第4話
裁判官が被告人に質問した。
「先ほど、あなた自身が言ったように、殺人以外にも方法はあったはずです。それをしっかりと認識しておきながら、あなたは殺人という手段を選択した。なぜ、被害者遺族や加害者家族の救済の手段として、犯罪者の殺害を選んだんですか?」
検察官や弁護士は、すでにその理由を聞いているのだろう。特に身を乗り出すこともなく、自分たちの席で静かに話を聞いていた。代わりに傍聴席にいる百数十人という人たちは、興味津々といった態度が行動に出てしまっているのだろう。前の座席の背もたれに寄りかかるような勢いで一語一句を聞き漏らしてたまるかといった感じで話を聞こうとしていた。
「理由は2つです。
1つは既にお伝えしましたが、圧倒的な恐怖というのは強い抑止力になるからです。凶悪犯罪を起こしたら殺されるかもしれない。そういった恐怖が本能を刺激し、犯罪へ走る衝動を抑えられると考えたからです。
2つ目は、理解され難いことだと思いますが、話しましょう。
私は常に善悪の基準を考えてきました。何が「善」であり、何が「悪」なのかを。その中で達した結論は、「善」とされている事は続き、「悪」とされることは何処かで必ず根絶されているという事です。
その論理から、殺人という行為を考えてみました。全ての国において法律で「悪」だと位置付けられ続けているにも関わらず、人類が誕生してからずっと行われ続けている行為である殺人は、果たして人間にとって本当に「悪」なのかと。
そもそも殺人は、なぜ法律上で処罰の対象行為として定義されているのか?
地球上の生物の中で同種族を殺す生き物は存在しているが、人間は言語化して禁止しないと同種族を殺してしまう野蛮な生き物なのか?
遥か昔から「人を殺してはいけない」という行為をなぜ、あえて言語化しているのか?
など、様々考えてみました。
その中で達した結論としては、「殺人」を禁止することを言語化し禁止させているのは、昔は機械やロボットもない時代であり労働力となる国民の身体は権力者からしたら貴重な資源だった。その貴重な資源同士が些細な憎しみに支配されて潰し合われる事をヒドく嫌った権力者が命令として禁止したのではないか。
そもそも人間は同族を平気で殺せる本能を持った野蛮な生き物として設計されており、その意味としては集団生活をする事で外敵から身を守るしか無かった弱い人間が自分たちが生き残るために、集団行動を乱す一部の分子を取り除くために神様が用意した自浄能力なのではないかと。
だから、何先年という長い年月を経てもなお続く行為であり、残っているという事は善い事なのではないかと考え、殺人という方法を選択しました。
人間が人間を殺すことは「集団生活を乱すもの」を自分たちの命を守るために排除するための自浄行為である以上、何の罪もない人を殺すことは人間の本能として認められているものでは無いと考えているので、私は88人の中で罪のない人間を殺す事はせず、犯罪者として確定した「集団生活を乱すもの」を排除するために殺人を犯したのです。
ただ、冒頭でも言いましたが、法治国家である日本で暮らしている国民である以上、現在の日本において殺人を犯したものは、それに応じた罰を執行されるべきだと認識しています。なので、私の行為そのものは今の日本においては重罪であり、私自身が「集団生活を乱すもの」である事も認識しているので、死刑であることは最もであり、自分の行為を肯定するつもりは、ありません。」
衝撃の告白を受けた傍聴席は静まり返っていた。裁判長も、言葉自体は理解できても、その文脈の意味までは理解し切れないといった表情をしていた。
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