な作品を作り、汚名を残すことだけは死んでもできもうさん。それでは、これにてごめん」

 去っていく老絵師の背中を、紫大臣は呆然としてみつめました。

 さっきまであれほど誰に壁画を描かせるか揉めていたのに、今度は一転して、壁画を描いてくれる者がいなくなってしまうとは……


 その時でした。

「紫大臣!」

 と、大臣を呼ぶ声がしました。

 大臣が振り向くと、薄桃色の衣をまとった少女が薔薇園の真ん中にいました。その軽い足取りは、まるでふわりと空から降りてきたように見えました。

 少女の顔には、いつぞやの仮面がついています。

 あの雀の絵を描いた少女でした。

「お、おぬし、どこから?」

 少女は含んだように笑います「。

「大臣、世界一の絵師は決まりましたか?」

 紫大臣は、もしかするとこの少女は自分を助けに来た天使かもしれない、そう思いました。大臣は腹の底から声を絞り出しました。

「世界一の絵師は、まだ決まっておらぬ。だがしかし、おぬしに世界一の壁画を描いてもらいたい」

 断られるのは承知の上です。あの有名な画家二人が出来ないというものを、まだ子供といってもいい少女に出来るわけがありません。

 しかし、少女はあっさりと答えました。

「わかりました。喜んで」

「儀式まで、あと三カ月ない。それでも、やってくれるか?」

「はい」

 少女はうなずきました。

 同時にそよ風が吹いて、辺りの薔薇の花を揺らしました。大臣には、その仮面がかすかに微笑んだかのようにみえました。

「かたじけない」

 大臣は少女の手をとって深々と頭を下げました。

「まだ、名前を聞いていなかったな。娘よ。いや、世界一の絵師よ。名をなんと申す」

「……スーリ」

 スーリとは、キタイの言葉で『薔薇』の意です。


 かくして、イリ王子の成人の儀式のための壁画は、少女スーリに委ねられることになったのでした。

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