第3話 思い出した、僕の正体

ひどい汚臭だ。鼻を抑えながら玄関に近づくと、一か所だけゴミがわきによけられ、人一人分が入る隙間があった。意を決して中に入る。とたんに何かが足元に近寄ってきた。犬だ。  

随分と老いていて眼球は白く濁っている。栄養不足なのか肋骨が透けて見え、近づくとハッハ、と短く息をしている。この犬も随分と匂った。犬を抱え上げ、玄関の外に連れ出してやると寂しそうな目でこちらを見つめた後、座り込んだ。逃げるほど体力はないらしい。前に目をやり、足の踏み場もないような廊下を何とか移動し、突き当りにあるリビングを覗いた。

そこには、匂いの根源がいた。ベッドで横になり、たまにああ、とかうう、と不明瞭な声を出している。あれが若い頃は自由に歩き回り、子供さえ生んだというのがまるで信じられない。

老いた女だ。目は落ち込んでくぼみ、なんだか穴が二つ開いているように見える。皴皴の口元にはほとんど埋没した唇があり、そこから人の声とも思えない声が漏れ出していた。

「母さん」

呼びかけるとその二つの穴がこちらを見た。途端に流れ込むように今までの記憶が脳に蘇った。僕と、母の記憶だ。

夫婦仲が悪く僕が幼いうちに離婚をした。父はすぐに新しい家庭を持ったこともあって僕は必然的に母のもとに預けられることになった。まわりと自分は違う、と気づいたのはこのころで、でもだからと言ってどうしようもなかった。

女手一つで息子を育て上げる母は毎日帰りが遅く、家事もほとんどできない。いつも隣町にあるお惣菜屋で何か買っては、晩御飯として空腹を満たしていた。

学問に目覚めたのはちょうどそのころで、部屋に置かれた広辞典や家庭の医学という分厚い本を読み、知識を得ることが唯一の娯楽だった。好きこそものの上手なれ、ともいうがまさにその通りで学校の成績は常によかった。

ゆえに大学まで行かす気のなかった母はかなり気に病んだ。そんな母を見ていられず、進学は断ったのだが、奨学金をもらう条件なら通わせてもいいと奇跡的に許しが出た。後から知ったことだが、かなり貯金を切り崩していたらしかった。

近くの大学はみな落ちてしまい、奨学金を得たまま学校に通うためにはワンランク下げた県隣の大学に行くしかなく、一人暮らしが始まった。働きながら学校に行くことが楽しかった。それはおそらく初めて親元を離れたことが大きいだろうが、その自由は楽しかった。  

学問にも打ち込み、無理を言って大学院にまで進んだ。母のことなど、すっかり忘れていた。やがて自分にも交際相手ができ、ますます母に対しては疎かになっていった。博士課程を得、そのまま教授として確立していき、その後に結婚した。子供も二人生まれた。妻の実家から近い場所がいいという要望でその近くに一軒家を構え、なかなか満ち足りた生活を送っていた。

____母が倒れるまでは。

こちらがないがしろにしていたのが悪いと重々承知の上で、介護を引き受けた。妻が母の介護を一人で引き受けたため、すっかり終わったこととして楽観的に受け止めていたのだが、その後、意思疎通のできない継母の介護に手を焼いていた妻はほかに男を作っていたらしい。

母が一人で暮らす実家には誰も訪れず、気が付けばこんな有様になっていた。あれ以来、講義の合間を縫っては母のもとを訪れるようになった。仕事があるから、四六時中母の介護はできない。だから、自分なりに考えた。急に体調が悪くなれば、すぐにボタン一つで駆け付けられる電話を取り付けた。近隣住民にも、恥を忍んで母の様子を気にかけてくれないか頼みにも言った。

だが、そんなものを取り付けても、母は使い方を忘れる始末でほとんど意味をなさなかった。近隣住民も、手が付けられないほど荒れたゴミ屋敷にわざわざ足を運びたくはないと断られた。それどころか、悪臭もすごいので僕が何か手を施さないと法的措置も考えると言った訴えまで起こされた。

それは流石に困るので何とかその方には説得をして大事にこそなってはいないが、だからといって現状のままでよいわけはなかった。先ほどのタクシーの運転手の発言から行くと、僕の知らない間にまた母はやらかしたらしかった。

こんな密集した住宅地では情報が回っていくのも早い。また悪い噂が立つかもしれなかったし、こういう噂は大抵ある事ない事も同時に噂されるので都合が悪かった。

とはいえ、自分を生んだ母を見殺しになど出来なかった。いつ倒れるか分からない母のために神経をすり減らしながら、働いていた。時々突然授業を休講にせざるを得ないことも多くあった。

母がこちらを見ていた。要介護三で、もう僕のことはほとんど分かっていないはずだった。そのはずなのに。

「今まで苦しめてごめんねぇ」

母は自分の置かれた状況を理解していた。自分は介護されている人間だと言うこと、そしてそれが息子を苦しめていること。奇跡か、幻か。口を開けたまま何も言えない僕に母は続ける。

「ちゃんと思い出したから。もう、なにも櫂はせんでええんよ」

そういうと歩けないはずの母はベッドから起き上がり、ゴミがうず高く積まれたキッチンまで行くと何かをし始めた。近寄って、母の行為が一体何を示しているのかに、ようやく気付く。あれは、ガスの_______


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